初版記事

2020年07月11日

(保存のための初版につき、こちらは読まなくてもいいです)【考察エッセイ】「盗めるアート展」についての個人的所見 ~決まり事に担保された善悪論が崩れる時~



追記:こちらは初版の記事をそのまま掲載したものです。追記版と比べてのっぺりとした平坦な何を言いたいのかわからない文章になってしまっているため、こちらを読むのはおすすめしません。あくまで念の為に「初版」として保存しておくためのものです。



 最近「盗めるアート展」というのが話題となった。概説すると、「来場者は一人一点まで自由にものを持って帰って良い」というコンセプトに基づいた、一種の実験的試みなのだが、結果多数の人が殺到し、開始前から館内に人が雪崩込み、半ば暴徒と化したような様相を呈し、スタート前に全ての展示物が「盗まれ」、展示会は終了と相成ったという経緯である。
 この事については様々な意見が寄せられた。「盗めるアート展」という実験的試みに対して、このような結果に終わるということこそが、現代社会を反映した一連の「アート」であるという意見も筆者個人的に興味深かった。
 この記事では、「盗めるアート展」によって露呈した人々の心理、なぜこのような結果になったのか? という事を筆者個人的に「日本人の道徳観」と「群集心理」という点から思想的に論じてみたい。もちろん異論反論なども多くなるだろうし、扱う事がなにぶんトレンドの話題であるから、お叱りなどを受けることもあるかも知れないし、もちろん異論反論お叱りがあれば、それは受け入れるつもりだが、あくまでこの記事は浅学な筆者なりの拙い意見の一つとして、どうかご容赦いただいた上で読んでいただきたい。


「日本人」の道徳的規範と「群集心理」


 一般に「日本人」は遵法精神の高い民族性をもった人々であると言われる。「日本人」というとても大きな主語を用いて言葉を使うのは本来、筆者の心情、理念にも反するし、もちろん例外などいくらでも挙げられるのだが、ここではその民族性という前提に立って、あえて「日本人」という大きな主語を用いて考察を進めてみたい。
 もちろん様々な異論反論などがあるだろうし、当然のことながら「あんな一部の人々を取り上げて「日本人」と一括にするな」というお叱りの声も当然あるかも知れないが、ここでは筆者なりの考え方の一つとして捉えて欲しい。

 なおこの記事で、いちいち「日本人」と括弧付きで表現しているのは、極めて大きな主語を扱っているという意味で、「日本人」という言葉の意味を、筆者自身が慎重に扱うという理念を忘れないため、また読者の皆様方がある種筆者に批判的になりながら、「大きな主語」を慎重に受け取ってほしいという意味合いを込めたものである。


 さて、「日本人」は一貫性のある「哲学」のない民族であるとよく言われる。
 例えば「丸山真男」的に言えば、様々な外来からの「宗教」であるとか「思想」によって影響を受け続けた結果による、「日本人」自身によって形成され得る思想的体系性の歴史的欠如であり、今日において「日本人」が雑多な宗教観を持ち合わせた、無宗教的な振る舞いを見せることもその一つであると言えるかも知れない。ただ、厳密に言えば「無宗教的」な振る舞いを見えるだけであって、「無宗教」ではない。人々の道徳的規範には「ご先祖さま」とか「お天道様」というような価値観が見られることもある。ただし、それが思想的に様々な価値観を取り入れた「足し算の思考」であり、体系化されていないから、「宗教的自認」が薄く、あなたは何の宗教を信じているかと外国人に問われた時に「無宗教」であると答えてしまいがちであるという話である。
 さて若干話が逸れたが、繰り返し述べると「日本人」における「思想」は不明瞭かつ不安定であり、体系性に乏しいという事である。筆者が言いたいのは、それが悪いとか劣っているとか言う話ではない世界には様々な民族の価値観があって、それはそれぞれ尊重されるべきであるし、「日本人的」な、良いものをたくさん取り入れるという「足し算の思考」というのも、多様性が重んじられる昨今の世界においては重要な理念であると筆者は考えるからである。

 ただ、今日においても「日本人」は「宗教観」であるとか「哲学」であるという「普遍的理念」を欠いて、その結果「法律」という「決まり事」によって「善悪感」が担保されているとも言えるのではないか。つまり条文としての法律こそが、そのまま道徳的規範になっており、ここで断っておくが、もちろん法律というのは、日本においては主に西洋から輸入された西洋における「普遍的理念」に基づいて体系性をもった憲法、法律、民法という法学を学んだ人々によって作られ施工されており、法を学び、作り関わる側の人間というのは一定の「体系的な理念」を学んだ上で法を作って運用しているだろうし、そうであってほしいのだが、当の民衆側において、施工されている「法律」そのものの思想的、道義的意義を問うという試みは甚だ少ないと言える。

 つまり何が言いたいのかと言うと、私達「日本人」の善悪感はもともと「法律」という決まり事に依る所が大きいということである。「宗教的価値観」のようなものが薄く、「法律」で決まっているから盗みはいけないし、「法律」で決まっているから、人に迷惑を掛ける事は良くないという事である。
 もちろん、「日本人」個々人に道徳観が法律以外にないと言うのではない。個人個人は様々な事を考えて、法律に対しても様々な疑問異論を考えることもあるだろうが、ここで問題なのは、これは人類に普遍的なことなのだが、個人を超えて群衆化したときの「群集心理」は極めて単純化されやすいということである。人々の集合である群集心理において、私達の道徳観はいよいよ「法律」という後ろ盾に一般化され、私達「日本人」が普遍的に持ち合わせている「法律的道徳観」こそが最後の後ろ盾になるとも言えるかも知れない。

 ここで「盗めるアート展」において、「盗んではいけない」という「法律」の前提が消えた。制限はあるとは言え、盗みが許容されたのである。すると群集心理によって、「法律」という道徳性、後ろ盾の消えた群衆はいよいよ善悪感が薄れ、暴徒と化す。その結果が御存知の通りであるというのが、筆者による一考察である。



終わりに・反省点(ぜひ読んでほしいです。)


 このブログでは珍しく、恐らく初めてトレンドの内容を取り上げた。筆者をして、このトレンドに乗ってみたいという下心が無かったわけではないが、それだけ今回の「盗めるアート展」という現象は興味深かったのである。もちろん、この記事の内容に関して異論反論などが、恐らくは大量にあるだろうことは予期しているし、異論反論ツッコミどころなどがあると予測しながら、急いて記事を書いてしまったのは、やはり筆者のトレンドに乗りたいという下心に依るものなのかも知れないと反省している。ただ、浅学な筆者なりの一考察として「そういう見方もある」くらいに受け取って欲しい。
 度々言い訳を重ねてしまったが、筆者は責任から逃れたいということではない。
 異論反論お叱りツッコミなどなどがあれば、このブログのコメント欄などで筆者にレスポンスして欲しいし、あまりに考え方に問題があると客観的な視点からの指摘を頂いて問題が露呈するようであれば、この記事は謝罪した上で削除させていただく。いささか臆病に過ぎるように思われるかも知れないが、それが筆者なりの、記事を書いて公開する上での一応の責任であり最低限の義務であると思っている。



このエントリーをはてなブックマークに追加
voiceofdrone at 20:12|PermalinkComments(0)