思想

2020年07月20日

反出生主義に対するいくつかの異論・反論

反出生主義に対する私的疑問、異論、反論

 

初めに・いくつかの前提


 この記事では、一つの哲学的立場である、「反出生主義」に対する異論反論を唱えたい。


 なおこの記事では、生物の存在以前、及び存在以後の「無」、つまり生前と生後は「無」であるという認識は、反出生主義の立場と一致させた上で考える。

 つまり、なんらかの宗教的な立場、主張を用いて反出生主義に対する異論、反論を行うものではないとはっきり断っておく。もっとも存在以前、存在以後ははたして「無」なのかという事も証明不可能なのではあるのだが、ここではそれを一つの前提とした上で、反出生主義への異論、反論を唱えたい。


 また、もう一つ初めに前提として断っておかなければならないのは、人間は人間として、あるいは動物として存在する以上、「感情論」を排して考えることは出来ないという事である。

 何故ならば、私達が生きるにあたっての「合理的」指標とは、常に快と不快という原則に支えられているのであり、言うなればそれそのものが「感情」であるからである。ある意味では、存在の快・不快という原則を用いた立場である反出生主義もまた一種の「感情論」であるし、それに対する反論もまた、人間が人間として持つ「感情」を全く廃して議論を行うことは、不可能であるし、不毛であるし、意味がないと考える。

 したがって、「感情論」といういささか定義に困る曖昧な言葉を全く排して、人間が思考をすることは出来ないと、まず前提として述べておく。

 

反出生主義とは何か 


 極めて概略すれば、哲学的立場、道義的、倫理的立場から、人間が子供を出生させることに対する否定の論理である。生まれてくる子供が、経験するかも知れない苦痛を考えれば、道徳的に出生を行うべきではないという主張を掲げる。


 反出生主義の基礎の一つとして、「負の功利主義」、つまり一般的な正の功利主義における「最大多数の最大幸福」の原則とは真逆の「最小少数の最小苦痛」とでも言い表すべきな、快原則の真逆である、不快、苦痛を最小限、出来るならばゼロにするべきであるという立場が挙げられる。

 これを突き詰めて考えれば、人間が存在する以上苦痛はつきまとうのだから、人間は存在するより存在しないほうが良いという事になる。


 代表的反出生主義者であるヘルマン・ヴェターは、「人間は生まれてこないほうが良い」とする上で、基本的非対称性の原理を挙げている。「有に対する無」の存在的非対称性・優越性である。概略すれば、無という非存在の、有である存在に対する非対称性、存在しないことによる無の有に対する優越性というものを結論付けている。

  

異論:反出生主義という、「理性優越主義」への異論

 
 反出生主義は、理性優越主義的な思想である。

 ここで筆者が使う理性優越主義とは、人間の動物としての欲求を理性が克服する、あるいは欲求を理性によって飼いならす、あるいはそうすべきであるという考えであると定義しておく。


反出生主義においては、人間の出生という生物的本能を理性によって制限すべきであるという立場であり、人間が動物として持つ本来的な欲求に対する理性優越主義であると筆者は捉えた。


 このような理性優越、あるいは理性絶対主義的な考えは、産業革命、科学革命が起きた近代という時代を支え、発展させてきた。しかし、そのような理性の完全性の信奉、ひいては理性による完全な社会の実現可能という考えが、いくつかの全体主義的な思想を生み出した一つの要因であるという事を忘れてはならない。無論、そのような理性主義の全ての負の側面を反出生主義に適応し、それを反出生主義への反論とすることは、いささか言いがかりめいているため、適切とは言い難いが。


だが、理性優越主義的な考えにおける、人間が動物的存在を超えた理性の生き物であるという考えに対しては、筆者は同意しかねるという立場はまずはっきりさせておきたい。


つまり、この記事の反論の全ての前提ともなるが、まず人間は動物なのである。けれども、人間は確かに理性を持ち合わせた存在でもあるから、その事実を無視することは出来ないのだが、しかし、筆者の立場としては、人間は本質的には感情が理性に先立ち、言い換えるならば、理性によって感情を飼いならしている動物ではなく、実のところ理性とは感情によって飼いならされているのではないかという疑問を呈したい。つまり、本能に関わる本質的な欲求に関わる事項を人間という動物は克服する事は出来ないという事である。

 

異論:「有」存在による「負の功利主義」の実践不可能性


 我々は既に存在している。人間として、動物として、存在している以上は快・不快原則に支配される。
 苦痛を最小限にする、あるいはゼロにするという負の功利主義の実践は、欲求として快を目指す事を主にして存在する我々にとっては難しい。いうなれば、すでに存在している我々は、苦痛を最小限にするという負の功利主義よりも、一般的な功利主義、つまり正の功利主義を目指したほうが原理的に容易いという事である。

言い換えれば負の功利主義とはある種、理性的な立場であるのに対して、正の功利主義とは自然的に欲求に従順な感情的立場であるとも言えるのではないか。

 

反論:「無に対する有」の存在的優越性


  我々は生まれて、存在している。我々はすでに存在している。特にこのことを無視する事は出来ないと筆者は考える。


まず結論として筆者の立場を述べるのであれば、ヘルマン・ヴェターの「有に対する無」の優越性とはある種真逆の論理ではあるが、既に「有」として存在しているということは、非存在である「無」に対する、ある意味での一定の優越性があると筆者は考える。


無から無は生成されないが、有によって無から有は生成される。そして無は欲求を持たないが、有は欲求を持つのである。無を有にすることに対する道徳的な疑問を問うならば、有が有として持つ本来的な欲求を否定することに対する道徳的な疑問も問わなければならない。


我々は既に存在していて、存在する以上は、存在につきまとう制約、動物であるならば、動物として存在する以上は、否応なしに快・不快原則に支配され、その一環として快を目指して、欲求を満たすという行為がある。その欲求の一環として生殖行為がある訳だが、この事は、人間が人間として、あるいは動物として存在する上で免れることの出来ないジレンマのようなものであると考える。それを全く、道徳的に否定することが出来るのかという疑問である。果たして幸か不幸か我々は存在している。動物として存在している以上は、動物という存在のジレンマからは逃れられない。


たとえそれが、存在してしまっている動物が子をなして更に苦痛を繰り返す行為であるとしても、それはこの世界に生物が誕生した時点以来からの生物が生物学的に生物であるゆえの定めのようなものなのであると考える。そして、そのことに対して、人間という動物が生物的本能を理性によって克服し、いわば反出生主義における種族的自殺を行うという試みは、先の人間における理性と感情欲求との関係を前提にすれば、やはり不可能であると言わざるを得ないと筆者は考える。

 

反論:既存の人間のエゴイズムの尊重


 筆者の考える反出生主義への反論の一つに、既存在である、「今生きている人間のエゴイズムを尊重すべきである」という論理がある。

 (反出生主義的に言うのであれば)「既に存在してしまっている」人間のエゴイズムを否定することは出来ないと筆者は考える。

これは若干前述した事とも重なるのだが、まずこの文を読んでいる、我々人間は既に存在していて、生きていて、欲求を有する。その欲求は、道徳的に尊重されなければならない。


 確かに我々は、これから生まれてくる子供たちに対する全人生の保証はしかねるというか、出来ない。しかし、我々は存在して、欲求を有している。愛情に代表される感情、必要性、あるいは快楽として、子をなすという行為は、我々のような存在する「有」にとっての正の功利主義であり、幸福(快楽)を追求する行為なのである。繰り返すようであるが、無に対する道徳的尊重を行うならば、既に存在している有に対する尊重も行わなければならないと考える。

ここで一つ問わなければならないのは、反出生主義においては、子をなして、存在させ、苦痛を伴う人生に投げ込むことに対する道徳的な疑問が提唱されているのであるが、筆者としては、果たして、我々動物としての人間が純粋な本能によって行う行為に道徳的善悪を問うことは出来るのかという疑問を、質問を返すようであるが、問いたい。


子をなすことが出来る最小数の二人の男女がこの世界に「すでに存在」しているのであれば、彼らが望む事として子をなすという行為に対してそれを彼らが望んだらならば、それに否を突きつけることはできるのだろうか。出来ないと筆者は考える。なぜならば、彼らは存在しているからである。彼らが望む行為として、子をなすという自由意志を否定することは、道徳的にできないと考える。

 

終わりに


 以上が筆者の考える反出生主義に対する異論、反論である。筆者としては、あえて人生は素晴らしいものであるとか、あるいは苦痛を伴うものであるとか、反出生主義は良いか悪いかとか、そういったことに対する議論は控えた。

 ただ単純に、反出生主義という思想そのものがもつ不完全性のようなものを問いたかったのである。

 無論これらの異論反論に対するさらに異論反論もあるだろう。そのような意見はぜひコメント欄などでレスポンスしていただけると幸いである。




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2020年07月07日

ヴァーチャリズム/バーチャリズム(Virtualism)の今日における思想的実践



(2020/07/10追記)わかりやすいヴァーチャリズムの定義について記事を書きました

もくじ
1.ヴァーチャリズムとはなにか
2.ヴァーチャリズムの今日のおける状況と実践
3.ヴァーチャリズムは実践可能であるか?
4.思想的側面からのヴァーチャル生活実践の補強
5.終わりに(本音をぶちまけるコーナー)←せめてここだけでも読んでください・・・筆者は思想的にヤバい人ではないので・・・

ヴァーチャリズムとはなにか

 ヴァーチャリズムとは今日、既存の用語として、美術的分野の意味をもつ言葉としても用いられているが、このブログで提唱するヴァーチャリズムとは筆者独自の考えである。その定義用法については【考察】ヴァーチャルの可能性とヴァーチャリズムの提唱の記事に詳しく書いた。この記事においても手短に説明するならば、ヴァーチャリズムとは現実を前提としないヴァーチャル世界の展開、ヴァーチャル世界それ自体の独立を目指す思想である。言い換えるならば、ヴァーチャル世界に現実が想定されない世界の実現である。現実世界と同程度かそれ以上の価値をもってヴァーチャル世界という存在が確立され、世界というものが複数並立可能であるという可能性を前提とした思想だとも言える。
いささか筆者の誇大妄想的なものでもあるが、昨今のヴァーチャル技術の発展にたいして思想的な面からの補強を行うという試みには何らかの意味があると信じている。前回の記事では、今後の技術発展を見込んだ未来に実現する世界観としてヴァーチャリズムを展開したが、この記事では現在におけるヴァーチャリズムの状況と実践について扱いたい。



ヴァーチャリズムの今日における状況と実践

 筆者の定義するヴァーチャリズムという思想は、今日、主にバーチャルユーチューバー界隈において一部では一定の形で実践を目指されているとも言える。Twitterの自己紹介文を参考にさせていただくと、バーチャルユーチューバーであるPhio(フィオ)氏はバーチャルで生きていける世界を目指した技術的な取り組みを行っており、またPhio氏の取り組むバーチャル世界の実現の試みをざっと見させていただいたが、極めて興味深い。
 また、メディアアーティストであり技術者の坪倉輝明氏もまた、Twitterの紹介欄にて、「テクノロジーを駆使して現実とデジタルの境のない世界」を目指していることを述べられており、ホームページのプロフィールにおいても、「現実とデジタルの境を曖昧にさせるような中間的な体験を創っている」といった事を書かれている。これも筆者の考えるヴァーチャリズムに近いとも言える。
 また、バーチャルユーチューバーでありポエムコアアーティストのミソシタ氏もまた、「ヴァーチャルで生きる」事をテーマにした楽曲を作成されており、代表曲の一つである「地下二階のレジスタンス」では、「リアルとヴァーチャル どっちも自分 結局魂は一つってこと」といった歌詞など、ヴァーチャリズムという観点からも極めて興味深い世界観が展開されている。また「革命前夜」の歌詞における、「Realじゃないが Fakeでもない 俺らはVirtual」と言った歌詞も、筆者の考えるヴァーチャリズムの理念と極めて近い。
 またVRプラットフォームである「VRChat」におけるヴァーチャル世界の様々なワールドにおいて交流を行い、バーチャル空間を生活の場として実践する試みも、ヴァーチャリズムの実践と言えるものであり、筆者もとても注目している。
 また、筆者が最も注目しているものとして、「バーチャル美少女受肉おじさん」こと「バ美肉」おじさんの存在が挙げられる。彼女ら(彼ら)はおじさんでありながら、おじさんであることを表明しつつ、ボイスチェンジャーやあるいは生声で、少女の姿のアバターを使って活動する方々である。現実にとらわれない、なりたいものになれる試み、まさにヴァーチャルの、ヴァーチャリズムの真骨頂ではないか。彼女らの存在を思想的に裏付けるために私はヴァーチャリズムを考えだしたと言っても過言ではない。
 以上僅かであるが、今日において筆者の考えるヴァーチャリズムに近いと言える試みをされている人々についての状況と実践について述べさせて頂いた。改めて色々な人々を見ると、筆者の想像以上に筆者の考えるヴァーチャリズムに近い行為の実践を既になされている人は多いという事に驚くと同時に感動を覚えた。

ヴァーチャリズムは実践可能であるか?

 さて、筆者の考えるヴァーチャリズムというものが、本当に実践可能なのかということについて今一度考えてみたいが、とても非現実的ではあるが、ヴァーチャリズムという考えがもしも全人類に浸透し理解されたならば、それは今日からでも全人類にとって実践可能であると考える。
 技術的に未だ未熟な部分があるとは言え、ヴァーチャリズムの本質は先に述べた通り、ヴァーチャルにおいて現実が想定されない事によって、ヴァーチャル世界が世界として成立し、独立することである。より平易に述べるのであるならば、ヴァーチャル世界は現実から独立したものであると考える事が出来たのならば、いささか極論すれば、その時点でその個人にとってはヴァーチャリズムは成立するのだ。つまり、技術的進歩に先立ってヴァーチャリズムがもしも思想として一つの立場を築く事が出来たのならば、ヴァーチャリズムを掲げる人々の間では、ヴァーチャリズムとして、ヴァーチャル世界を現実から独立させるという事は可能なのである。それがヴァーチャリズムが思想であるがゆえの強さであり、思想とは人々にとっての世界の認識を変化させ、規定するものであるからして、実践可能なのである。世界の認識について持論を述べさせていただくならば、世界とは決して絶対的にそこに横たわるものではなく、人々の認識によって変貌し、変化可能なものである。グローバル化やインターネットの普及によって、世界のあり方は大きく変化したように、重要なのは、人々の認識の問題なのである。



思想的側面からのヴァーチャル生活実践の補強

 ヴァーチャリズムをヴァーチャリズムとして定義づける事に今日においてどのような意味があるのか? 前文に少し書いたが、筆者としては、技術的な進歩によるヴァーチャル世界の発展に思想的な補強を加える事によって、可能である、あるいは可能になりつつある世界の実現に対して、理想的な姿を筆者なりに思想的に定義づける事によって、ヴァーチャル世界の発展を願うものである。思想的な側面からのヴァーチャルへのアプローチは、今日においても無いではないが、少ないと感じた筆者は、何か少しでもヴァーチャルの発展に寄与したいと思い、ヴァーチャリズムという思想を提唱することで、他人任せになってしまうが、この記事などを見た誰かがこの思想に感化される事を願っている。もちろん、思想的な側面からのアプローチというのは、あくまでヴァーチャルの発展ということに対しては二次的三次的な行為であって、最も尊ばれるべき行為は、日々行われている技術者の方々の努力や、バーチャルユーチューバーとして日々活動されている方の努力に他ならない。
 また、筆者なりに定義したヴァーチャリズムにおける理想的なヴァーチャル世界像に対して、もしこの記事などを読んでくださった方にとっては様々な異論反論を持つであろうことも想定されるが、それは筆者としても願っている限りである事であるので、なにか意見がある方はぜひメッセージを送って欲しい。筆者が真に願うのは、様々な意見の止揚によって、未だ不明確な側面の多いヴァーチャリズムというものが、より実践可能であり魅力的な、説得力を持つ思想として確立されるという事である。


終わりに(本音をぶちまけるコーナー)

 なんだかますます危ない思想というか宗教めいてきちゃったぞオイ!と思うところである。筆者としては、ヴァーチャルに現実を持ち込むのは夢とロマンをなくすし興を削ぐだけだからやめようねと言いたいだけなのだが、それに思想的裏付けをなんとかして与えたいと考えた結果がこれである。バーチャルの発展への寄与どころか、まかり間違えば見た人をドン引きさせかねないようなものになってきてしまってきて、本当に申し訳ない限りである。そういった点において、お叱りやご批判があれば、どうか送っていただきたい。


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2020年07月02日

ヴァーチャルの可能性とヴァーチャリズム(Virtualism)の提唱

バーチャル至上主義、「ヴァーチャリズム」の可能性


(2020/07/10追記)わかりやすいヴァーチャリズムの定義について記事を書きました

 
 ―前回書いた【エッセイ】別世界としてのインターネットと、現実の延長としてのインターネット 【考察】の続きとして読むとよりわかりやすいかも知れません―

 ここ数年ヴァーチャル技術を活用したバーチャルユーチューバーと呼ばれるコンテンツが急速に形成された。筆者はあいにくバーチャルユーチューバーというコンテンツそのものにはあまり詳しくはないのだが、ヴァーチャルという概念そのものの可能性に大いに期待を寄せる確かなきっかけになった。VRやAR技術による世界のあり方の変革の可能性については、様々な方々が提唱しているが、筆者はヴァーチャリズム(ヴァーチャル主義)とでも呼称されるような、よりドラスティックなVR革命の可能性について考えたいと思う。
 全く新しい現実の可能性、ヴァーチャル・リアリティ(VR)技術の発展は、やがて人類社会の存在そのものすら揺らがしかねない可能性を秘めているように、筆者は空想してならない。というのも、ヴァーチャルとITの技術発展が進めば、既存の世界の在り方そのものをアップデートさせる事が、現段階の予測として可能であるという点にある。ゲーム的に言えば、技術のテクノロジーツリーのある種最終地点に位置するのが、人工知能とヴァーチャル技術であるということであり、世界は最終的に人工知能とヴァーチャル技術によって完成する。ヴァーチャルという新しい世界の生成は、現在をして様々な応用や活用に発展し、さらに一定の技術的水準に達すれば、全く新たな、もう一つの現実としていくつものヴァーチャル世界が現実世界と並列し、そしてひいては現実そのもののヴァーチャル化、ヴァーチャルの「現実」化が進められるのではないかと筆者は期待を寄せている。

バーチャリズム/ヴァーチャリズムとはなにか


 今日のインターネットは、多くの人々にとって現実の延長として使用されている。今日においては、現実が主人であり、インターネットとはそれに従属する延長であり、現時点のヴァーチャルもまた然りである。しかしヴァーチャル技術の進歩によって現実がヴァーチャルに取って代わり、人々の生活の主たる場がヴァーチャル世界になる。ヴァーチャルに存在するものは現実から独立した存在であり、現実というものは想定されないヴァーチャル存在それ自体の独立… そんな可能性をある種の思想的に、筆者はヴァーチャリズムと定義して考えている。
 ヴァーチャル世界というものは、現実の物理世界以上に可変性に富み、いくらでもなりたい姿の自分になることが出来るし、(現実を前提とした言い方になるが)非現実的な世界にいくらでも飛び込むことが出来る。例えば今日におけるバーチャルユーチューバーというものは、どうしても現実を起点に、いわゆる「中の人」というものが想定されてしまうと聞くが、ヴァーチャルがヴァーチャル世界として存在し、ヴァーチャル世界に存在している状態において、現実というものが一切想定されない、思想的にヴァーチャリズムの実践された世界とはそのような世界であるとも言えるであろう。現実は相対的にあくまでただの一つの世界となり、複数のヴァーチャル世界をも含めた中の一つになる。そんな世界観が、ヴァーチャル技術の進歩とともに実践可能となる世界の可能性を提示したい。

現実そのもののヴァーチャライズド


 ヴァーチャリズムを徹底するためには、ヴァーチャル世界が技術的進歩によって確固たる世界として確立すると同時に、現実そのものもヴァーチャル化されなければならない。これはAR(オーグメンテッド・リアリティ)に分類される技術の発展とも言えるかもしれない。これは何故かといえば、現実として存在する物質世界のヴァーチャル化を徹底的に行わなければ、依然としてあくまで現実を中心とした周辺的なヴァーチャル世界の形成といった段階に留まってしまうからである。現実というものを全く前提にしないヴァーチャル世界の独立というヴァーチャリズムの観点からは、これは容認しがたいことである。
 では現実のヴァーチャル化とは何であろうか。現在をして、現実の物質的なものに価値基準を根ざさない仮想通貨の登場や、インターネットを通じたテレワークの実施などが挙げれられるが、注意しておかなければならないのは、これは厳密に言えばこれは現実のデジタル化であり、ヴァーチャル化とは微妙に異なる点である。両者は何が異なるのか。デジタル化というのは、現実を様々なIT技術によって置き換え、現実をインターネット化させる試みであるがあくまでそこには現実の主体的現実性とでも言えばよいのだろうか、インターネット上に新たな世界が出来たとしても、あくまで現実という世界がプライマリーである状態であるであろう。ヴァーチャル化というのは、デジタル化を前提に踏まえた上でより進歩して、まず思想的にヴァーチャルという技術と概念を前面に押し出すことを念頭に置いて、ヴァーチャルそのものが少なくとも現実と同等の世界であるという価値基準を明確に浸透させることによって、人間社会を変革する試みである。
 これは現時点ではより空想的なものになるであろうが、技術的進歩によるヴァーチャル世界の確立とともに、資本主義的社会は撤廃されなければならない。これは、貨幣価値を基準にした社会が現実として存在する限り、ヴァーチャル世界が真に現実から独立することは出来ないからである。社会に貨幣経済を基軸とした体制が残る限り、現実主義的な実利主義、物質主義的な価値観は資本主義によって担保され、社会が物質主義的である以上、非物質的なヴァーチャル空間は前述の通り現実に従属した周縁的存在に留まらざるを得ず、言い換えれば資本主義的価値観そのものが、ヴァーチャリズムにとっては障害となるからである。
 現時点でそれが実現する可能性は、人工知能の発展にともなう労働力の代替、いわば第四次産業革命と呼ばれる現象のさらなる進歩に他ならないであろう。人工知能が現実的な場面における人間の役割を代替し、それに伴い、現実そのもののあらゆる場面が本質的な意味でヴァーチャル化される事が可能となる、つまりヴァーチャルを基軸とした社会体制の構築であり、ヴァーチャルが現実を従がえる段階にまで達して始めて、現実を前提としないヴァーチャルそれ自体の独立というヴァーチャリズムの理想は完遂されるのである。

来たる人工知能社会とヴァーチャル革命


 技術的発展を概観すれば、人工知能は遅かれ早かれ、少なくとも「人間と同程度の能力」を有するまでに進歩すると予測できる。それに伴い、利益性という壁もあるだろうが、少なくとも殆どの産業において労働力は人間から人工知能へと代替される事が予測される。そうなれば人類の大半は失業者となり、必然的に現段階のような資本主義社会というものは見直されざるを得なくなるであろう。では、その後の世界はどのようなものになるのだろうか。人類は労働から開放され、自由な生活を送ることが出来るのだろうか。その後の世界の予測は、悲観的なものから楽観的なものまで様々なものがあるが、なんにせよ、その後の世界がユートピアとなるためには、従来の価値基準を覆すに足るだけの確固たる思想が用意されていなければならないと筆者は考える。それがヴァーチャリズムである。
 ヴァーチャルを主体とした新たな世界において、人類は自らの生まれつきの制限からすべて開放される。人工知能が進歩すれば自動翻訳の実用化とともに言語の壁は無くなるであろうし、肌の色や身分に縛られることもなくなる。万人が思い描く理想の自分としていくらでも変化可能な形態として振る舞うことが出来るのである。また住む場所にも固定されない。ヴァーチャル世界の中で、人々はいくらでもどこにでも、物理的制約を超えて存在することが出来るからである。ヴァーチャリズムが実現した世界であれば、貧富の差というものは存在しなくなり、自由な人生を謳歌する事ができる。この時点で人々が行うべき唯一の仕事は、ヴァーチャル世界のさらなる改善と、拡張・発展のみである。

現時点でのヴァーチャリズムの実践


 現段階の世界においては、ここで語ったヴァーチャリズムを支える柱であるヴァーチャル技術にしても人工知能にしても、まだまだ未成熟な段階であることは否めない。しかしながら、現時点で行えるヴァーチャリズムの実践として、ヴァーチャルはヴァーチャルであり、現実とは異なる世界であるという思想的な捉え方は、可能であろう。例えばヴァーチャル存在はヴァーチャルであるとして、現実に繋がる要素を徹底的に拒否する事は、ヴァーチャリズムにおいては思想として許容されるのである。ただ、その事は現時点の世界では、単なる現実逃避でしかないという意見が多数を占めるであろうが、ヴァーチャリズムの立場においては、繰り返し述べるが、ヴァーチャルにおいて現実を想定しないという事が重要なのである。

終わりに


思いっきり妄想をぶちまけて書いてしまって申し訳ない限りである。この記事の大問題は、技術的発展とか述べているが、筆者そのものがその手の分野の実際の技術についてド素人であることである。そのため具体的な内容に欠け、妄想的記事になってしまった事は大きな反省点である。思いっきり、昨今のVRブームに触発されてつらつらと重ねていた妄想を、深夜テンションで書きあげてぶちまけてしまったものである。
しかしながら、ヴァーチャルというものを技術的視点のみならず、思想化し、今後の世界の展望として掲げる事は、一定の価値を持つと考える。(反省していない)


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