小説

2020年07月21日

【エッセイ】ど~でもい~であろう筆者の小説裏舞台話/ブンガク的な性癖ぶっちゃけ話

この記事では筆者のネットに投稿した作品のネタバレが含まれています。一応ご注意を。あと筆者の小説を呼んだ上で読むとより面白いかも知れません。(宣伝)


 
 筆者はいくつか小説を書いている。発表していない作品、ネットではない場所で発表した作品、ネットで発表した作品、全部合わせても十とちょっとほどで、何らかの実績があるわけでもないのだが、まあアマチュア小説家の端くれの端くれくらいは名乗っても良いんじゃないかと思っている。

 最近はカクヨムにて『落日の幻想帝国』というお話を書いた。とある帝国が滅びる時に、人は何を思うのか、国が滅びるということは、国とはなにか的なテーマで書いたお話である。今読み返すと、いささかテーマにこだわるあまり、小説としてのまとまりが薄くなってしまったような感もあるのだが、ともかく完結させることが出来て良かった。

 さてここからが本題のようなものなのだが、題して「恐らく多くの人にとってど~でもい~であろう筆者小説の裏舞台」である。要するに小説を書く筆者は何を考えて小説を書いていたりするのかという事を、裏舞台として暴露してみたい。

 まず筆者の小説、プロット段階では必ずと言っていいほど人が死ぬ。特に主人公が死ぬ。なんでだろう。筆者にもわからない。筆者自身構想を練る時「人が死ぬ話しか書けんのかおどれは!?」と自身にツッコミを入れたくなるほどである。

 例えば最新の作品である『落日の幻想帝国』、主人公はだいたい20代前半あたりの女性をイメージしていたのだが、プロット段階では筆者は思った。帝国の滅亡という設定、そして若い女主人公。これはもう最後は主人公を火の中に放り込んで自死させなければならぬ!と(何故?)。
 幸いなことに、主人公は書いている内に筆者の気が変わった、あるいは物語の都合上で、死ななくても良いことになった。めでたしめでたしというエンディングではないのだが、ちょっとだけスッキリする希望がある終わり方にになった(なってしまった)。そして未だにどうにかして火の中に投げ込みたかったという危ない未練もないではない。だってさあ、うら若き乙女が帝国の滅亡とともに自ら火に飛び込むってそれもう芸術でしょう・・・。どうにかして実現させたかった。いずれ懲りずに何処かで使い回すかも知れない。

 その前に書いた『お月さま』の女主人公(十五の少女)は、ズバリ死なせるつもりで書き、実際死んだ。しかもラストシーンは同じく十五歳の少女の死体の山が発見されるというオチである。なんだか筆者は今まで書いた小説、プロット段階では「かしら言葉」を使うような乙女な女の子が主人公で、しかも最後にそれを死なせるというのだから、筆者は何だ、危ない猟奇趣味者か何かなのかと思ってしまう。

 しかし筆者は思うのである。うら若き儚い乙女がなんだかんだあって死ぬ。これはもう文学であると!

 やっぱり危ねえやつだな!と思われないように断っておくが、文学作品にも実際そういう作品は多いし、大体文豪と呼ばれる方々は、失礼を承知で言うと大体変態である。だから筆者も立派な小説家を目指して性癖をさらけ出すのである。あーこれは仕方ないことだ。

 なお、どうして筆者が「うら若き乙女」にこだわるのかというと、もちろん真面目な性癖上の問題もあるのだが、「うら若き乙女」は筆者自身に対して恐らく人間という存在の中で対極に位置するであろう存在だからである。おなじ人間という存在でありながら、対極の遠い場所にあり、だからこそ筆者にとって一定の神秘性をもって輝いている。つまり美しい存在であり、美しい存在だからこそ、蝶のように舞い、美しさを振りまいて、そして死んでほしいのである。滅びの美学である。これは文学的な真面目な話である。

 一応断っておくと、無論筆者は現実で人を傷つけるつもりは一切ない。小説であるから、あるいは小説だからこそ、自らが作り上げる世界の中で、性癖を発揮したいのである。
 付け加えれば筆者は人を傷つけたいというよりは、むしろ「うら若き乙女」側に自己投影したある種のマゾヒズムをも含んだオートガイネフィリアとオートアサシノフィリアが入り混じりった性的興奮というよりは精神的満足感、充実感を得る性癖が・・・これ以上書くと流石にドン引きでは済まされ無さそうなので止めておく。

 なんだか途中から暴走して筆者の性癖暴露になってしまって恥ずかしい限りであるが、あえて隠すこと無くそれを記事にしたい。
 というのもかつて確か三島由紀夫が、「小説家というのはみな精神的露出狂である」というようなことを言っていたが、実際面白いと思われるような作品を書くには、やはり作者の精神的な性癖なりをありありと見せつけないとならないのではないかと、小説家の端くれの端くれの筆者としても思うところである。だから『お月さま』書いている時にちょっと興奮してましたとかぶっちゃけても、それは小説家として問題ないのである(人間的には大いにあるよ)。


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2020年07月18日

【カクヨム】落日の幻想帝国

 この度カクヨムにて『落日の幻想帝国』というお話を書きました。一万字ほどの短編で完結済みです。
 国が滅びるということはどういう事か、国とはなにか。そんなお話です。お暇があれば、是非どうぞ。



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2020年07月16日

【カクヨム】小説『お月さま』投稿

 以前「小説家になろう」にて投稿させていただいた小説『お月さま』をこのたび「カクヨム」にも投稿させていただきました。
 綺麗な綺麗なお月さまに魅入られた少女の、ちょっと怖いダークなお話です。3000文字ちょっとなので、お暇な際などにぜひどうぞ。


一応なろうの方のリンクも張っておきますが、内容は同じです。


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2020年07月06日

【書評】『NHKにようこそ!』滝本竜彦【ストーリー考察】 ~名キャラクターたちの魅力とダメ人間に送る「答え」~

全ての落伍者へ送る、日本ひきこもり協会の陰謀


追記:この記事がなんと作者である滝本竜彦先生から直接ご紹介いただきました!とても名誉なことです!感激です!
 なお、滝本竜彦先生の紹介からこのブログにやってきて、このサイトはなんぞやと思われる方は、
の記事にてこのブログの特徴などを解説しているので、よろしければご覧ください。


NHKにようこそ! (角川文庫)
滝本 竜彦
KADOKAWA
2018-10-25


 NHKとはなにか。某公共放送局のことではなく、「日本ひきこもり協会」のことである。この作品は、筆者が鬱屈していた青春時代の半ばひきこもりのような状態の時に出会い、人生の歩み方そのものにも多大な影響を受けた一冊である。筆者のような、いわゆるダメ人間を自負する人間にとって、この小説は、後述に詳しく書くが、何度読み返しても考えされられるものがある。
 なお『NHKにようこそ!』は漫画化やアニメ化もされているが、それぞれ設定やストーリーなどはこの原作小説と異なる部分も大きい。一番原作との差異が見られるのは漫画版であり、ストーリーの根幹となる設定も異なっている。アニメ版は、漫画版のストーリーを踏襲しつつ、全体的には原作のストーリーと設定に寄った、原作と漫画版の折衷というか、原作と漫画というそれぞれの『NHKにようこそ!』をまとめた完全版的な側面もある。
 この原作小説は、三つの『NHKにようこそ!』の中では最もシンプルな形であり、それ故に物語としてもよくまとまっており、『NHKにようこそ!』のテーマをはっきりと示している一冊であると筆者は考える。

「NHKにようこそ!」あらすじ


 物語は、主人公であり、精神的問題を抱えたひきこもりである「佐藤達広」が、アパートの一室で悶々と日々を過ごす場面からスタートする。全てが上手く行かず、精神の調子の悪いひきこもりの日々、そんな中、一人の謎の美少女「中原岬」との偶然の出会い、さらには、偶然アパートの隣室に住んでいた佐藤の高校時代の後輩、「山崎薫」との再開などをきっかけに、ぐるぐると回り続けるひきこもりライフから脱出すべく、ヒロイン「中原岬」の行う、脱ひきこもりのための「プロジェクト」と、旧友「山崎薫」とのひょんなことから始まったエロゲー制作を通じて、物語は進んでいく・・・というのが、本書の序盤における大雑把なあらすじである。

(以下の項目は、ストーリーの根幹に踏み込んだものとなる。ネタバレもあるので、未読の方は注意!)


色々と大丈夫じゃない主人公、佐藤達広の魅力


 一流のひきこもりであり、ダメ人間を自負する男、佐藤達広。精神的問題から大学を中退し、数年間に渡って故郷の実家の両親を騙しながら、ひきこもり生活を続けている主人公である。合法とはいえ幻覚剤を仕入れ、それにトリップして幻覚を見ながら、危険な妄想と陰謀を思案する、色々と大丈夫じゃない主人公である。
 そんな佐藤達広であるが、この『NHKにようこそ!』が今日でも名作として語り継がれる所以である名主人公でもある。その要因は、なんと言っても、筆者のようなダメ人間を自負する人間にとって感情移入がしやすいキャラクター像であるという事が挙げられる。実家の両親にひきこもり生活を隠しながら生活する後ろめたさや、危険で不安定な精神状態など、ダメ人間にとってはしばしば共感する所が多い主人公なのではないだろうか。
 とは言え、彼はダメ人間とはいえ、もしくはダメ人間であるがゆえのプライドなのかも知れないが、旧友山崎をかつていじめの現場から救い、山崎から長らく恩を感じられて慕われていたり、ヒロイン中原岬との不思議な関係にも、一定の「けじめ」のようなものを持って接して、作中終盤に置いてはその関係の重大な岐路において選択をし、最終的には岬ちゃんを救う、一定の芯のある男でもある。そのことが、次節にて述べる、歴史的名ヒロイン「中原岬」の存在に対して、確固たる存在の主人公として、作品にバランスを取ることが出来るキャラクターとして、佐藤達広を名主人公たらしめている点でもあるだろう。

かなりとても色々と大丈夫じゃないヒロイン、中原岬の魅力


 さてこの物語における重要なテーマを担う謎の美少女であり、この物語のもう一人の主人公でもあるヒロイン「中原岬」。彼女は魅力的なヒロインとして今日をしても度々名が上がるほどの人気度の高いキャラクターである。一見して超然的で、明るくとらえどころのない飄々とした振る舞いと、その裏にある深い暗い影とが折り重なったキャラクター像は確かに筆者にとっても最も印象深いヒロインの一人であるし、筆者も『NHKにようこそ!』ファンの「岬ちゃん待望論」を思い続ける一人でもある。
 ストーリーを明かすと、彼女が抱える精神的問題、人生の重さは、主人公の佐藤以上のものであり、彼女の求める佐藤への真意こそが、この物語の根幹でもある。彼女は家庭環境や半生など非常にままならない境遇にあり、ギリギリの精神状態で生きている。だからこそ、彼女は自分自身のために、決して恋愛ではない感情を佐藤に向け、あるいは佐藤を利用して、自らを保っているのである。
 たまにネット上で岬ちゃんがいわゆる「ヤンデレ」に分類されることがあるが、これは異なるでろう。どちらかと言えば、いわゆる「メンヘラ」に近い。「ヤンデレ」と「メンヘラ」の違いは筆者の個人的な考えとなるが、「ヤンデレ」は対象に対する絶対的な恋愛において行動するのに対して、「メンヘラ」は好意対象に向ける感情が決して恋愛であるとは限らないし、どちらかと言えば自分自身のために行動するのである。実際岬ちゃんも、作中後半にて佐藤に真意を明かすまでは、自身のために佐藤を利用していた。また作中のラストを除いては、佐藤に向ける好意も、恋愛というよりは共依存の関係であり、依存すること、依存されることによって自身の立ち位置、存在価値を規定しようとしていたのである。

やっぱり色々と大丈夫じゃない旧友、山崎薫の魅力


 佐藤の岬ちゃんとの関わりと同時に展開される、この物語のもう一つの重要なストーリーとして、旧友山崎とのハチャメチャで、けれど憧れられる友人関係が挙げられる。山崎の存在は、この物語が単なる「美少女ヒロインもの」ではなく、人間関係を描いた一つの名作小説としての立ち位置を築くにあたっての重要なファクターであろう。
 山崎薫という人物は、自立して専門学校に行き生活を行っているという意味では生活環境も作中では比較的マシで、人間性も一見まともで、ストーリーにおける常識人に見えるのだが、その実不安定さや危険性は佐藤と同程度かそれ以上のものである。一度酔ったり怒らせると手がつけられない、そんな人物であり、佐藤との織りなす友人関係は、破天荒で読んでいて面白いものである。
 思えば、山崎のような立ち位置の、男性の友人関係という存在は、美少女ヒロインが主要となる昨今のライトノベルやサブカルチャー小説において軽視されがちなものではないだろうか。この小説では、そうした人間関係がきちんと描かれているということが、ストーリーに面白みと深みを増している。男友達という山崎の存在は、佐藤にとって当初は不審な形でであった岬ちゃん以上に比重が大きいものであり、作中終盤にて山崎が故郷に帰ってしまってからは、岬ちゃんとの関係の問題も相まって、佐藤は深刻な精神状態に置かれることとなる。またネット上においても、『NHKにようこそ!』ファンは「岬ちゃん」のようなヒロインを待望する声と同時に、山崎のような友人が欲しいという声も少なくなく、人気の高いキャラクターである。

ストーリー考察~なぜ本作は鬱屈したものを抱く人間にウケるのか~


 主人公佐藤達広はひきこもりである。ただ、ひきこもりやニートである人間に限らず、主に青春時代に何らかの挫折を経験し、今もなお鬱屈としたものを感じている人間、特に自分のことを「ダメ人間」と自負している人間にとってはこの物語は非常に刺さる。
 その要因としてまず一つに、それは、全く偶然にヒロイン「中原岬」と出会い、偶然に旧友「山崎薫」と再開した、この物語の導入における強い「偶然性」に起因するであろう。そして本書は単なる「偶然性」を超えて、ひょっとしたら明日、いや今日にも、自分にも、この鬱屈とした人生を打開するチャンスがやってくるかもしれない・・・という期待を抱かせるに値するだけの力を持っているのである。明日、自分の元にも岬ちゃんがやってくるかもしれない、そんな淡い期待をも、多くの読者に長年抱かせることになった。偶然、妄想として片付けてしまえば訳ないだろう。しかし、藁にもすがりたい、鬱屈とした人間にとっては、それは偶然で片付けることはできない。自分の人生は変わるべきだし、変わらなければいけない、その力を、ある日突然岬ちゃんがもたらしてくれたら・・・という前述の節でも述べた、「岬ちゃん待望論」的なものは、今日においてもなお存在する。
 この作品が名作たる所以は、もちろんそういった偶然性や待望だけではない。第二の要因に挙げられるのは、個々のキャラクターにおける深い共感性の存在であろう。この物語では、主人公佐藤達広、ヒロイン中原岬、そして旧友山崎薫、メインキャラクターである三人には前述の通り、三者三様の事情が存在し、それぞれがままならないものを抱えている。鬱屈としたダメ人間にとっては、それらの境遇とも自らの精神とが共鳴しうるのである。
 第三に、この小説は、ダメ人間がダメ人間に甘んじる事をダメでいいさと一部は肯定しつつも、ある意味ではきちんと否定し、生きていくことを大前提に、人間的、精神的自立を促してくれているという点である。特に佐藤達広と中原岬の関係、二人のままならない人生、そしてその人生を打開するだけのなにかを、お互いに求めあい、そして最終的にそれぞれが自分なりの、曖昧で不確かで不安定かもしれないけれど、二人は確かに答えを見つけ出すのである。
 以下ストーリーそのもののネタバレとなるが、物語の後半において、佐藤は一度は岬ちゃんの求める「共依存」関係を拒否する。この事は佐藤のプライドであり、そして佐藤なりの岬ちゃんとの関係に対する「けじめ」であろう。佐藤に拒否された岬ちゃんは精神的に極めて追い詰められ、死を決意する。その事を知った佐藤は、岬ちゃんを救うべく、最終盤、必死に岬ちゃんを説得する。そして自らなりの「けじめ」と、岬ちゃんや山崎との関わりの中で様々な事を乗り越えた上で決意した佐藤なりの「人生論」を岬ちゃんに見せつけ、岬ちゃんに生きることを決意させるのである。そして、ラストシーン、二人は「共依存」を超えて、二人なりに見つけ出した形の絆によって結ばれるのである。
 この安易な「共依存」関係の否定は、この物語が決して甘い考えを抱く、いわゆるダメ人間にとっての理想主義的なものを展開するのではなく、それを否定して、はっきりと物語の根幹を示すものである。つまり、決してこの物語はダメ人間に寄り添って、それを肯定するのではなく、むしろダメ人間に甘んじることの否定、いやもっと正確に言えば、「ダメ人間」であることは肯定しつつも、それでも自立して生きていかなければならないという事を読者に伝えているのではないだろうか。それこそが、この『NHKにようこそ』が単なるひきこもりの物語を超えて、今日をして迷えるダメ人間のバイブルとして評価される一因であると、筆者は考える。




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2020年07月05日

【なろう系小説】「なろう系」考察論 ~「チートもの」についての物語的メカニズム考察~

物語の中の「チート」とは何か?


 前回書いた【考察エッセイ】現代社会における「なろう系」異世界ファンタジー論に続き、なろう系考察第二弾である。今回考察するのはなろう系に特有のものである要素の一つ「チート」である。この記事ではあくまで、「チートもの作品は幼稚である」とか、そういった視点ではなく、「チート」そのものが物語的にどのような意味を持つのだろうか? という事を筆者の視点から考察したい。

ゲーム的な世界観における「チート」論


 なろう系ファンタジー世界において、顕著な特徴を持つのは、(もちろんすべての作品がそうというわけではないが)世界観がゲーム的であることである。
 そしてこのゲーム的世界観に置いて、中には「チートスキル」を使用することによって主人公を強化するという要素をもった作品もある。この「チート」とはなんだろうか。ゲームに詳しくない方のために一応説明すると、「チート」英語では「Cheat」、ずるとか欺くという意味であるが、ゲーム的な意味からすると「チート」とは、ゲームデータを改変することによって、簡単にレベルやステータスを上昇させるとか、シューティングゲームとかにおいてはオートエイムという自動で照準を合わせ敵や的に必中させるような、プレイヤーにとって利がある行為行動を実現させるものである。オフラインゲームにおいてはチートの使用はあくまで個人の裁量に委ねられるが、オンラインゲームにおけるチート使用は、ゲームバランスの根幹を破壊する紛れもない不正行為であり、アカウントBANに値する行為でもある。オンラインゲームにおいてチートを使用するプレイヤーを「チーター」と呼ぶこともある。チートというものに関して否定的な考えが根深いのは、こういった「チーター」の存在によるところが大きいだろう。
 またスラングとして、ゲームや創作作品内において、あまりに強いキャラクターを「チートキャラ」とか「チート級」と呼ぶような用法もある。
 いわゆる「チートもの」とは、主に二種類に分けられる。スラング的な「あまりに強い」主人公による「チート主人公」もの、あるいはなろう系ファンタジー作品に顕著な、上記のようなゲーム的要素をそっくり取り入れ、主人公が世界内において「チートスキル」を使用することができ、「チート」によって主人公を強化し、簡単に強力なキャラクターとして設定する手法である。この記事では両方についての共通点も述べるが、主に後者の、「チート」を手段として使用する、使用可能な設定の物語について重点を置く。
 一見すると、随分ずるく安易な手法であるようにも思われる。主人公の強さは「チート」によって肯定され、「チート」を駆使することによって簡単に勝負に勝つとか、あるいは資金を増やしたり、捉え方によっては物語そのものが破綻しそうな手法である。しかし、ここでいうなろう系「チート」作品とは、あえて物語的に破綻した「チート」使用によって、物語が主人公にとって肯定的に破綻すること自体を楽しむという側面もあるのではないだろうか。その事はひとまず置いておいて、次節では創作におけるチートという行為行動そのものの性質を述べる。

「チート」の使用による努力描写の省略~結果主義的側面~


 創作作品において「チート」が意味するものは何であろうか。それは徹底した前提描写の省略、いわゆる努力描写の省略、もしくは否定であり、「チート」という結果主義的な行為によって、様々な描写を「省略」する意味合いが強い。主人公の他者に対する優越は「チート」によって定義され、「チート」の前には、あらゆる正攻法は屈しざるを得ない。そんな理不尽なまでの主人公優越主義が「チート」ものの醍醐味の一つであろう。
 ではなぜ「チート」という、一見物語を破綻させ、描写の「省略」によって自ら物語を制限するような、いわば執筆活動においてはいわば「逆チート」的であるとも思われる作品が人気を得たのであろうか。
 あらゆる創作作品において、「努力描写」というものは、主人公の成長と強さを示すにあたっての説得力を出すための重要な過程である。しかし、「努力描写」というのは、えてして行われるのは、修行であるとか、練習であるとか、創作にとっては、どうしてもありがちで、単調にならざるを得ないパートでもあるのだ。実際「少年ジャンプ」のような雑誌に掲載される少年漫画においても、近年努力描写は人気がなく、漫画家は極力そういった修行に独自色を出しつつ、なるべく修行パートは短くするという。「少年ジャンプ」の三つの三原則に「友情、努力、勝利」とあるように、少年漫画において努力とは一つの重要なテーマであり、一昔前の漫画においては努力至上主義というような作品もあった。しかし近年においてその努力描写が否定されつつあるのは、何も作品として努力パートがつまらない、というだけに留まらず、努力は才能に勝てない、努力無しで結果を得たいという考えが強くなっているという点も指摘されている。
 こういった「努力」の否定の究極系が「チート」であり、「チート」とは、単調な努力描写を作品的に完全に省略しつつ、努力そのものを否定するのである。

「チート」によるバランス崩壊をも楽しむ悦楽主義


 さて、「チート」が努力主義の否定あるいは省略であり、極めて強い結果主義的な側面を持つという事を解説した上で、では読者にとって「チート系」作品をどのように楽しんでいるのだろうかという事に目を向けてみたい。
 まず挙げられるのは圧倒的な、理不尽なまでの強さを誇る「チート級主人公」による、痛快な勧善懲悪ものである。「チート級主人公」の強さによって悪はなぎ倒され、弱い存在を助けるのである。これは近年に限らず、「正義の味方」的な古典的作品にもよく見られる類型である。負けることのない「チート級主人公」という安心感、それに基づく正義の執行は、読者にとって心理的な負担を感じない痛快さを持つのである。
 一方で近年の「なろう系」作品に顕著な主人公がゲーム的に「チート」を使用する事ができる作品であるが、筆者の考えを述べさせていただくならば、これらの作品の売りは、作中世界におけるバランスの崩壊、意図的な破綻である。例えるならば、前述にオンラインゲームにおいてチートを使用することは重大な不正行為であるということを述べたが、「チート使用もの」ではそんなオンラインゲーム的な環境であえて「チート」を使用して世界のバランスそのものを破綻させる事に楽しみがあるのではないだろうか。言い換えれば、やってはいけない行為なのだが、もしもオンラインゲーム上で自分だけがチートを許されていたら・・・という感情である。
 あるいは、自ら作り上げた世界を、自ら「チート」によって破壊する作者によるマッチポンプとも言えるような行為が、作者または読者にとって悦楽主義的にウケているのではないだろうか。その世界には、貨幣があり、社会があり、独自の制限がある。しかしそんな中で「チート」を携えた主人公による既存の閉鎖的で、しばしば問題がある社会の破壊と再建という行為による痛快さ、主人公によって作中内にてリアルタイム的に世界が破壊され、作り変えられ、再構築されるという楽しみ方もあるのではないだろうか。

最後に


 なろう系考察第二弾として、この記事では創作におけるチートについて考察してみた。なるだけ既存の意見である、「チートに頼る作品の幼稚性」的な視点は省き、チートという行為行動そのものが持つ性質について考えてみた。ひとまずこれで、なろう系考察のシリーズは終わりになるだろうが、また興味深いテーマが見つかったら続きを書くかも知れない。


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voiceofdrone at 19:29|PermalinkComments(0)