個人主義

2020年07月05日

【私的「個人主義」論】あらゆる「修飾的要素」を抜きにして「個人」そのものを見るということ

 あらゆる個人には、その個人を規定する様々な要素が連なっている。人種であるとか民族であるとか、セクシュアリティであるとか、身体的特徴であるとか、様々な物がある。しかし筆者の意見、個人主義的(この記事内で個人主義とは個人そのものを何より重視するという意味であると定義する)な観点からの意見を述べさせていただくならば、これらの要素はあくまでその個人を「修飾する」要素であって(この記事内で言う修飾とは文法的な意味合いであり何らかの存在を規定、限定し詳しくするという意味であると定義する)、個人そのものではない。個人主義において、重要なのは、そういったあらゆる修飾的要素を抜きにして、個人そのものを見て、評価するということである。理想論としては当たり前の事ではあるが、実際これは難易度が高い。何故ならば人はどうしても個人を修飾する要素に目が向きがちであるからである。修飾とは個人そのものの前にあって、それらが修飾であること、そしていかなる修飾であるかということを理解し、意図的に取り払わなければ、その個人そのものは見えてこないからである。そして修飾的要素はその個人の本質ではないのにも関わらず、その個人が所属する要素がその個人の本質であると、人はしばしば錯覚してしまうのである。例えば、その個人が性的マイノリティーであったとして、そのセクシュアルがありきで、その個人が存在すると考えてしまうのである。実際はセクシュアルはセクシュアルであり、あくまで人への愛し方、愛する人の対象が違うというだけであって、愛するという行為そのものの本質は変わらないからである。
 人種についても同じことが言える。私達は、例えば白人や黒人を見て、どうしてもその人種とか、国籍を前提に人を考えてしまうのではないか。確かに、そういった個人の要素が社会的に、後天的にその人格に影響を与えるという事自体は否めない。ただそれは影響を与えるというだけであって、全てではないのである。外見的特徴が異なったとしても、繰り返し述べるが、それはあくまで修飾であって、個人ではない。
 これらの事を意識してなお、しばしば修飾と個人を混同してしまうことがままある。それは、修飾という規定が個人の人格に影響を与えるという現象そのものは否めないからであり、実際それらの修飾を自分のアイデンティティとして持っているという人間も少なくない。ただし、個人主義的な観点からすれば、やはり見なければならないのは、その奥にある個人なのである。
 やや難解な事を述べてきたが、言い換えれば先天的要素によって個人は規定されえないし、私達があくまで人間を見たいと思うならば、後天的要素のみを見るべきであるからである。先天的要素が何であれ、人間は人間である。しかるに、先天的要素による修飾は、個人を評価するに当たっての差し障りに当たるものでしかなく、能力主義的個人主義においては、あくまで後天的に、その個人が能動的に得たもののみを見て評価すべきであるということである。
 これらの事は理想主義的であり、博愛主義的であるかのように思われるかも知れないが、実際はそうではない。何故ならば、先天的要素に頼った個人を否定することになるからであり、前述の通り、後天的にその個人が能動的に体得した能力こそが、個人を指し図るにあたっての唯一の指標になり得るということで、これは極めて厳格な能力主義だからである。
 この指標がどのような場面で役立つかと言えば、これからますます社会は多様化し、私達はこれまでに増して修飾的要素に翻弄されることになるというだろうという上で、極めて個人主義的な、厳密な個人を指し図る指標を得るということこそが、汎人類主義的な世界においての必須要件になるであろうという事であると筆者は考える。


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voiceofdrone at 06:45|PermalinkComments(0)