唯物史観

2020年07月13日

私版・唯物史観的「インターネット」発展段階論 ~マルキシズム的な何か~

この記事は過去に書いた筆者のインターネットの歴史に関する一考察、【インターネットの発展段階史】別世界としてのインターネットと、現実の延長としてのインターネット 【考察】の内容を大元の下敷きにして、より詳しく、インターネットの歴史をある種「歴史学」として捉え、考察をするものである。

唯物論的史観からみる「インターネットの歴史」



目次
●初めに・マルクスについて
インターネット唯物史観・発展段階論説
唯物史観・発展段階論的な視点から予測されるインターネットの今後
●終わりに(ネタバラシのようなもの)

初めに・マルクスについて


 さて、初めに断っておくがこの記事は「インターネットの利用者意識の変容」を発展段階論的な視点から、マルクス主義における唯物史観に基づいて分析するものである。
 
 「マルクス主義」、「マルクス思想」。人によってはこの言葉を聞いただけで拒否反応が出る人もいるのではないだろうか。それはやはり「社会主義」という「理想」と、数々の「マルクス主義」をもとにした社会主義国家の失敗という「現実」によるものであろう。
 ただ、断っておきたいのは、「思想家」「経済学家」としてのマルクス主義は今日においてほとんど扱われなくなったと言っても過言ではない状況であるものの、「哲学」、「歴史学」、「社会学」においては未だにマルクス主義的価値観が息づいているのだ。
 なぜならば、「社会主義の提唱者」としてのマルクスは残念ながらある種の「夢想家」というのが否めないものの、「既存の社会・資本主義の分析者、及び19世紀における資本主義の破壊者」という意味においてはマルクスというのは天才的だったと言わざるを得ないからである。

 例えばマルクスに対する評価を挙げると、マルクスの伝記を書いたE.H.カーによれば、
マルクスは破壊の天才ではあったが、建設の天才ではなかった。彼は何を取り去るべきかの認識においては、極めて見通しがきいた。その代わりに何を据えるべきかに関する彼の構想は、漠然としていて不確実だった。」
「彼の全体系の驚くべき自己矛盾が露呈せられるのはまさにこの点である」
との評価である。

 「歴史学」においてマルクス思想が息づいているというのは、まさに彼の「発展段階論」「唯物史観」的歴史観に代表されるものであり、特に日本の歴史学会にてはもちろん批判も数多くなされてはきたが、今なお色濃く根付いているのだ。

 さて、前置きがだいぶ長くなってしまったが、この記事では、インターネットの歴史を「歴史学」として捉え、唯物史観、発展段階論的な視点から考察を行っていきたい。
 なお、言い訳として一応断っておくと、筆者はマルクスに関しては少し勉強したつもりではあるが、素人である。そのため間違いなどもあるかも知れないが、その点はご容赦いただきたいと同時に、コメント欄などでレスポンスをいただけると嬉しい。


インターネット唯物史観・発展段階論説


 さて、本題であるインターネットの歴史に対する一考察を始める。
 前置きとして、この記事は、唯物史観的な視点から、「別世界」であるか、「現実の延長」であるかといったような「インターネットの利用者意識」をインターネット社会の「上部構造」として捉え、物質的、技術的なインターネットの「生産力」とも言える物理的発展を「下部構造」として考える。「上部構造」は「下部構造」によって規定される、即ちインターネットの利用者意識や使い方、インターネット社会の変遷というものは、「下部構造」である技術的な水準によって制約され、規定されるという考え方である。

 かつてインターネット黎明期から初期にかけては、チャットや匿名掲示板といった場所にて独自の文化や世界観が形成され、インターネット世界という別世界的なインターネットが展開されていた。というのも、チャットコミュニティや匿名掲示板といった場所では、現実と隔絶した振る舞いが許容され、現実ありきではなく、インターネットという場を前提としたコミュニケーション、つまり別世界としてのインターネットが展開されていたのである。
 これを「下部構造」、即ちインターネットの「生産力」という視点から捉えると、当時はまだコンピュータそのもののスペックや回線の速度といった限定から、インターネットは文字媒体としてのメディアとしての振る舞いが強かったと言える。文字を主体にするということは、読み手である利用者にある程度の想像力が問われなければならないのと同時に、この時点でこの後のインターネットの時代である「現実の延長としてのインターネット」を踏まえて言うと、この時代におけるインターネットは、現実の延長として、現実の出来事を報告するのにそもそも不向きだったということである。よって、現実とインターネット上との非リアルタイム性からネット上のみで成立しうる独特の文化が生まれ、発展する余地があったと言える。つまり「上部構造」であるインターネットの利用者意識は、発展途上のインターネットにおける文字主体時代という構造に規定されていたと言える。
 これがやがて技術発展によって徐々に変化してきた。コンピュータスペックの高性能化とインターネット回線の高速化によって、大容量のファイル、高画質な画像であるとか動画をネット上にアップロードすることが容易になってきたのである。ちょうど2000年代中盤以降の事である。ただ、この時点においては「上部構造」としてのインターネットの利用者意識が変化するにはまだしばしの時間が必要であった。

 決定的に「下部構造」が変化し、「別世界としてのインターネット」という「上部構造」に変革をもたらしたのは、恐らくはスマートフォンの登場だろう。それ以前の携帯電話と異なり、小型のコンピュータと高性能なカメラを兼ね備えたこの電子機器が技術的に実現し得る決定的な「下部構造」における「ネット生産力」の増大ととともに、「上部構造」は変化していった。付け加えるならばスマートフォンという「現実の報告」にうってつけの機器が登場したことによって初めて、SNSといったサービスが登場しうるだけの下地が整ったのだと言える。
 スマートフォンの登場と、それに伴うSNSという革命こそが「インターネットの現実の延長」化を決定的に促進した。もはや人々はありとあらゆる場所で、リアルタイム的に現実の出来事を画像、映像あらゆる形で報告することが出来るようになり、従来型の形の見えない相手との会話である匿名掲示板から、より明確に相手が見えるSNSへとネットの主体が移行していった。コミュニケーションは実体性を帯びたものとなり、多かれ少なかれ現実が想定される時代へと移り変わったのである。

  つまり唯物史観的にインターネットを捉えれば、インターネットという存在の利用者においての意識という「上部構造」が、「別世界」から「現実の延長」へと移り変わったのは、つねに電子機器の性能やネット回線というインフラに関する技術的制約という「下部構造」に規定されたと言えるのではないか。

唯物史観・発展段階論的な視点から予測されるインターネットの今後


 さて、ここまでが今日においてのインターネットの歴史的な概要である。では、今後のインターネットのあり方は、どのように変化していくのだろうか。「下部構造」としての技術的進歩において予想されうるのは、ますますの電子機器の小型化高性能化、5Gに代表される回線の高性能化、そして更に挙げるならば、「人工知能」と「ヴァーチャル」技術の進歩である。まず電子機器のスペックアップと回線の高性能化によって、「ネット生産力」とも言える「情報量」はますます膨大になっていくと考えられる。それに伴って、「ヴァーチャル」技術が実用化し普及することによって、「上部構造」には再度革命が起こる。

 即ち、「ヴァーチャル革命」による再びの「インターネットの別世界化」である。奇しくもマルキシズムにおける原始共産制から資本主義へ、資本主義の成熟から社会主義への革命へというような構図と一致してしまったが、技術的成熟によって、「インターネット」そのものの存在がさらなる変化・飛躍を遂げるということ自体は十分に考えられる事である。そこで基軸となる技術が「ヴァーチャル」であると、あくまで筆者の考えであるが、そう予想している。そして「別世界」としての「ヴァーチャル世界」の成立により、人類社会そのものが大きな変革を経験することになるだろう、と筆者は考えている。


終わりに(ネタバラシのようなもの)


 さて、筆者によるマルキシズム的な何かによるインターネットの発展段階論的歴史展開を延べた。これまでのインターネットと、そしてこれからを考えるのにあたって、「別世界的インターネット」→「現実の延長的インターネット」→「別世界のインターネット」という段階を踏むであろうということは、前述の通り、奇しくもマルキシズムにおける経済発展段階説と一致した。

 ただここで気をつけなければならないのは、「マルキシズム」がもてはやされた所以は、「何にでも当てはまる」という利便性が一因としてあるということである。「発展段階論」を適応すれば、歴史のあらゆる時代と場所に説明がつくと期待されていた時代もあった。ただし、それほど現実は単純なものではない。科学的に世界を分析できるという理性主義の時代に生まれたのが「マルキシズム」であり、その限界性は後の時代において露呈することとなった。
 そのため、インターネットの歴史というものを単純化して考えて、「発展段階論」を適応すればある程度当てはまるというのは、そもそも「マルキシズム」の性質から当たり前であると言えば当たり前であり、決してこれが安易に良く出来た分析であるなどということは筆者自身あまり思わない。少なくともインターネットの「過去について」の分析はともかく、未来における、「マルキシズム」における「社会主義」に値する「ヴァーチャル革命」がそうやすやすと、自然に行われるとは考えていない。それについては、思想が必要であり、筆者が提唱する「ヴァーチャリズム」はそのためのものである。というと、なんだか「マルクス・レーニン主義」っぽくなってしまうような気がするが。
 さて何事もなく世の中が進めば、ドラスティックな「ヴァーチャル革命」というか、少なくともヴァーチャル技術の進歩はもちろんあるだろうが、あくまで既に確立した「現実の延長としてのインターネット」とは並立して存在していくものだと筆者は考えている。
 くれぐれも「マルキシズム」の利便性に簡単に惑わされないよう注意していただきたい。


このエントリーをはてなブックマークに追加
voiceofdrone at 01:57|PermalinkComments(0)