涼宮ハルヒの憂鬱

2020年07月09日

【涼宮ハルヒの憂鬱】あえて言おう、エンドレスエイト「肯定論」を

「キョンくんでんわー」、「なにか、おかしい」


もくじ
●リアルタイムの視聴者の「エンドレスエイト」への戦慄
●エンドレスエイトの評価
●筆者による「エンドレスエイト」肯定論
●終わりに


 あまりにも有名で、ライトノベルとしても、2000年代のアニメとしても代表的で社会現象をも引き起こした作品「涼宮ハルヒの憂鬱」。2006年に一期アニメが放送され、話をあえて繋がらないようにシャッフルするという実験的な試みもなされたものの、それも試みとしては概ね肯定的に受け止められ、かなりの意欲的な実験作であり不朽の名作「涼宮ハルヒの憂鬱」は社会にその名を轟かせた。
 さて、問題はここからである。2009年に放送された「涼宮ハルヒの憂鬱」第二期において、原作において、夏休み最後の二週間が何度も何度もループするという「エンドレスエイト」と呼ばれるストーリーがアニメ化されるにおいて、作中のループ世界を再現する形で、なんとほぼ同様の内容にて、何度も何度も同じストーリーが繰り返されたのである。その回数実に8話。おそらくは、「エンドレスエイト」の「エイト」、終わらない8月を繰り返すという内容によるものだが、本当に「エイト」通り、8話に渡ってほぼ同じ内容のストーリーで、演出や描写こそ多少の違いはあれども、8週連続で同じ内容を放送したのである。実験ここに極まれりである。


リアルタイムの視聴者の「エンドレスエイト」への戦慄



 この試みは視聴者にとって、当然様々な議論を呼んだ。想像してほしいのは、後発で後世から8話に渡って同じ内容が放送されるという試みを知った上で、アニメを見たような筆者のような人間ではなく、まさにリアルタイムで放送中のアニメを見ていた人々の心境である。1話目は良い。「このまま終わるのか?ははーん、さてはループを再現して、次回でループから脱出する内容をやるのだな」と、そんなようにも概ね肯定的に受け取ったことだろう。
 問題は2話目でもループから脱出する事が出来なかったことである。この時点で様々な憶測を呼んだ。「あれ?この話はいつ終わるんだ?」と。この時点において、リアルタイムで、支配的だったのは「4話構成説」であった。「夏休みがループすることに気づかない1、2話、ループに気づきつつも、脱出できない3話、そして晴れて夏休みのループから脱出する4話」という構成であると予測されたのである。しかし「それにしたってやりすぎだ」という声はこの時点で散見された。
 ただ、問題は、その予想をも現実が超えてきたことである。4話目においても、ループしている事自体には気づきつつも、脱出できないで終わるという展開で放送されたのである。この時点で人々は批判を通り越して戦慄した。「一体いつになったら終わるんだ」と。そして繰り返される5話、6話・・・、そしてついに8話目にして「ループに気づき、晴れて脱出し、夏休みが終わる」という完結編が放送された。この時点で人々は感動を通り越して放心していたであろう。「ああ、夏休みが、やっと終わった」と。

エンドレスエイトの評価


 さて、この「エンドレスエイト」の試みだが、はっきりと言ってしまえば失敗であったと言わざるを得ない。肯定的な評価を寄せる人もいるが、それは「まあ、やっちゃダメなことだったけどあえて言えば」という前提に立ったものであり、ほとんどが批判的な立場をとっている。
 実際、その後のエンドレスエイト収録話のDVDの売上が、当然ではあるが落ち込んだという事実もあり、制作キャスト側からも「反省」の意を込めたような発言があったこともあって、「エンドレスエイト」は失敗であったというのが、視聴者、製作者双方からの今日における一般的な評価となるのだろう。

筆者による「エンドレスエイト」肯定論

 ただ、ここで筆者は、「涼宮ハルヒ」シリーズのファンとして、そしてリアルタイムではないとは言え「エンドレスエイト」全8回をいつだったかの一挙放送にて一晩徹夜して8話ぶっ通しで視聴した人間の一人として(何をやっているのだか)、あえて、無理をしてでも唱えたい。「エンドレスエイト」肯定論を。

●演出カタログとしての「エンドレスエイト」

 まずひとつに挙げられるのが、この「エンドレスエイト」、全8回は決して使い回しを行わず、各話ごとに演出が異なり、アフレコもキャストが各話ごとに新規収録を行った。作画監督による絵柄や演出の違いを体験して、様々な演出の映像美を楽しめる。アニメを製作者側の視点からより深く知るのにはうってつけの「修行」なのではないかというのが一つである。


●活気に溢れた話、郷愁に溢れた話、あらゆる方向から「夏休み」を体感できる

 前述の通り、「エンドレスエイト」は全ての話が完全新規収録である。演出も全く異なるから、各話ごとに雰囲気も異なる。1話目は、作中キャラクターもループに全く気が付かない話であるから、明るく活気に溢れた夏休みを体感できる。しかし、以降の作中キャラクターが夏休みループに気づき、それについて、夜の公園で話し合うシーンは、シリアスな雰囲気を帯びた物となっている。作中メンバーがバッティングセンターに行くシーンなどは、BGMの哀愁もあってか、夏休みの郷愁、たった一度の高校生活のほろ苦い思い出を浮かばせるようなシーンになっている。
 夏休みという期間が持つ、仲間と過ごす楽しさ、夏という季節が持つ切なさ、そして哀愁、ノスタルジー、そして晴れて8回目にてループから脱出して9月1日の登校日を迎えるシーンの、夏休みが終わってしまったというもの悲しさ、あらゆる面をこの「エンドレスエイト」全8回は描き出したと言える。


●サブカルチャーとしての「涼宮ハルヒ」シリーズの異色性を定義づけた「エンドレスエイト」

 「涼宮ハルヒ」シリーズは、新興文学ライトノベルの王道でもありながら、数々の伝統的SF作品を下敷きにした文学性を伴った名作であり、また極めて強い独自性を持った作品である。アニメ文化におけるサブカルチャーのある種特異点と言っても良い。そういう意味では、「涼宮ハルヒ」シリーズの異色性をはっきりと示したのがこの「エンドレスエイト」であろう。「エンドレスエイト」という実験は、良くも悪くも、既存のものとは全く異なるという衝撃を私達に与えた。
 正直言ってこのような試みを安易に肯定してもよろしくないのだが、「涼宮ハルヒ」シリーズに代表される「深夜アニメ文化」がその独自性を得るにあたって、エンドレスエイトという商業的作品を超えたアウトサイダーな現代アートともいえるような試みは、「アニメ文化」を一つの独自文化として定義づけるに当たって、一度はどこかで行われるべき必要な実験であったのではないか(それが極めて話題性の強い「涼宮ハルヒ」シリーズで行われたのは幸か不幸かだが)、というのが筆者の考えである。


●「長門有希」を理解するための「エンドレスエイト」体験
 
 登場キャラクターの大半は、8月31日深夜に一度ループすれば、デジャブ感を抜いては、以前の記憶をすべて失う。しかし、「エンドレスエイト」にて実際に繰り返された総ループ数15498回ものループの記憶を全て持ち、この膨大な時間をただ一人過ごしてきたキャラクターがいる。それが「長門有希」である。詳しいことを省くと、彼女は宇宙人である。正確に言えば、宇宙人によって作られた対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェイスである。要するに人間ではない。人間ではないがゆえに、このループによって記憶が消されることもなく、膨大な回数繰り返される夏休みをただ一人「観測」し続けたのだ。彼女は人間ではない。しかし、無機質なようでいて、作中では感情のようなものが芽生え初め、その感情によって、後の「涼宮ハルヒの消失」にて彼女がエラーを起こす原因ともなった。要するに、この15498回ものループをずっと記憶を保って体験するのは、彼女にとってもとてもつらかったのである。「涼宮ハルヒの消失」において、彼女が蓄積したエラーを爆発させた必然性のようなものが、この「エンドレスエイト」の全8話によってより強まるのではないか。
 筆者の記憶が正しければ、確か4話目だったかと思うが、主人公キョンが長門に話しかけた際、無表情な彼女らしくもない、どこか疲れ切ったような表情を見せたことがある。
 長門有希は、「涼宮ハルヒ」シリーズでもトップクラスの人気を誇る名ヒロインである。そんな彼女の感情と辛さを一緒に味わうには(結局見るのは辛いんじゃないか!)、視聴者にとってもこの「エンドレスエイト」の体験は、必要なものではなかったのか。


●「苦い体験の共有」としての「エンドレスエイト」

 アニメというのは、リアルタイム性の強いコンテンツであり、ある種オタクが互いに体験を共有し合うためのツールでもある。そのような観点から言うのであれば、私達が「エンドレスエイト」というある種苦い体験を共有し、共に体験したという意味で、アニメを愛するオタクをより強く結びつけるきっかけになったのではないかという点もある。「あの時は本当に辛かった。あれを見るのは本当に辛かった。でも今思えば・・・」という感情の共有である。「エンドレスエイト」という衝撃的体験を起点に、「エンドレスエイト」世代におけるオタクたちの共感という面における一時代が形成されたと言っても良い。

終わりに


 本音を言ってしまえば、やはり「エンドレスエイト」を肯定するのは無理がある。無理があるがゆえにあえて挑戦したくなったのだが、やはり、最後の項目になるにつれて「やっぱり辛かった」という感情を吐露してしまったことは否めない。
 しかし、「エンドレスエイト」は見る価値が全く無いか? と問われれば、それだけは、決してそうではないと筆者は声を大にして言いたい。一つのアートとして、演出のカタログとして、「長門有希」を理解する体験として、そしてオタクの苦い体験の共有を追体験する手段として、ぜひ一度は全8回のエンドレスエイトを視聴してみて欲しい。筆者も見たのだから皆さんもやってほしい。筆者も見たんだから。


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voiceofdrone at 21:05|PermalinkComments(0)