考察

2020年07月14日

「萌え」の構造 ~「萌え」の対象物と感情内容~

萌えとはなにか?「萌え」感情の構造論


「萌え」とは俗語として現代に生まれた感情の表現方法である。
 Wikipediaの「萌え」の記事の定義を見る限り、
「対象物に対する”狭くて深い”好意」という意味を含み、それよりは浅くて同種の感情を表す「好き」という言葉を使うのにふさわしくない場合に用いられる。
とある。

 筆者が考える限り、上記の定義に則るならば、「萌え」とは、「かわいい」や「好き」と言った感情よりはより具体性を伴った、類型性が見いだせる感情であると考える。
 この記事では「萌え」を構造的に分析し、一定程度の定義付けを行うことを目指したい。


対象物:「キャラクター」に対する愛情としての「萌え」


 日を追う毎にますます広い対象物に用いられるようになった「萌え」という言葉に対して、筆者なりに考えたのは、「萌え」という言葉が用いられる対象は、何らかの「キャラクター性」を伴っているという事である。
 ここで、この記事における「キャラクター性」とは何かを定義しておかなければならない。「キャラクター性」とは、擬人化、デフォルメ化、アイドル化によって見いだされた「主観的(に見いだされる)人格像」であり、「客観的非実在人格像」とも言える。

 ここで「萌え」という言葉が使われる対象についてまとめてみる。一つに、アニメまたはゲーム等の創作物に対するキャラクターという「仮想的人格」である。これは分かりやすいであろう。つまり創作物の「主観的人格像」を対象としており、「キャラクター」が包括する要素に対して「萌え」という言葉が使われる。
 第二に、実在する人物、例えばアイドルなどに代表されるのだが、そういった存在に対しても、「萌え」という言葉が使われる事がある。実在する人物の「キャラクター性」とは、「客観的非実在人格像」である。いわば「半仮想的人格」である。つまり客観的に見れば、アイドルというのは、一種の「キャラクター」であり、一応断っておくならば、もちろんアイドルファンはアイドルの「キャラクター」を超えて、いわゆる「素の人格」をも愛する事はあるのだが、全体として総括すればそこには一定の客観的な被造的、仮想的人格である「キャラクター性」が含まれているのである。
 第三に、無機物に対する「○○萌え」という用法が挙げられる。代表的な例を上げるならば「工場萌え」である。これは一定程度の対象の擬人化と対象そのものが持つ本来的な特徴とが入り混じった形の「キャラクター性」であると考えられる。対象の持つ「機能美」と「主観的人格像」が入り混じった好意であるとして捉えると分かりやすいかも知れない。

 つまりそうした「キャラクター性」を帯びた存在に対して使われる感情の表現が「萌え」なのではないかということである。付け加えるならば、「萌え」という言葉を使う側も、一定程度の認識の上でその「キャラクター性」の仮想性、「主観的人格像」性を認めており、実在する人物のそのままの人格にたいして用いる好意である「好き」とか「愛」という感情とは、また違った形の感情であることを認めた上での表現が「萌え」だということである。

 さらに言えば、「萌え」の対象である「キャラクター性」とは一定程度「デフォルメ化」されている、という点も挙げられる。デフォルメとは、意図的にある部分が誇張、強調化、または簡略化する手法であるが、多くの場合、「キャラクター」とは何らかのテーマ性を持って、強調される部分と簡略化される部分がある。
 本来「人間の人格」とは、様々な相反する要素が並立し、時には矛盾すら見られる形で構成される複雑で分かりにくいものであるが「キャラクター」の場合は、その人格に一定程度の主題性をもたせ、強調すべき所を強調し、はっきりと分かりやすいものにするということがある。そういったデフォルメされた「キャラクター性」に対する感情表現に特有なのが「萌え」なのではないかという事である。

感情内容:疑似恋愛あるいは理想主義の体現


 さて、「萌え」という言葉が使われる対象についてまとめたところで、次は「萌え」という言葉に含まれる感情について考える。これは前述の対象物のように類型化することは難しい。「かわいい」とか「好き(likeである場合もあるが概してlove)」とかあるいは純粋な好意といった感情が様々に入り混じった感情であるからである。

 あえて特徴づけるとすれば、多くの場合対象物に対する「疑似恋愛(疑似関係)性」という特徴がある。つまり、「主観的人格」を認めた相手を恋愛または自己との関係対象に見立てて、「キャラクター性」故に無差別に振りまかれる好意を受け取って自身と対象を結びつける。つまり自分と対象物を何らかの形(純粋な好意関係、恋愛感情、あるいはエロティシズム)で結びつける、あるいは結びつけたいという感情を前提として、かつその行為を「愛している」というような直球の表現を避ける奥ゆかしさが含まれた言葉として「萌える」という表現が使われるのではないか、という事である。

 もしくは、対象物に対する理想主義的な憧れをも指すのではないか。「キャラクター」は「デフォルメ化」された人格として振る舞う。それは「デフォルメ」によってテーマ付けられた人格的一貫性による、普通の人間には見出すことの出来ない、あるいは見出すことが難しい理想的人格像、「理想の体現」、「憧れ」を感じさせるものであり、対象が非実在性を伴った「キャラクター性」を帯びている事によって成立する、理想主義に基づく崇敬感情なのではないかという事である。言い換えると、「デフォルメされたキャラクター性」とは人間の人格に求める理想主義の体現と言え、それに対する「非実在だからこその理想の体現」に対して、単なる「好き」や「愛する」を超えた「萌え」なのではないかという事である。



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2020年07月13日

私版・唯物史観的「インターネット」発展段階論 ~マルキシズム的な何か~

この記事は過去に書いた筆者のインターネットの歴史に関する一考察、【インターネットの発展段階史】別世界としてのインターネットと、現実の延長としてのインターネット 【考察】の内容を大元の下敷きにして、より詳しく、インターネットの歴史をある種「歴史学」として捉え、考察をするものである。

唯物論的史観からみる「インターネットの歴史」



目次
●初めに・マルクスについて
インターネット唯物史観・発展段階論説
唯物史観・発展段階論的な視点から予測されるインターネットの今後
●終わりに(ネタバラシのようなもの)

初めに・マルクスについて


 さて、初めに断っておくがこの記事は「インターネットの利用者意識の変容」を発展段階論的な視点から、マルクス主義における唯物史観に基づいて分析するものである。
 
 「マルクス主義」、「マルクス思想」。人によってはこの言葉を聞いただけで拒否反応が出る人もいるのではないだろうか。それはやはり「社会主義」という「理想」と、数々の「マルクス主義」をもとにした社会主義国家の失敗という「現実」によるものであろう。
 ただ、断っておきたいのは、「思想家」「経済学家」としてのマルクス主義は今日においてほとんど扱われなくなったと言っても過言ではない状況であるものの、「哲学」、「歴史学」、「社会学」においては未だにマルクス主義的価値観が息づいているのだ。
 なぜならば、「社会主義の提唱者」としてのマルクスは残念ながらある種の「夢想家」というのが否めないものの、「既存の社会・資本主義の分析者、及び19世紀における資本主義の破壊者」という意味においてはマルクスというのは天才的だったと言わざるを得ないからである。

 例えばマルクスに対する評価を挙げると、マルクスの伝記を書いたE.H.カーによれば、
マルクスは破壊の天才ではあったが、建設の天才ではなかった。彼は何を取り去るべきかの認識においては、極めて見通しがきいた。その代わりに何を据えるべきかに関する彼の構想は、漠然としていて不確実だった。」
「彼の全体系の驚くべき自己矛盾が露呈せられるのはまさにこの点である」
との評価である。

 「歴史学」においてマルクス思想が息づいているというのは、まさに彼の「発展段階論」「唯物史観」的歴史観に代表されるものであり、特に日本の歴史学会にてはもちろん批判も数多くなされてはきたが、今なお色濃く根付いているのだ。

 さて、前置きがだいぶ長くなってしまったが、この記事では、インターネットの歴史を「歴史学」として捉え、唯物史観、発展段階論的な視点から考察を行っていきたい。
 なお、言い訳として一応断っておくと、筆者はマルクスに関しては少し勉強したつもりではあるが、素人である。そのため間違いなどもあるかも知れないが、その点はご容赦いただきたいと同時に、コメント欄などでレスポンスをいただけると嬉しい。


インターネット唯物史観・発展段階論説


 さて、本題であるインターネットの歴史に対する一考察を始める。
 前置きとして、この記事は、唯物史観的な視点から、「別世界」であるか、「現実の延長」であるかといったような「インターネットの利用者意識」をインターネット社会の「上部構造」として捉え、物質的、技術的なインターネットの「生産力」とも言える物理的発展を「下部構造」として考える。「上部構造」は「下部構造」によって規定される、即ちインターネットの利用者意識や使い方、インターネット社会の変遷というものは、「下部構造」である技術的な水準によって制約され、規定されるという考え方である。

 かつてインターネット黎明期から初期にかけては、チャットや匿名掲示板といった場所にて独自の文化や世界観が形成され、インターネット世界という別世界的なインターネットが展開されていた。というのも、チャットコミュニティや匿名掲示板といった場所では、現実と隔絶した振る舞いが許容され、現実ありきではなく、インターネットという場を前提としたコミュニケーション、つまり別世界としてのインターネットが展開されていたのである。
 これを「下部構造」、即ちインターネットの「生産力」という視点から捉えると、当時はまだコンピュータそのもののスペックや回線の速度といった限定から、インターネットは文字媒体としてのメディアとしての振る舞いが強かったと言える。文字を主体にするということは、読み手である利用者にある程度の想像力が問われなければならないのと同時に、この時点でこの後のインターネットの時代である「現実の延長としてのインターネット」を踏まえて言うと、この時代におけるインターネットは、現実の延長として、現実の出来事を報告するのにそもそも不向きだったということである。よって、現実とインターネット上との非リアルタイム性からネット上のみで成立しうる独特の文化が生まれ、発展する余地があったと言える。つまり「上部構造」であるインターネットの利用者意識は、発展途上のインターネットにおける文字主体時代という構造に規定されていたと言える。
 これがやがて技術発展によって徐々に変化してきた。コンピュータスペックの高性能化とインターネット回線の高速化によって、大容量のファイル、高画質な画像であるとか動画をネット上にアップロードすることが容易になってきたのである。ちょうど2000年代中盤以降の事である。ただ、この時点においては「上部構造」としてのインターネットの利用者意識が変化するにはまだしばしの時間が必要であった。

 決定的に「下部構造」が変化し、「別世界としてのインターネット」という「上部構造」に変革をもたらしたのは、恐らくはスマートフォンの登場だろう。それ以前の携帯電話と異なり、小型のコンピュータと高性能なカメラを兼ね備えたこの電子機器が技術的に実現し得る決定的な「下部構造」における「ネット生産力」の増大ととともに、「上部構造」は変化していった。付け加えるならばスマートフォンという「現実の報告」にうってつけの機器が登場したことによって初めて、SNSといったサービスが登場しうるだけの下地が整ったのだと言える。
 スマートフォンの登場と、それに伴うSNSという革命こそが「インターネットの現実の延長」化を決定的に促進した。もはや人々はありとあらゆる場所で、リアルタイム的に現実の出来事を画像、映像あらゆる形で報告することが出来るようになり、従来型の形の見えない相手との会話である匿名掲示板から、より明確に相手が見えるSNSへとネットの主体が移行していった。コミュニケーションは実体性を帯びたものとなり、多かれ少なかれ現実が想定される時代へと移り変わったのである。

  つまり唯物史観的にインターネットを捉えれば、インターネットという存在の利用者においての意識という「上部構造」が、「別世界」から「現実の延長」へと移り変わったのは、つねに電子機器の性能やネット回線というインフラに関する技術的制約という「下部構造」に規定されたと言えるのではないか。

唯物史観・発展段階論的な視点から予測されるインターネットの今後


 さて、ここまでが今日においてのインターネットの歴史的な概要である。では、今後のインターネットのあり方は、どのように変化していくのだろうか。「下部構造」としての技術的進歩において予想されうるのは、ますますの電子機器の小型化高性能化、5Gに代表される回線の高性能化、そして更に挙げるならば、「人工知能」と「ヴァーチャル」技術の進歩である。まず電子機器のスペックアップと回線の高性能化によって、「ネット生産力」とも言える「情報量」はますます膨大になっていくと考えられる。それに伴って、「ヴァーチャル」技術が実用化し普及することによって、「上部構造」には再度革命が起こる。

 即ち、「ヴァーチャル革命」による再びの「インターネットの別世界化」である。奇しくもマルキシズムにおける原始共産制から資本主義へ、資本主義の成熟から社会主義への革命へというような構図と一致してしまったが、技術的成熟によって、「インターネット」そのものの存在がさらなる変化・飛躍を遂げるということ自体は十分に考えられる事である。そこで基軸となる技術が「ヴァーチャル」であると、あくまで筆者の考えであるが、そう予想している。そして「別世界」としての「ヴァーチャル世界」の成立により、人類社会そのものが大きな変革を経験することになるだろう、と筆者は考えている。


終わりに(ネタバラシのようなもの)


 さて、筆者によるマルキシズム的な何かによるインターネットの発展段階論的歴史展開を延べた。これまでのインターネットと、そしてこれからを考えるのにあたって、「別世界的インターネット」→「現実の延長的インターネット」→「別世界のインターネット」という段階を踏むであろうということは、前述の通り、奇しくもマルキシズムにおける経済発展段階説と一致した。

 ただここで気をつけなければならないのは、「マルキシズム」がもてはやされた所以は、「何にでも当てはまる」という利便性が一因としてあるということである。「発展段階論」を適応すれば、歴史のあらゆる時代と場所に説明がつくと期待されていた時代もあった。ただし、それほど現実は単純なものではない。科学的に世界を分析できるという理性主義の時代に生まれたのが「マルキシズム」であり、その限界性は後の時代において露呈することとなった。
 そのため、インターネットの歴史というものを単純化して考えて、「発展段階論」を適応すればある程度当てはまるというのは、そもそも「マルキシズム」の性質から当たり前であると言えば当たり前であり、決してこれが安易に良く出来た分析であるなどということは筆者自身あまり思わない。少なくともインターネットの「過去について」の分析はともかく、未来における、「マルキシズム」における「社会主義」に値する「ヴァーチャル革命」がそうやすやすと、自然に行われるとは考えていない。それについては、思想が必要であり、筆者が提唱する「ヴァーチャリズム」はそのためのものである。というと、なんだか「マルクス・レーニン主義」っぽくなってしまうような気がするが。
 さて何事もなく世の中が進めば、ドラスティックな「ヴァーチャル革命」というか、少なくともヴァーチャル技術の進歩はもちろんあるだろうが、あくまで既に確立した「現実の延長としてのインターネット」とは並立して存在していくものだと筆者は考えている。
 くれぐれも「マルキシズム」の利便性に簡単に惑わされないよう注意していただきたい。


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2020年07月11日

(追記版)【考察エッセイ】「盗めるアート展」についての個人的所見 ~決まり事に担保された善悪論が崩れる時~

(2020/07/11午後8時追記):トレンド性の強い話題のためか、この記事はこのブログにしては比較的多くの方が読んでくださった。今現在特にお叱りもご批判もうけてはいないが、しかし、今現在を持って読み返すと、批判を恐れるあまり、のっぺりとした平坦な、何を言いたいのかわからない内容になってしまった事は否めないと感じた。そこで、こちらの記事は順次修正追記を行って充実させていく。
念の為、初版の記事を別途(初版につき、こちらは読まなくてもいいです)【考察エッセイ】「盗めるアート展」についての個人的所見 ~決まり事に担保された善悪論が崩れる時~で挙げておくが、前述の通り、ただのっぺりとした平坦な内容であることは否めないため、特に理由がなければこの記事をご覧になることを推奨する。

「盗めるアート展」の結果は必然的だった?



 最近「盗めるアート展」というのが話題となった。概説すると、「来場者は一人一点まで自由にものを持って帰って良い」というコンセプトに基づいた、一種のアート的、実験的試みなのだが、結果多数の人が殺到し、開始前から館内に人が雪崩込み、半ば暴徒と化したような様相を呈し、スタート前に全ての展示物が「盗まれ」、展示会は終了と相成ったという経緯である。
 この事については様々な意見が寄せられた。「盗めるアート展」という実験的試みに対して、このような結果に終わるということこそが、現代社会を反映した一連の「アート」であるという意見も筆者個人的に興味深かった。

 この記事では、「盗めるアート展」によって露呈した人々の心理、なぜこのような結果になったのか? という事を筆者個人的に「日本人の道徳観」と「群集心理」という点から思想的に論じてみたい。もちろん異論反論なども多くなるだろうし、扱う事がなにぶんトレンドの話題であるから、お叱りなどを受けることもあるかも知れないし、もちろん異論反論お叱りがあれば、それは受け入れるつもりだが、あくまでこの記事は浅学な筆者なりの拙い意見の一つとして、どうかご容赦いただいた上で読んでいただきたい。


「日本人」の道徳的規範と「群集心理」



 結論から言うと、筆者はこの現象は、「盗めるアート展」という特殊環境と、「決まり事に基づいた傾向のある日本人の道徳観」と「群集心理」との三つの結びつきによって必然的に起こったものだと考えている。

 一般に「日本人」は遵法精神の高い民族性をもった人々であると言われる。ではなぜそんな「日本人」がこのような半ば暴徒化したようなモラルのない行為行動を取ってしまうに至ったのか。

 なお、「日本人」というとても大きな主語を用いて言葉を使うのは本来、筆者の心情、理念にも反するし、もちろん例外などいくらでも挙げられるのだが、ここではその民族性という前提に立って、あえて「日本人」という大きな主語を用いて考察を進めてみたい。
 もちろん様々な異論反論などがあるだろうし、当然のことながら「あんな一部の人々を取り上げて「日本人」と一括にするな」というお叱りの声も当然あるかも知れないが、ここでは筆者なりの考え方の一つとして捉えて欲しい。

 なおこの記事で、いちいち「日本人」と括弧付きで表現しているのは、極めて大きな主語を扱っているという意味で、「日本人」という言葉の意味を、筆者自身が慎重に扱うという理念を忘れないため、また読者の皆様方がある種筆者に批判的になりながら、「大きな主語」を慎重に受け取ってほしいという意味合いを込めたものである。


 さて、「日本人」は一貫性のある「哲学」のない民族であるとよく言われる。
 例えば「丸山真男」的に言えば、様々な外来からの「宗教」であるとか「思想」によって影響を受け続けた結果による、「日本人」自身によって形成され得る思想的体系性の歴史的欠如であり、今日において「日本人」が雑多な宗教観を持ち合わせた、無宗教的な振る舞いを見せることもその一つであると言えるかも知れない。ただ、厳密に言えば「無宗教的」な振る舞いを見えるだけであって、「無宗教」ではない。人々の道徳的規範には「ご先祖さま」とか「お天道様」というような価値観が見られることもある。ただし、それが思想的に様々な価値観を取り入れた「足し算の思考」であり、体系化されていないから、「宗教的自認」が薄く、あなたは何の宗教を信じているかと外国人に問われた時に「無宗教」であると答えてしまいがちであるという話である。

 さて若干話が逸れたが、繰り返し述べると「日本人」における「思想」は不明瞭かつ不安定であり、体系性に乏しいという事である。筆者が言いたいのは、それが悪いとか劣っているとか言う話ではない世界には様々な民族の価値観があって、それはそれぞれ尊重されるべきであるし、「日本人的」な、良いものをたくさん取り入れるという「足し算の思考」というのも、多様性が重んじられる昨今の世界においては重要な理念であると筆者は考えるからである。

 ただ、今日においても「日本人」は「宗教観」であるとか「哲学」であるという「普遍的理念」を欠いて、その結果「法律」という「決まり事」によって「善悪感」が担保されている部分が大きいとも言えるのではないかと筆者は考える。つまり条文としての法律こそが、そのまま道徳的規範になっており、ここで一応断っておくが、もちろん法律というのは、日本においては主に西洋から輸入された西洋における「普遍的理念」に基づいて体系性をもった憲法、法律、民法という法学を学んだ人々によって作られ施工されており、法を学び、作り関わる側の人間というのは一定の「体系的な理念」を学んだ上で法を作って運用しているだろうし、そうであってほしいのだが、当の民衆側において、施工されている「法律」そのものの思想的、道義的意義を問うという試みは諸外国、具体的に言えばアメリカなどに特有なのだが、既存の法律そのものに対する道義的観点からの改善という社会改良行為は甚だ少ないと言える。

 つまり何が言いたいのかと言うと、私達「日本人」の善悪感はもともと「法律」という決まり事に依る所が大きいということである。「宗教的価値観」のようなものが薄く、「法律」で決まっているから盗みはいけないし、「法律」で決まっているから、人に迷惑を掛ける事は良くないという事である。法律が前提にあって、法律に決まってるから、法律を守る。なんだか鶏と卵のような話であるが、それが「日本人」に特徴的な道徳観の一つの前提なのではないか。
 もちろん、「日本人」個々人に道徳観が法律以外にないと言うのではない。個人個人は様々な事を考えて、法律に対しても様々な疑問異論を考えることもあるだろうが、ここで問題なのは、これは人類に普遍的なことなのだが、個人を超えて群衆化したときの「群集心理」は極めて不安定で衝動的で、判断力が低下し、価値観が単純化されやすいということである。
 人々の集合である群集心理において、私達の社会、社会という存在そのものが「吉本隆明」的に言えば、個々人の共同幻想的なものであると言えるが、社会という群集において、私達の道徳観はいよいよ「法律」という後ろ盾に一般化・一元化され、私達「日本人」が普遍的に持ち合わせている「法律的道徳観」こそが最後の後ろ盾になるとも言えるかも知れない。

 ここで「盗めるアート展」において、「盗んではいけない」という「法律」の前提が消えた。制限はあるとは言え、盗みが許容されたのである。すると不安定で衝動的な群集心理によって、「法律」によって規定された道徳性、後ろ盾の消えた群衆はいよいよ善悪感が薄れ、暴徒と化す。その結果が御存知の通りであるというのが、筆者による一考察である。

 ここで断っておきたいのだが、「盗んでも良い」という環境におかれれば、何も「日本人」に限らずあらゆる人類が群集心理として同じことを行うのではないかという疑問を抱く方もいるかも知れないが、「日本人」に特有なのは、「盗んでも良い」と言われて初めてこのような行為行動を行うのであって、もしもこれが「盗んでも良いけれど一応盗んではいけないアート展」というあからさまなタイトルの展示会であれば、このようなことは起こらなかったであろうというのが、筆者の考えである。というのも、「日本人」は実際、デモなどが暴徒化し、店などに押し入って略奪を行うという事例は、筆者の思う限り聞いたことがない。そういう意味では、確かに「日本人」は遵法精神が高い傾向にあると言える。
 そのため「盗めるアート展」という「法律が取り払われた特別な環境」という自体になって初めて、このように、極端に「日本人」は「暴徒化」するという傾向を述べたいのであり、そういう意味では、やはり「日本人」の道徳観は、「法律によって規定された」ものであるというのが、筆者の考えである。


終わりに・反省点(ぜひ読んでほしいです。)

 このブログでは珍しく、恐らく初めてトレンドの内容を取り上げた。筆者をして、このトレンドに乗ってみたいという下心が無かったわけではないが、それだけ今回の「盗めるアート展」という現象は興味深かったのである。もちろん、この記事の内容に関して異論反論などが、恐らくは大量にあるだろうことは予期しているし、異論反論ツッコミどころなどがあると予測しながら、急いて記事を書いてしまったのは、やはり筆者のトレンドに乗りたいという下心に依るものなのかも知れないと反省している。ただ、浅学な筆者なりの一考察として「そういう見方もある」くらいに受け取って欲しい。
 度々言い訳を重ねてしまったが、筆者は責任から逃れたいということではない。
 異論反論お叱りツッコミなどなどがあれば、このブログのコメント欄などで筆者にレスポンスして欲しいし、あまりに考え方に問題があると客観的な視点からの指摘を頂いて問題が露呈するようであれば、この記事は謝罪した上で削除させていただく。いささか臆病に過ぎるように思われるかも知れないが、それが筆者なりの、記事を書いて公開する上での一応の責任であり最低限の義務であると思っている。



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2020年07月09日

【涼宮ハルヒの憂鬱】あえて言おう、エンドレスエイト「肯定論」を

「キョンくんでんわー」、「なにか、おかしい」


もくじ
●リアルタイムの視聴者の「エンドレスエイト」への戦慄
●エンドレスエイトの評価
●筆者による「エンドレスエイト」肯定論
●終わりに


 あまりにも有名で、ライトノベルとしても、2000年代のアニメとしても代表的で社会現象をも引き起こした作品「涼宮ハルヒの憂鬱」。2006年に一期アニメが放送され、話をあえて繋がらないようにシャッフルするという実験的な試みもなされたものの、それも試みとしては概ね肯定的に受け止められ、かなりの意欲的な実験作であり不朽の名作「涼宮ハルヒの憂鬱」は社会にその名を轟かせた。
 さて、問題はここからである。2009年に放送された「涼宮ハルヒの憂鬱」第二期において、原作において、夏休み最後の二週間が何度も何度もループするという「エンドレスエイト」と呼ばれるストーリーがアニメ化されるにおいて、作中のループ世界を再現する形で、なんとほぼ同様の内容にて、何度も何度も同じストーリーが繰り返されたのである。その回数実に8話。おそらくは、「エンドレスエイト」の「エイト」、終わらない8月を繰り返すという内容によるものだが、本当に「エイト」通り、8話に渡ってほぼ同じ内容のストーリーで、演出や描写こそ多少の違いはあれども、8週連続で同じ内容を放送したのである。実験ここに極まれりである。


リアルタイムの視聴者の「エンドレスエイト」への戦慄



 この試みは視聴者にとって、当然様々な議論を呼んだ。想像してほしいのは、後発で後世から8話に渡って同じ内容が放送されるという試みを知った上で、アニメを見たような筆者のような人間ではなく、まさにリアルタイムで放送中のアニメを見ていた人々の心境である。1話目は良い。「このまま終わるのか?ははーん、さてはループを再現して、次回でループから脱出する内容をやるのだな」と、そんなようにも概ね肯定的に受け取ったことだろう。
 問題は2話目でもループから脱出する事が出来なかったことである。この時点で様々な憶測を呼んだ。「あれ?この話はいつ終わるんだ?」と。この時点において、リアルタイムで、支配的だったのは「4話構成説」であった。「夏休みがループすることに気づかない1、2話、ループに気づきつつも、脱出できない3話、そして晴れて夏休みのループから脱出する4話」という構成であると予測されたのである。しかし「それにしたってやりすぎだ」という声はこの時点で散見された。
 ただ、問題は、その予想をも現実が超えてきたことである。4話目においても、ループしている事自体には気づきつつも、脱出できないで終わるという展開で放送されたのである。この時点で人々は批判を通り越して戦慄した。「一体いつになったら終わるんだ」と。そして繰り返される5話、6話・・・、そしてついに8話目にして「ループに気づき、晴れて脱出し、夏休みが終わる」という完結編が放送された。この時点で人々は感動を通り越して放心していたであろう。「ああ、夏休みが、やっと終わった」と。

エンドレスエイトの評価


 さて、この「エンドレスエイト」の試みだが、はっきりと言ってしまえば失敗であったと言わざるを得ない。肯定的な評価を寄せる人もいるが、それは「まあ、やっちゃダメなことだったけどあえて言えば」という前提に立ったものであり、ほとんどが批判的な立場をとっている。
 実際、その後のエンドレスエイト収録話のDVDの売上が、当然ではあるが落ち込んだという事実もあり、制作キャスト側からも「反省」の意を込めたような発言があったこともあって、「エンドレスエイト」は失敗であったというのが、視聴者、製作者双方からの今日における一般的な評価となるのだろう。

筆者による「エンドレスエイト」肯定論

 ただ、ここで筆者は、「涼宮ハルヒ」シリーズのファンとして、そしてリアルタイムではないとは言え「エンドレスエイト」全8回をいつだったかの一挙放送にて一晩徹夜して8話ぶっ通しで視聴した人間の一人として(何をやっているのだか)、あえて、無理をしてでも唱えたい。「エンドレスエイト」肯定論を。

●演出カタログとしての「エンドレスエイト」

 まずひとつに挙げられるのが、この「エンドレスエイト」、全8回は決して使い回しを行わず、各話ごとに演出が異なり、アフレコもキャストが各話ごとに新規収録を行った。作画監督による絵柄や演出の違いを体験して、様々な演出の映像美を楽しめる。アニメを製作者側の視点からより深く知るのにはうってつけの「修行」なのではないかというのが一つである。


●活気に溢れた話、郷愁に溢れた話、あらゆる方向から「夏休み」を体感できる

 前述の通り、「エンドレスエイト」は全ての話が完全新規収録である。演出も全く異なるから、各話ごとに雰囲気も異なる。1話目は、作中キャラクターもループに全く気が付かない話であるから、明るく活気に溢れた夏休みを体感できる。しかし、以降の作中キャラクターが夏休みループに気づき、それについて、夜の公園で話し合うシーンは、シリアスな雰囲気を帯びた物となっている。作中メンバーがバッティングセンターに行くシーンなどは、BGMの哀愁もあってか、夏休みの郷愁、たった一度の高校生活のほろ苦い思い出を浮かばせるようなシーンになっている。
 夏休みという期間が持つ、仲間と過ごす楽しさ、夏という季節が持つ切なさ、そして哀愁、ノスタルジー、そして晴れて8回目にてループから脱出して9月1日の登校日を迎えるシーンの、夏休みが終わってしまったというもの悲しさ、あらゆる面をこの「エンドレスエイト」全8回は描き出したと言える。


●サブカルチャーとしての「涼宮ハルヒ」シリーズの異色性を定義づけた「エンドレスエイト」

 「涼宮ハルヒ」シリーズは、新興文学ライトノベルの王道でもありながら、数々の伝統的SF作品を下敷きにした文学性を伴った名作であり、また極めて強い独自性を持った作品である。アニメ文化におけるサブカルチャーのある種特異点と言っても良い。そういう意味では、「涼宮ハルヒ」シリーズの異色性をはっきりと示したのがこの「エンドレスエイト」であろう。「エンドレスエイト」という実験は、良くも悪くも、既存のものとは全く異なるという衝撃を私達に与えた。
 正直言ってこのような試みを安易に肯定してもよろしくないのだが、「涼宮ハルヒ」シリーズに代表される「深夜アニメ文化」がその独自性を得るにあたって、エンドレスエイトという商業的作品を超えたアウトサイダーな現代アートともいえるような試みは、「アニメ文化」を一つの独自文化として定義づけるに当たって、一度はどこかで行われるべき必要な実験であったのではないか(それが極めて話題性の強い「涼宮ハルヒ」シリーズで行われたのは幸か不幸かだが)、というのが筆者の考えである。


●「長門有希」を理解するための「エンドレスエイト」体験
 
 登場キャラクターの大半は、8月31日深夜に一度ループすれば、デジャブ感を抜いては、以前の記憶をすべて失う。しかし、「エンドレスエイト」にて実際に繰り返された総ループ数15498回ものループの記憶を全て持ち、この膨大な時間をただ一人過ごしてきたキャラクターがいる。それが「長門有希」である。詳しいことを省くと、彼女は宇宙人である。正確に言えば、宇宙人によって作られた対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェイスである。要するに人間ではない。人間ではないがゆえに、このループによって記憶が消されることもなく、膨大な回数繰り返される夏休みをただ一人「観測」し続けたのだ。彼女は人間ではない。しかし、無機質なようでいて、作中では感情のようなものが芽生え初め、その感情によって、後の「涼宮ハルヒの消失」にて彼女がエラーを起こす原因ともなった。要するに、この15498回ものループをずっと記憶を保って体験するのは、彼女にとってもとてもつらかったのである。「涼宮ハルヒの消失」において、彼女が蓄積したエラーを爆発させた必然性のようなものが、この「エンドレスエイト」の全8話によってより強まるのではないか。
 筆者の記憶が正しければ、確か4話目だったかと思うが、主人公キョンが長門に話しかけた際、無表情な彼女らしくもない、どこか疲れ切ったような表情を見せたことがある。
 長門有希は、「涼宮ハルヒ」シリーズでもトップクラスの人気を誇る名ヒロインである。そんな彼女の感情と辛さを一緒に味わうには(結局見るのは辛いんじゃないか!)、視聴者にとってもこの「エンドレスエイト」の体験は、必要なものではなかったのか。


●「苦い体験の共有」としての「エンドレスエイト」

 アニメというのは、リアルタイム性の強いコンテンツであり、ある種オタクが互いに体験を共有し合うためのツールでもある。そのような観点から言うのであれば、私達が「エンドレスエイト」というある種苦い体験を共有し、共に体験したという意味で、アニメを愛するオタクをより強く結びつけるきっかけになったのではないかという点もある。「あの時は本当に辛かった。あれを見るのは本当に辛かった。でも今思えば・・・」という感情の共有である。「エンドレスエイト」という衝撃的体験を起点に、「エンドレスエイト」世代におけるオタクたちの共感という面における一時代が形成されたと言っても良い。

終わりに


 本音を言ってしまえば、やはり「エンドレスエイト」を肯定するのは無理がある。無理があるがゆえにあえて挑戦したくなったのだが、やはり、最後の項目になるにつれて「やっぱり辛かった」という感情を吐露してしまったことは否めない。
 しかし、「エンドレスエイト」は見る価値が全く無いか? と問われれば、それだけは、決してそうではないと筆者は声を大にして言いたい。一つのアートとして、演出のカタログとして、「長門有希」を理解する体験として、そしてオタクの苦い体験の共有を追体験する手段として、ぜひ一度は全8回のエンドレスエイトを視聴してみて欲しい。筆者も見たのだから皆さんもやってほしい。筆者も見たんだから。


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2020年07月08日

うつ病思考を改善するためには、文章を書き、記録を付けまくれ! ~モヤモヤ感を文に起こすという事~

実践するうつ病改善法。思考を文字に起こす。


 前の記事、【うつ病体験】うつ病患者自身が考える「うつ病意識」の特徴 ~強迫的完璧主義と自己嫌悪の連鎖~にて、うつ病の特徴的思考である、「強迫的完璧主義」と「自己嫌悪の連鎖」という二つの物を紹介した。前回の記事を書いた時には、残念ながら筆者にはこの思考から抜け出す方法は思いつかなかった。

 しかし、ブログとTwitterを初めてから、少し自分のうつ病が良くなっているという事に気づいたのだ。これは何故だろうか?結論から言えば、日々考えているモヤモヤとした思考を思考のままにせずに、文に起こす試みを行ってきたからだと筆者は考える。なぜ思考を文に起こす事が重要なのか? 今回の記事ではそれを説明していきたい。


モヤモヤ感を文に起こすと、「答え」が見つかる


 うつ病患者がうつ状態に陥る原因として、筆者の場合は、ストレスなどの様々な要因から、まず心に「モヤモヤ感」を感じる。その「モヤモヤ感」を放っておくと、やがてそこから負の思考が生まれる。一度負の思考を抱くと、そこからどんどん連鎖して、いわば「自己嫌悪の連鎖」に陥り、頭が不快な思考で満たされると、行動力が鈍り、抑うつ状態へと繋がる。

 筆者の経験上、うつ病には波があり、一度波の底である抑うつ状態に陥ると残念ながらそこから回復するためには、何かよっぽどのきっかけがあるか、気分の波が上向くのをひたすら待つしかない。要するに、一度抑うつ状態に陥ってしまうと手立てがないのだ。だからこそ、抑うつ状態の初期症状である「モヤモヤ感」のうちに、この「モヤモヤ感」に決着をつけるのだ。具体的には、その「モヤモヤ感」を文に起こすのである。とりとめのない、言葉にできないようなモヤモヤ感を、あえて言葉にして、真っ向から立ち向かうのだ。
 実際に、筆者が「モヤモヤ感」を文に起こすとこのような形になる。
今日も一日何も出来なかった」という「モヤモヤ感」、これをこのまま放っておくと、「なぜ何も出来ないのか」という思考にいたり、そして「自分はだめな人間だ」となっていく。しかし、「今日も一日何も出来なかった」と考え始めた段階で、それを文章にするのだ。

 ただ、ここで疑問が生じるのではないだろうか。「今日も一日何も出来なかった」という事を文に起こしたとして、結局それは「自分が駄目な人間だから・・・」という方向に向かっていくのではないか? という事である。またしても結論から言うと、確かにそうなる事もあるが、重要な事は、「頭の中で思考する」のと、「文に起こしながら」思考するのとでは、思考の流れ方が違うのだ。

 私達うつ病患者は、ある種頭の中で思考を重ねるということに慣れている。慣れているがゆえに、普段通りに思考すると、それは容易に負の方向へと流れていくという癖が生まれているのだ。しかし、私達が紙やパソコンに文字を起こしながら思考を進めると、頭の中で思考するようにスラスラとは行かない。文章を書くという行為をする以上、文章を書くという思考を行いながら脳を働かせることになる。
 この縛りのような思考の枷が、うつ病患者の負の方向へ流れる思考の癖を抑制してくれるのだ。さらに言えば、文章を書くという行為を行うと、私達は無意識的に、文章を日本語として分かりやすく、論理的に筋道立ったように仕上げようとする。この思考の変化が重要なのだ。頭の中で思考すると、それは容易に負の方向へと流れていく。しかし文を書きながら、論理的に考えてみれば、そこには一定の思考の形を残すことが出来るし、すると結論も違ったものになる。

 先程の「今日も一日何も出来なかった」という思考を論理的に考えてみれば、「全く理由なくただ何も出来なかったのか?」という疑問を感じざるを得ないのだ。例えばそれは「前日に睡眠不足だった、そういえば最近生活リズムが崩れている」とか「散歩をすれば頭が冴えるんだけどそれができないからかな」といったような具体的理由が浮かんでくるのだ。

 もちろん、うつ病患者にとって実際にこれらの答えを参考にしたところで、睡眠を十分に取ろうと思ってもどうしても眠れないということもあるし、散歩に行きたくても外に出られないという事もあるだろう。しかし答えを参考に行動するのはもう少し先の話で良いのだ。重要なのは「答え」が見つかるという事そのものである。人間は「答え」が見つかれば、一定の満足感と納得感、肯定感を得る。これらの感情を文章という形あるものによって得る事こそがまず重要なのだ。
 「モヤモヤ感」を感じたうちに、すぐに文章を書き、論理的思考を行ってみる。ぜひ試してみてほしい。

毎日の生活と自分の思考を記録につける

 この記事の冒頭に挙げた「強迫的な完璧主義」、この思考については冒頭に貼った該当記事を参照してもらえれば分かりやすいのだが、読者の皆様も記事をまたぐのも面倒であろうから、ここで手短に書いてみる。
 うつ病患者は完璧主義的であることが多い。完璧主義的だからうつ病になるのか、うつ病になったから完璧主義的な思考になるのかという順序は若干の議論の余地があるだろうが、筆者の考えを述べさせていただくならば、もともと完璧主義的な人間は確かにうつ病になりやすく、さらにうつ病になることによって完璧主義がより「強迫的」になるのだ。こうして「強迫的完璧主義」とも言えるような思考に囚われることとなってしまう。

 だが、そもそもなぜ完璧主義になるのだろうか? 「理想が高い」とか「かくあるべき」という考えが強いからとも言えるだろう。そのため常に100%の力を発揮して、加減というものを知らずフルパワーで動き続けてしまうから、パンクしてしまうのだ。確かに理想が高い事は良いことであるし、常に100%を目指すということは理想的なことではある。しかしながら、私達生き物は、常に100%の能力のフルパワーを発揮して生きるようには出来ていないし、パーフェクトでなければならないのは、本当に人生のここぞという時だけで良いはずである。あとは手を抜いたっても良いのだ。

 もちろん「そんな事頭では分かってるけど・・・」という声はあるだろう。だからこそここでも重要になってくるのは、現在の仕事のタスクを文章に起こし、それを分析してみるということである。仕事を一覧にしてよく考えてみれば、「これは手を抜いても良いけれど、これはきちんと仕上げないとダメだな」といった考えが自ずと浮かんでくる。普段は完璧主義的な思考が、癖になって染み付いているから、考えずに仕事を行うと全てに100%の力を使ってしまう。
 ここで、自分自身を客観視することで、抱えているタスクの内容を文章に起こせば、「仕事1は60%の出来でも良いだろう、仕事2は80%は出さなければダメだな」と、具体的な計画も頭に浮かんでくるのだ。あとはその文章に起こした力配分の通りに仕事をすれば良い。初めのうちはやはり慣れないかもしれないが、一定の継続によって、徐々に力の配分が分かってくる。
 そもそもうつ病患者が完璧主義的であるというのは、長年に渡ってその通りに生活してきた凝り固まったルーチン化した思考の癖によるものである。その癖を、ここでも文章を使って、ほぐしていくのだ。

 さらに言えば、これは筆者の考えではなく、精神科医に紹介された立派な精神医学の療法であるのだが、毎日の調子を日記にして自分自身を観察してみるという方法がある。これも、気分という曖昧なものを文章にすることによって、気分の波を可視化し、「自分がどんな事があったら嬉しかったか」「どんな事があったら嫌だったか」と言うこともリストにしてみて、嫌なことは極力遠ざけるのである。どんな事がきっかけで自分は嬉しくなるのか、または嫌な気持ちになるのか?という事を、言葉にしてまとめることによって、自分を客観視出来て、嬉しくなることに向かい、嫌なことは遠ざけるということが可能となる。

 客観視という事は重要である。なぜならば、一度抑うつ状態に陥ってしまうと、ひたすら主観的な鬱感情の中に溺れてしまい、客観的に自己を見るということが全く出来なくなってしまうからである。筆者にしても、気分が落ち込んでいる時に自分を客観視することは難しい。だがここでも、文章として今まで残してきたものがあると、調子が良かった時の自分が自己を客観視していたという材料が見つかり、客観的な自己に対する記録を見返すことで、鬱の底から抜け出す一歩になるのではないか…と筆者は考えている。

終わりに

 さていかがであっただろうか。うつ病の重大な問題として「何をしてもうつ状態になれば、結果的に元の木阿弥」になってしまうという事がある。しかし、繰り返すようだが、文章に書いたものは消えない。文章を書くことによって、記録を残し、今までの自分を振り返ることが出来れば、また調子が悪くなってしまったとしても、それまでに積み上げた確かな形ある客観的な自己分析が残るのである。これは自分を知る上で重要な材料である。

 孫子の兵法に「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」という有名な言葉がある。「彼」とは敵のことであり、私達にとっての敵はうつ病である。この続きを挙げると、「彼を知らず己を知れば、一勝一負す。」となる。敵を知らずとも、自己について知っていれば一勝一負。つまり五分五分になるのだ。さらに続きを挙げると、「彼を知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず殆うし」つまり敵も自分も知らなければ、戦うごとに危ういのだ。これまでの筆者がそうであったように、うつ病という敵を知らず、更に己をも知らなければ、気分が落ち込みそうになる度に危うかった訳である。
 うつ病という未だ現代医学においても未解明な部分がある病気を既存のことだけでも知っておくことはもちろん重要だが、それ以上に己を知れば、少なくとも五分五分にはなるのだ。もしあなたがうつ状態に引っ張られ気分がどん底に落ち込んでしまう…という事があっても、己さえ知っていれば、そこをなんとか踏ん張れるか、落ち込んでしまうか五分五分にすることが出来るわけである。

 この手法は、筆者が思いついたものだが、おそらく精神医学においては「認知行動療法」とかと言った名前で、既に発明されていることであろうし、付け加えるならば、万人のうつ病に対して効果的とは、残念ながら断言できない。しかし、少なくとも筆者はそれでいくらか改善した。うつ病に悩む方がこの記事を読んでくれて、この手法を使って少しでも症状が改善したとすれば、筆者にとってそれ以上に嬉しいことは無い。


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