人生

2020年07月03日

【人生最大の失敗?】三つ子のピカチュウ百までも

 まだ保育園の頃の時分だった。お遊戯の時間の途中、担任の先生がおっしゃった。

「皆さんが将来なりたいものはなんですか?」

皆は「サッカー選手」だとか答えた。

筆者は「ピカチュウです」と答えた。記憶の中にある恥ずかしい失敗事は、おそらくそれが初めてのものだと思う。

皆は「なれるわけだろう」と笑った。純粋な保育園児と言えども、そういった分別はあったものだ。筆者は「サッカー選手だって、なれるわけがないだろう」と心のなかで思った。園児の昔から私の腹の中にあったその賢しさこそは、失敗事の2つ目である。

 思えば昔から自分は、そんなどこか斜に構えた賢しさのために、随分と斜に構えられた人生を歩む羽目になったと自分でも思う。いわば人生というのは鏡写しのようなもので、自らの心持ちがそっくりそのまま現れて、下り坂になったり上り坂になるのだ。とすると筆者がそれなりに人生で苦労をする羽目になったというのは、三つ子の魂なんとやらという訳で、保育園の昔から決まっていたというわけなのだろうか。筆者は自身のことをある程度の奇人で、社会に不適合な人間だとは薄々感じながら生きていた。だからといってもはやそれを気にかけて治したいとも思わず開き直って生きているのだが。

 それにしてもふと思うことがある。逆説的に、もしもの話をすれば、「このピカチュウです」と答えた体験さえなければ、ひょっとすれば自分の人生は全く違ったものになったのではないだろうか? 周りの園児たちに笑われて、先生にもかわいいわね、といった感じで微笑まれた。カッコつけたかった自分にとっては、幼いながら屈辱を感じたものだ。その屈辱が他の皆の夢に対してのニヒリズムを抱かせて、その事がひいては自分自身の生き方を大きく変えてしまったのではないか・・・などとふと思うと、別に今更後悔などはしないのだけれども、例えるなら、人生というものは帆船で、風向き次第でいくらでも流されていくものだとすれば、そしてまだまだ小さなボートに過ぎない幼い自分が、その出来事をきっかけに本当に何かとてつもなくままならない航路の方向へと向かってしまったのだとすれば、本当に人生というやつは、分からないものである。

 人生の岐路というものはどこにあるかわからない。人は環境に育てられる生き物であるからして、特に多感な少年時代に体験した色々な失敗体験だとか、あるいは成功体験だとかが、強烈に影響して、性格までもが変わってしまった・・・という体験をした方もひょっとすればいるのではないだろうか。ともあれ、この幼少の、少なくとも筆者にとっては、現在まで残る痛烈な失言は、今もなお記憶に蘇ることがあるほどの、トラウマと言うほど恐ろしいものではないのだが、ピカチュウの一言で、こんないい年になるまで何十年も覚えてしまうような体験をするとは、本当に人生、分からないものである。まさに三つ子のピカチュウ百まで、だ。



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voiceofdrone at 01:59|PermalinkComments(0)