日常系

2020年07月10日

【私的アニメ論】日常系アニメはなぜ需要が高いのか ~「一過性の体験の共有」としてのコンテンツ論と日常系~

安定した需要のある日常系アニメ。アニメというコンテンツの構造からその需要を解明する。


 日常系アニメ。その作品世界での日常に流れる空気を描いている作風から「空気系」と呼ばれることもある。
 日常系アニメを定義づけたり、体系立てて、その中から類型論的なものを考えることは難しい。それほど日常系アニメというものは多様で様々だからである。例えば同じ高校生活を描くとしても、高校生活の三年間を時間の流れとともに描く作品もあれば、いわゆる「サザエさん時空」的に卒業や進級が想定されない、もしくは進級というイベントはあっても卒業はしないと言ったストーリーのものまで様々だからである。
 あえて昨今の日常系アニメの定義を定義付けると、Wikipediaの「空気系」というページからの引用になるが、「若い女の子たちのまったりとした日常を延々と描くタイプの作品」となる。若干曖昧にすぎるが、多種多様な「日常系」を総括しようと思えばこうもならざるを得ないだろう。
 さて、少々前置きが長くなったが、この記事では「日常系」というアニメが何故人気を博し、今日においてもクールごとに安定していくつかの「日常系」アニメが放映され続けているのか、コンテンツ論的な視点からの需要の理由について考察してみたい。



体験の共有ツールとしての「メディアコンテンツ論」


 昨今のコンテンツの大量生産大量消費とも言える、「コンテンツが消費」される社会においては、何もアニメに限ったことではないのだが、情報化社会によってますます、放映される映像・音楽などのメディアコンテンツは視聴者の間で一定期間の感想と体験を共有する「ツール」としての役割が色濃くなってきたと言えるであろう。
 特に深夜アニメにはこの傾向が強い。それは、いわゆる「オタク」という視聴者層がインターネットの利用率が特に高く、特に匿名掲示板上やSNS上などで見られる実況文化とはまさに「体験の共有」に他ならず、さらに言えばそのために「消費型コンテンツ」に対する需要が高いからだと言えるだろう。
 一応断っておくと、「消費」と言っても文字通りに「消費」され「忘れさられる」という意味ではなく、「一定期間における体験を共有するコミュニケーションツール」として「使い果たされる」という意味が強い。それでもいささか否定的な言い方となってしまうが、筆者は何もそれを憂いているわけではないし、批判しているわけではない。
 むしろこの情報が洪水のように溢れる時代において、放映されるワンクールごとの映像コンテンツがそのような傾向を取らざるを得ないのは、いくら多数の視聴者がいるとは言え一人の視聴者の目は二つしか無く、脳は一つしかないのだから、一度に同時に摂取できる「コンテンツのカロリー」とも言えるものは制限されざるを得ないし、特に昨今におけるアニメ業界のまさに「コンテンツの洪水と飽和」状態において供給側が利益性を担保しつつコンテンツを制作し供給するということは、「コンテンツの消費による一過性の体験の共有の提供」という視聴者にとっての日常の一部として、いわばなるだけ摂取カロリーの少ない形をとらざるを得なく、供給側がそうであるのだから消費する側においても必然的にそうならざるを得ないとも言える。
 付け加えるならば、一般的に映像コンテンツのジャンルとは「共有される体験」の種類によって規定されるともとれる。
 では、「日常系アニメ」の場合にはどのような「体験の共有」がなされるかと言えば、まさに「若い女の子たちの日常風景」という体験を視聴者はまず「作中キャラクター」と共有し、そして実況という同期的なインターネット上での視聴者同士の体験の共有を持って、視聴者は満足するという構図があると言える。注目すべきなのは、「作中キャラクターとの体験の共有」が「日常系アニメ」は日常であるがゆえにその傾向が色濃く、さらに日常という波風の立たない「摂取カロリーの少ない」ジャンルだからこそコンテンツを享受する視聴者からの需要が高いとも言えるであろう。

実利主義的社会におけるただの日常という非実利性の重要性

 さて、前節ではいささか斜に構えたコンテンツ論を展開してしまったが、繰り返し断っておくが筆者はそのことによって視聴者および供給側の在り方を否定するつもりはないとはっきり言っておく。これは情報化社会という社会背景に規定された必然的な現象であるからだ。だがしかし、「社会背景を踏まえた供給側の事情による消費的コンテンツ」に対して、これはやや矛盾したように聞こえるかも知れないが、「オタク」という視聴者層は、「消費型コンテンツ」を受け入れて求めつつ、ただやはりどこか「コンテンツを消費し続ける」事に疲れを感じるような視聴者も多いのではないだろうか。
 それを踏まえて、「日常系」の需要が高い理由を論じると、この「コンテンツの洪水」社会における実利主義的な色が濃いコンテンツそのものの在り方に対して疲れ切った視聴者にとって、「日常系」において展開される「ただ流れるほのぼのとした日常」という非実利的なジャンルが受け入れられたと捉えられるのではないだろうか。
 さらに言えば、一定のテーマとストーリー性を持った、「ヘビーカロリー」な作品に対して、いわば箸休め的な意味合いで、日常系アニメは発明され、その普遍性ゆえに今日においても安定した需要があり続けるのだと、筆者は考察する。
 若干蛇足になるかも知れないが、この論理に基づけば、いわゆる「日常系アニメ」における「突然のシリアス展開」が多くの場合否定的に取られる理由も説明がつく。何故ならば、「シリアス」という展開によって箸休め的コンテンツである「日常系」を見ていた視聴者は予期せぬ「ヘビーカロリー」を摂取することとなり、そこに需要との食い違いが発生するからと考察できる。


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voiceofdrone at 23:10|PermalinkComments(0)