政治

2020年07月05日

【匿名は良いか悪いか?】現代社会のインターネットにおける匿名という場の自由主義的観点からの存在肯定論


匿名は良いものか、悪いものか

 
 インターネットが普及し、その初期から存在していた匿名性という性質は、良くも悪くもインターネットの発展に多大な影響を与えてきた。2ちゃんねる(現5ちゃんねる)といった匿名掲示板がその代表的な存在だろう。特に2ちゃんねるは「便所の落書き」とも揶揄されながらも、様々な匿名ならではの文化を作り出し、今日のネット社会においてもTwitter、ひいては現実社会の流行語など、知らず知らずのうちに使ってるスラングが、実は2ちゃんねる発祥であるなど、その影響は大きい。
 一方で、匿名であるがゆえに起こる根拠のないデマ、誹謗中傷、差別的発言など、その存在そのものに負の側面として、倫理的に存続がなされるべきなのかどうかといった疑問が投げかけられることもままある。正常な倫理観を持ち合わせる人間からすれば、目を疑うような言葉などが飛び交っている場でもあり、過激な犯罪予告などから逮捕者も多数出ているのだから、そのような意見が出てくるのも仕方がないといえば仕方がないだろう。

 しかし、匿名という場における功罪は様々であるとはいえ、この世の中に匿名の場があることによる事自体に一定の有益性、ひいては民主主義社会にとって一定の意義があるのではないかと筆者は考察する。

インターネット以前の匿名という場の歴史


 さて、匿名という言論の形式は、インターネット誕生以前から雑誌や新聞などへの匿名投書と言った形で行われてきた。検閲が存在する社会では、自由な言論を少しでも担保する場として機能した。もっとも、実名を明かさないが故に無責任で差別的な論が展開されるという性質は、この時代も変わらず、19世紀後半のドイツの匿名投書では反ユダヤ主義的な投稿がなされるという問題も起こった。哲学者ショーペンハウアーも、「匿名の文章というのは、責任が存在せず、価値がない」と自著のなかではっきりと匿名を批判している。

 確かに匿名という場においては、無責任であり、過激な意見が飛び交うということも事実である。しかし、近代において、民主主義が各国で確立するにあたって、投票の手段は公開投票からやがて秘密投票へと置き換わった。名を明かさず、匿名であるということによって、政治的な自由が担保されたのである。匿名こそが、民主主義の基礎であるとも言える。

 また匿名の投書や、それこそ2ちゃんねるの蔑称である「便所の落書き」というものも、「落書き」なりの歴史があり、文字通り、便所に描かれた落書きなども匿名の場として、強権的な政権の国家において、人々が本音の、自由な意見を発することが出来る場として機能していたのだ。
 戦前戦中の日本においても、特高警察が不穏な落書きとして取り締まった落書きの数々の記録は、強権的な軍部への反対意見や反戦主義、「日本はこのままでは戦争に負ける」と言った意見であるとか、その時代における人々が思っていた本音が書き綴られていたこともあった。人々が匿名性を担保され、自由に書くことが出来る「便所の落書き」にも、一定の研究の価値がある記録が残っているのだ。

インターネットと匿名の性質~自由な言論かエコーチェンバーか~


 さて時代は下り、インターネットが発明され、一般層の利用という点においては、80年代後半のパソコン通信から始まり、90年代の本格的なインターネット時代が幕を開ける。インターネットはその当初から、強い匿名性という性質を兼ね備えていた。もっとも黎明期のインターネットにおけるパソコン通信は、通常各個人に一つのIDが発行されており、後の匿名掲示板時代よりは匿名性に制限があったのだが、匿名掲示板の普及とともに、匿名性ゆえの行動はかなり拡大していった。当初はインターネットに関する法整備もままなっていなかったことから、初期インターネットの匿名の場というのは、さながら無法地帯の様相を呈していた。流石にこれは問題となり、IPアドレスの記録と発信者情報の開示といった制度的な個人特定の仕組みなどが整備されていくのだが。

 さて2000年代初頭のインターネットの匿名掲示板では、雑多な情報や雑談といった側面も大きかったが、専門知識を持った人間による専門的な分野の板であるとか、多種多様な板で、それぞれ専門的な議論もなされていた。その中で、政治的な意見や思想も醸成されていくことになる。2000年代初期には現在「ネット右翼」と呼ばれる思想の源流が構築されてもいた。ただ、このような思想は匿名の場という性質におけるエコーチェンバー現象、すなわち閉鎖的なコミュニティ環境においてコミュニケーションを繰り返すことによって、特定の信念や思想がより増幅され、先鋭化していくという現象も起こった。政治的な思想は閉鎖環境において先鋭化していき、特定の集団への差別であるとか偏見も増幅されていった。
 その一方で、2ちゃんねるのような匿名の場が、社会のモラルや権威に縛られない自由な言論を行える場所であるとして持て囃されることもある。実際学術的な貢献であるとか、捏造の指摘、匿名による企業や団体などの不正の告発の場となるなど、そういった意味では社会的貢献もなされているという肯定的意見も存在した。

政治的な匿名の意味合い


 ここまで主に2ちゃんねるを中心として、インターネットにおける匿名掲示板の歴史を述べてきた。現代においては、匿名の場というのは、掲示板に限定されず、TwitterのようなSNSも登場して久しい。インターネットが広く普及した現在において、匿名というのは、もはや一部の特殊な人間だけが利用する特別な環境ではなく、人々が日常的に利用する言論の手段として根付いたと言える。その結果、至るところで匿名という場における性質、例えばエコーチェンバー現象による思想の先鋭化であるとか無責任な投稿、デマ、誹謗中傷と言った問題が顕在化し、昨今もニュースにおいて、インターネット上の匿名者をより簡易に特定するといった法制度が議論された事は記憶に新しい。
 無論行き過ぎた匿名の言論は取り締まられて然るべきだとは筆者も思うが、はたしてそういった倫理的、道徳的な視点から匿名の場そのものを規制するということは、正しいことなのだろうか?

 昨今の世の中において社会はより道徳的、倫理的な正しさが求められるようになっている。この事は概ね正しい行為なのだが、しばしばそれが行き過ぎることもある。建前が優先されるあまり、人々が言うべき本音を覆い隠さざるを得ない世の中というのは、果たして健全なのだろうか。無論、中傷的、差別的な行為言動が良いと言うのではない。しかし、道徳的な優位性というのは、ある種理想論を言ったもの勝ちであるという面も否めないだろう。究極的な理想論のみが正しい発言として優位性を担保され、現実的な視点においての発言までもが遮られてしまうというのは、果たして本当に正しい事なのだろうか。筆者が懸念しているのは、やがてはこのような道徳的な建前による「発言の制限」を利用し、強権的、全体主義的な社会を標榜する存在が出現しかねないという点である。

 匿名という場は、社会的なモラルに縛られない場である。そのため自由な言論が担保され、人々は本音を言うことが出来る。もっとも、その本音が必ずしも正しいとは限らないのだが、自由主義的な視点からすると、民主主義における言論の自由が保証されるためには、絶対的な内心の自由と、その内心を、正しくないとしても言うだけならば自由であるという事による多様性のある言論と、その自由が担保されているあらゆるものに影響されない場は存在するべきであると、筆者は考える。


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2020年07月04日

【「再発見」される「普遍性」】「社会的普遍性」の忘却と再発見 ~普遍性の重要性~

「普遍性」とはなにか?普遍性のある作品はしばしば「再発見」される


「普遍的」であるということ


 物語、作品、そして作品のジャンルには、ある時代特有の価値観を超えた「普遍性」を兼ね備えた作品も少なくない。「生と死」「恋愛」「社会構造」「不条理」「格差」「戦争」「人種」「民族」、時代を超えた普遍性には様々なテーマがある。いずれもその作品が制作された時代を超えて、現在をもってしても理解しうる超時代性・・・それが普遍であるという事である。そのような普遍性を兼ね備えた作品はしばしば時代を超えて、再度注目されることがある。その中でも、筆者が大別するにあたって重要であると考えたのは「社会的普遍性」である。この記事では普遍性というものについて、浅学ながら考察してみたい。


自然的普遍性と歴史的普遍性、そして社会的普遍性


 普遍性は三つに分類されると考えられる。一つは人間という生物が生物的に逃れ得ない自然的摂理に基づく自然的普遍性である。つまり「生と死」とか「恋愛」、「病気」、「老い」などが分類されるであろう。これらは人間が人間である限り逃れられないテーマであり、古今東西の人間にとって文化文明を超えて理解しうる「大」普遍性ともいえるものである。近年ではコロナウイルスの流行によって、フランスのカミュの1947年の作品「ペスト」とか、ルネサンス期におけるやはりペストが関係したボッカチオによる「デカメロン」などが再度注目された事などが記憶に新しいだろう。とくに疫病というものは歴史の中で繰り返し人類に突きつけられてきた試練であり、時代を超えて見直されるテーマでもある。
 次に歴史的に形成された普遍性、これは例えば「宗教」であるとか「思想」「哲学」などに分類されるものである。これは先述の自然的普遍性のような、人類に共通するものではなく、ある文化圏によっては普遍性をもつテーマである。例えば「キリスト教」「聖書」などはその代表的なものであろう。もっとも近代において、世界の西欧化とも言える現象によって西欧的価値観が世界の普遍的価値観に繋がったという事もあるが、それでもやはり非キリスト教、非西洋圏の人間にとっては、「聖書」や「西洋哲学」をテーマとして書かれた作品などはこちらが勉強をしなければ理解し難い点があるなど、人類全体の普遍的価値観とは言い難いものであろう。つまり前述の自然的普遍性が「大」普遍性であるならば、こちらは「小」普遍性であるとも言える。
 さらに分類するならば、これが最も重要であると考えられるのであるのが、社会的普遍性、これは「社会構造」であるとか「戦争」「人種」「民族」に分類される、いわば自然的普遍性と歴史的普遍性の中間に位置する、人類社会に置いては一定の普遍性を兼ね備えているが、自然的普遍性のように人類にとって先天的ではない普遍、これは「中」普遍性ともいえるであろう。「強権的支配」であるとか「社会構造」の矛盾であるとか、「戦争の悲惨さ」とか、「人種問題」というものは、歴史を超えて理解され、また文化圏に縛られない世界的な普遍性を持ち合わせている。これらに分類される作品で思い出されるのはジョージ・オーウェルの「1984年」などである。この作品は「強権的支配」が行き着くところまで進んだディストピア小説の代表作であり、今日をしてトランプ大統領が当選した際にアメリカで再度ベストセラーになったり、(もっともトランプ大統領が少なくとも強権的支配を目指す人間なのかという疑問はさておいて)今日の中国のテクノロジーを利用した民衆支配などに合わせて再び注目が寄せられる作品である。
 以上、個人的に三つに普遍性を大別してみたが、この中で最も復活し再注目される「普遍性」としてとりわけ注目されるのは「社会的普遍性」であろう。自然的普遍性は古来から普遍性に過ぎて、作品の数にも枚挙にいとまがないために、あえて注目を向けるということがなかなか無いし、歴史的普遍性とは歴史を通じてある文化圏では今日まで通じるものであるから、それは復活ではなく、いまさら見直されるまでもなくその文化圏に根付いたものであるからである。

社会的普遍性の忘却と復活


 社会的普遍性を兼ね備えた作品は、時代を超えて「再発見」され、「先人の知恵」のように再度持て囃されることがある。しかし普遍性という観点からすれば、自然的普遍性と並んで人類に共通するものであるはずなのに、社会的普遍性に限っては、この現象が特有というか、特徴的なのである。一体何故だろうか? その答えは、社会的普遍性はしばしば「忘却される」からであろう
 「戦争」は太平無事な時代には忘れられるし、「強権的支配」は民主主義の世の中においては、忘れられる。「民族・人種問題」も、ある時期にムーブメントとして再燃しない限り、平穏な世の中の間では忘却というよりは「無かったこと」にされる。そういった人間の愚かさ故に、社会的普遍性は普遍的に記憶されるものではなく、時代によって「断絶」し、何らかの社会的危機が予期されるにあたって、再度「発見」されるのである。社会的普遍性を真に普遍のものとして人々が記憶しているならば、歴史は過ちを繰り返さないし、人類社会はもっと良いものになっていただろう。
 しかし人間の性質上、喉元過ぎれば熱さを忘れる。これはある意味まさに人間の自然的普遍性というか、性質なのである。だからこそ、真に愚かなのは、社会的普遍性を再発見することが出来ず、葬り去ろうとすることである。人々にとって歴史を学ぶ必要性というのは、歴史から社会的普遍性を見つけ出し、今日において警鐘を鳴らし続ける事である。太平無事な世の中で、求められていないものこそが、実は今の世の中に真に必要なものであったということが、歴史的にもままある。求められていないということは、忘れられているということである。忘れられているということは、再度過ちを繰り返す前触れである。筆者をして、歴史を見つめ直す時、あるいは生活の中で、社会的普遍性を忘却していないか、つねに問い続けたいものである。


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2020年07月03日

【海賊党の掲げる思想】液体民主主義とはなんぞや~インターネット民主主義の可能性~


新たなるインターネット民主主義、液体民主主義とはなんぞや


 液体民主主義(Liquid democracy)、聞き慣れない言葉であろうが、概説すると、インターネットを利用したオンラインの形をとった新たなる民主主義の形態としての思想である。いわゆる有権者全員が直接政治に携わる直接民主主義と日本のような国で行われている間接民主主義の双方の欠点を補い合い、長所を組み合わせた21世紀の新たなる民主主義政治として掲げられたのが、液体民主主義である。液体民主主義の名前の由来は、まるで液体のように柔軟に、有権者は自分の思う程度の範囲で政治決定に参加することができ、また有権者によって起草された草案は、議論や合意形成によってたえず形を変化させ、投票へ向かうという柔軟性に由来する。主にヨーロッパにおいて存在する「海賊党」と呼ばれる新参政党によって提唱されている思想であり、現代社会ならではの民主主義の新たなる形として近年期待されている思想である。
 液体民主主義という具体的段階にまでは達していないものの、インターネットを利用した、民主主義のさらなる改良という点においては、今日日本においても議論がなされている場面が、ちらほらと見受けられる。例えばインターネットを利用した選挙活動や、オンライン投票システムであるとか、様々な形で、この21世紀において急速に発展してきたインターネットというインフラを民主主義政治に適応しようという試みが考えられている。もっとも、現段階では公職選挙法の問題や、オンライン投票に関しては匿名性とセキュリティの確保という点を厳格にしなければならないため、未だ理想論として掲げられているのみであるのだが。
 考えてみれば確かに、今日において存在する、このインターネットという現代社会における巨大なネットワークを、正に有権者の意思決定によって政治が行われる民主主義政治という場面に応用しようという試みがなされるのも頷ける。液体民主主義という新たな政治形態が、果たして実際の政治に取り入れられる可能性はあるのだろうか。現段階ではやはり難しいと言わざるを得ない。しかし、昨今のコロナウイルスによる猛威によって、現実世界における人と人との接触が避けられるべきと考えられるようになった体験を通して、インターネットを利用したオンライン民主主義というシステムは、今一度真剣に論考されてもよいのではないだろうか。また、現段階では技術的水準や法制度などインターネット民主主義の実現には様々な壁があるものの、今までインターネットの利用法というものが、その時期の技術的水準によって規定され様々に変化してきたという筆者の持論を述べるのならば、その技術的な水準が然るべきラインに達した時には、インターネットが政治へと利用される日もやって来るのではないだろうか。
もっとも今日において、インターネットが政治に利用される、という言い方をすれば、なんだかネガティブなイメージを伴った、プロパガンダ戦略のようにも聞こえてしまうのだが、しかしそれもインターネットという新たなメディアの逃れられない性であろう。歴史的に見ても、写真や映画、ラジオやテレビなど新たに登場したメディアは絶えず政治宣伝に利用され、それを上手く活用した政治家が政権を勝ち取ったという経緯もある。インターネットという従来以上に幅広く、匿名から実名までが入り混じった環境というものは、実際、宣伝にはうってつけの場でもあるだろう。今日をして、インターネットと政治というものはすでに不可分な立場にあるのにも関わらず、液体民主主義という、技術的にインターネットを政治に取り入れるという試みが目新しく聞こえてしまうというのは、なんだか矛盾したような気持ちもしてならない。


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