季節

2020年07月07日

【七夕エッセイ】いつの間にか今日は七夕 ~流れる季節の節目論~

 流れる季節には様々な節目がある。年の移り変わりには大晦日と正月があるし、立春の前日には節分がある。節分とは文字通り、節を分けるという意味であり、季節に何らかの節目を設けるということでもある。今日は七夕である。七夕とは旧暦における五節句の一つであり、これもまた流れる季節を分ける節目である。
 また現在は梅雨の時期である。梅雨もまた、単なる雨の多い季節という自然現象を超えて、人々にとっては真夏に向けた季節の節目として認識されている。
 人間は季節に色々な節目を設けて、時期の移ろいを感じられるようにした。これも一種の発明であろう。農耕文化社会においては、農作の成功こそが人々の一年を左右するものであるから、とりわけ季節の移ろいと気候の変化には敏感でなければならなかったのだろう。

 しかしこうした事に対して、一時期精神的に荒んでいた時期の筆者にとっては、季節というものは、あくまで社会によって規定された時間に楔を打ち込む試みであるとしか認識できなかったし、流れる時は時であって、そこに何らかの暦であるとかを設けて、季節を認識するということが極めて人間原理的に思えたものだった。
 人間が認識しなければ、時は気候の移ろいこそあれど、緩やかに流れていくのみで、例えば年の分け目、西暦とか元号とか色々な区分があるけれども、ゆく年くる年を区分するという試み、これもまた人間が認識しなければ、大晦日と正月などは単なる寒い時期の只中であって、ある時点から数えて地球が太陽の周りを一周したという節目に過ぎなくて、大自然というものに暦はなく、筆者は形而上学的な時というものにこだわり、時そのものはただ流れ行くのみと、若干の虚無主義を伴って考えていた。
 
 けれども、年を経て見聞が広がって、そのような試み、時を区分して季節を作るという試みが、何も人間にとってだけでなく、大自然の植物や動物にとっても同じであるという事に気付かされた。
 大樹は年輪を刻んで一年をその身体に刻んで時を数えている。木々は春先になれば青々とした葉をいっぱいに芽吹かせ、夏の濃い色の日差しを受けて生き、あるいは秋の時分になれば、葉を色とりどりに鮮やかに飾り、そして晩秋の寂しげな冷たさのやってくる頃には葉を落とす。動物も季節の移ろいを生きて、冬眠であるとか、ある時期には求愛を行って、命を繋いでいく繁殖の時期であるとか、産まれてから生きて死ぬ、一生の営みを大自然の季節に身を任せ、あるいは自然そのものの厳しさに立ち向かい、懸命に生きている。
 生き物であっても、生きていない物であっても、この世にある形あるものは総て、時の移ろいに支配され、生まれ、朽ちていくものだ。季節とはそんな壮大な自然の営みそのものを人間という動物が人間なりに感じ、推し測って、時の移ろいに色々な名をつける試みである。人間原理的どころか、自然の一部として、大自然に身を置く形あるものの宿命としての、極めて自然に身を置いた本能的な自然的な行為ではないか。
 人間の寿命は長いようで短い。動物としては比較的長い部類だが、大自然の営みからすれば、個々の人間の一生はまたたく間の一瞬である。そんな短い人生の中で、季節を様々に分け、時の移ろいに色とりどりの催しを添えた先人の知恵に習って、より生き生きとしたものにするために、人は暦の上で生き、季節の中で生き、そして死ぬのだ。この営みがなんて美しいものであるかと、筆者は最近になって、ようやく気づくことが出来た。


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voiceofdrone at 13:11|PermalinkComments(0)