ヴァーチャリズム

2020年07月15日

noteにて、分かりやすくバーチャリズムをまとめてみました。

 この度noteにて、筆者の提唱するバーチャリズムについて、分かりやすくまとめてみた。これまでの記事よりははるかに分かりやすく書いたつもりなので、バーチャリズムに興味のある方は、ぜひ一度読んでみて欲しい。





このエントリーをはてなブックマークに追加
voiceofdrone at 11:42|PermalinkComments(0)

(追記版)ヴァーチャリズム/バーチャリズム(Virtualism)における具体的定義とバーチャルYouTuberにおける「魂」の説明

 (2020/07/10追記)わかりやすいヴァーチャリズムの定義について記事を書きました

(2020/07/15追記)noteにてさらに分かりやすくヴァーチャリズムについて書きました。
こちらもどうぞ

 少々現実的、実際的な、当たり前なことを当たり前にあえて言うのであれば、ヴァーチャルYouTuberという活動を現象的に捉えるならば「現実における個人が、インターネット上でアバターを使用し、ヴァーチャルYouTuberというキャラクターとして振る舞う」行為であると言える。この事は現象的には否定しようのない事実であり、筆者の唱えるヴァーチャリズムという思想はその現象自体を否認し、何か代わりとなる空想的価値観を述べる思想ではないとはっきり断言しておく。
 前に書いた記事ヴァーチャルの可能性とヴァーチャリズム(Virtualism)の提唱では、確かに未来的な空想を書いたが、それはあくまで、究極的にヴァーチャリズムが実践可能である社会が実現される未来像を語ったものであり、ヴァーチャリズムという思想そのものは、極めて具体性を持った単語として定義したい。

 ヴァーチャリズムに置いて重要なのは「ヴァーチャルYouTuberとして振る舞う一つのキャラクター」という存在を重視し、その人格そのものの独立性を重視し、あえてそこに現実を持ち込む必要性を認めない思想であるともはっきり言っておく。言い換えるならば「現実とは違う世界において違った振る舞いをしているキャラクター(人格)」そのものの現実を前提としない独立を主張する思想であり、そこに一定の個別的な人間的実存性の価値を認める思想である。

ヴァーチャルYouTuberにおける「魂」と「キャラクター」


 Vtuber界隈においては、いわゆる「中の人」という存在をもともと遠ざける価値観が見られた。婉曲的に「中の人」を「魂」と表現し、ヴァーチャルYouTuberという存在は、アバターに「魂」が宿った存在として語られることもある。ヴァーチャリズム的な価値観においては、それは重要な捉え方であり、本質的なものを捉えた見た方であるともいえる。

 しかし一般的に「魂」の存在は不可分であり、そして不可分な「魂」がそれぞれが別々に振る舞うということに対してヴァーチャリズムにおいてはそれぞれの「人格的」独立性を認めるということは、少々矛盾のようなものがあるという考えを抱く人もいるのではないだろうか。それに答えるためには、ヴァーチャルYouTuberにおける「魂」と呼ばれる存在と、「キャラクター」の存在をより明確にしなければならない。

 ヴァーチャルYouTuberにおける「魂」とは何か。一般的な意味で言えば「魂」は個人が有する精神的な根源であり、英語で言えば「spirit」であり、「soul」であり「anima」である。しかしヴァーチャルYouTuberにおける「魂」とは、それ自体がヴァーチャル世界を通して見たヴァーチャルキャラクターに対する、ある種の説明付けであり、「アバター」という身体に「魂」が宿ることによって、人間的なヴァーチャルキャラクターの存在が成立するという見方である。厳格にヴァーチャリズム的な視点から見れば、ここにはやはり、「現実の人間性」が僅かであるが想定されていると言わざるを得ないのだが。

 そもそもなぜヴァーチャルYouTuberにおいてあえて「魂」の存在を説明付けなければならないのか? これはヴァーチャルYouTuberという新たなる形態のキャラクターに対する、従来的なアニメキャラクターであるとかのヴァーチャルキャラクターとは明確に異なる、リアルタイムで双方向的なコミュニケーション能力を有するキャラクターに対する説明でもあっただろう。ヴァーチャルYouTuberは魂を有するから、アバターを通して、リアルタイム性をもってコミュニケーションを図ることが出来る。これこそが、従来とは全く異なるヴァーチャルYouTuberというヴァーチャルキャラクターの特徴であり、「中の人」を遠ざけ婉曲的に表現することによる「魂」の説明はそれを上手く捉えた表現であると言えるであろう。ヴァーチャルYouTuberにおける「魂」とは、本来的な意味での「魂」という用法に加えて「キャラクター(人格)」という意味合いも含んでいるのである。

 「キャラクター(character)」という、本来的な単語の意味である「特徴」、「性質」そして「人格」という意味合いは、ヴァーチャルにおける存在と現実存在とを分け隔てる上で、うまく説明付けられている単語であると言えるだろう。そもそも普段から私達は場面ごとに「キャラクター」を使い分けて振る舞っている。それは現実におけるさまざまな場面でもあるし、今日においてインターネット上では匿名でさまざまな「キャラクター」を演じ分ける事もできる。そういう意味では、今日において私達は、インターネットを使用する上でヴァーチャル存在として振る舞っているとも言えるのだ。
 そしてこの「キャラクター(character)」という概念は、ヴァーチャルYouTuberにおける「魂」の概念をヴァーチャリズムに基づいて説明するのにも役立つ。「キャラクター」は可分的なもので、前述の通り個人がいくつもの「人格」を有するという事は可能だからである。
 いわゆるヴァーチャルYouTuberにおける便宜的な説明としての「魂」を、ヴァーチャリズム的な立場から「キャラクター」という単語を用いて「魂」を論じるならば、「魂」の「ヴァーチャルYouTuber人格」を「人格」として尊重し独立性を認めるということこそがヴァーチャリズムなのである。

ヴァーチャリズムにおける「魂」の定義


 ただ、厳密なバーチャリズムの立場からは既存のヴァーチャルYouTuber「魂」という便宜的な説明を全て肯定することは出来ない。なぜならば、前述の通り、「アバター」に「魂」が宿る事によって、ヴァーチャル・キャラクターが成立するということは、概ね十分な説明なのだが、その「魂」はどこからやってきたのか?という事を考えた時、それに対する疑問が浮かんでしまう。

 この事を回避するため、あくまで厳密なバーチャリズムの立場、画面に映る「その人」を「それ」として「そのまま」見るという考え方においては、少し発展させて、独自の「魂」概念を定義付けなければならない。
 ヴァーチャリズムにおけるヴァーチャル・キャラクターの「魂」とは、あくまで、私達が画面に映って配信を行っている「その人」が保有するであろう、どちらかと言えば、本来的な、一般的な意味での精神の根源としての「魂」である。
 さらに言えば「魂」は複数の独立した「キャラクター(人格)」を生み出す精神的な源泉であるという事は前述と変わらない。重要なのは「その人」が持つ「魂」は、ひょっとすればどこか他の場所では他の「キャラクター」を生み出しているかも知れない。
 だが、あくまでヴァーチャリズムにおいては、「そこにいる」、「その人」の「キャラクター(人格)」だけを見るべきなのである。なぜならヴァーチャリズムは、「ヴァーチャル・キャラクター(人格)」の振る舞いを、一つの独立した人格として、絶対的に尊重する思想だからである。
  一方、逆説的に言えば、ヴァーチャリズムの実存的な立場からは、そこに「キャラクター」が存在するならば、わざわざ「魂」の説明をすることは必ずしも必要ではない。なぜならば、「魂」があろうがなかろうが、そこに「その人」は存在するからである。「魂」の説明が必要であれば、上記のように定義するが、私達が普段人間を見る時にいちいちその人の「魂」がどうあるかなどと考えるだろうか? という事でもある。ヴァーチャリズムにおいてはあくまで「ヴァーチャル・キャラクター」は一人の、個別的な独立した「人格」であるのだから。
 



関連記事


このエントリーをはてなブックマークに追加
voiceofdrone at 02:10|PermalinkComments(0)

2020年07月13日

【報告】とらじぇでぃさんという方によってバーチャリズムを紹介して頂けました!/バーチャルYouTuberについての筆者の告白


 この度、とらじぇでぃ@tragedy_phさんの記事
にて、筆者が提唱した「ヴァーチャリズム」についてわかりやすく取り上げてくださった。とても嬉しい限りであり、ありがたい事である。
 またはてなブログに上げられていた方の記事、
 も興味深い内容であったので、ぜひ見ていただきたい。

 余接さんという方や様々な方々の書かれた「Vtuber」の在り方の論考について、様々なアプローチから考える試みがなされていた。筆者も、ヴァーチャリズムという思想を一人で考え続けていたことにより、ある種凝り固まってしまっていた考えを、今一度見直し、再考してみようという、新鮮な気持ちになれた。

 ただそれ以上に重要なことにも、今一度気付かせてくれた。活動される様々なバーチャルYouTuberの方々の提供されるエンターテイメントを、素直な気持ちで楽しむ事こそが最も重要なことであるという、当たり前ではあるが、筆者のように、類型、構造という観点からバーチャルYoutuberを論理立てて考えている内に、知らず知らずのうちに思想にばかり凝り固まって、最も重要な、ヴァーチャルを楽しむという、そもそも筆者がかつてバーチャルYouTuberを初めて見た時の新鮮な気持ちを忘れていたのではないかと、反省させられた。さて、ここまでが、とらじぇでぃさんの記事についての感想である。

「バーチャリズム」とはなんぞや?という人のための関連記事一覧
多分一番ヴァーチャリズムについてわかり易い記事。初めての方はまずこちらからどうぞ。

・筆者が初めて書いたヴァーチャリズムについての記事。ヴァーチャリズムを徹底するために、ヴァーチャルが現実から完全に独立するということは、どういう世界でなければならないか、電波たっぷりに空想している。

今日において筆者の考えるヴァーチャリズムのような事に取り組んでいる方の紹介と、今現在の世界における現実的なヴァーチャリズムの実践方法

・ヴァーチャリズムにおいて考える、ヴァーチャルYouTuberの「魂」についての考察。

・現段階では、この記事は読まなくていいです。
 ヴァーチャリズムの哲学的な立ち位置の確認と、思想的な裏付けをとって、ヴァーチャリズムの思想としての妥当性の確保をしたかったのだけど、哲学については全くの素人なので、何を書いているのか自分でもわからなくなった。これから充実した記事にしていきたい。


 そして以下は、この度において告白することを決意した、筆者自身のことについてである。
 とはいえなにか重要なことを言っているわけでもなく、極めて私的なことを語っているだけであり、もしかしたら人によっては不快な内容であるかも知れないので、興味のない方はここでページを閉じて欲しい。





 さて、告白とは何か。それは筆者がこのブログを始め、「のらくら」として活動してからずっと、吐いていた嘘についてである。
 筆者はTwitterなどで、バーチャルYouTuberについては最近ハマった、初心者であると何度かツイートをしたが、これは半分は卑怯な嘘であり、初心者という体を装うことによる便宜なのであると同時に、もう半分は、もう一度、素直な気持ちでバーチャルYouTuberを見たいという、筆者の素直な気持ちの現れでもある。
 どういう事なのかというと、筆者は一度、バーチャルYouTuber界隈から一度完全に離れていたのである。

 筆者は確か2018年前半の頃の、バーチャルYouTuberブームの最中、この界隈を知った。筆者にとっては、驚くべき界隈だった。数々の個性豊かなバーチャルYouTuberの面白さにハマったのはもちろん、筆者が子供の頃から憧れていたヴァーチャルという物が、一定の形で実現しているということに感動したのである。そこにはヴァーチャルという形で、一つの世界が成立しているという驚きに、筆者は熱狂した。個人勢、にじさんじ、アイドル部、ホロライブなど、例を挙げればきりがないが、夢中になって、いわゆる「複窓」をして、時間さえあれば昼夜見漁っていた。
 
 ただ、そんな中で、ある疑問、不満点も抱いていた。いわゆる「中の人」とか「前世」とかについて詮索する人間がいることについてである。せっかくバーチャルYouTuberが一つのキャラクターとしてそこにあるのに、どうして現実に引き戻すような行為をするのだろうか? とずっと、疑問を抱いていた。筆者にとって気になったのは、悪意を持って特定行為をする人間ももちろんいるものの、中にはいわゆるアニメキャラクターの「声優」を見るような感覚で、「中の人」を詮索する人間もいるということだった。それは昨今において、「声優」そのものを売り出し、アイドル活動を行う文化があるという事は知っていたが、その価値観をバーチャルYouTuber界隈に持ち込まれることは、はっきり言って筆者にとっては不快であった。

 バーチャルYouTuberバーチャルYouTuberとしてただそこにいる。それだけで十分だし、それ以上を求める意味が分からなかった。今思えば、これは筆者の理想であるバーチャリズムの根源だったのだろうが、筆者はいささか狂信的なまでに、現実の想定を嫌っていた。ただ「そこ」にいて「それ」を見る。それだけで何故満足できないのかと、筆者は思っていた。

 やがてバーチャルYouTuberというブームにおいて、光に満ち溢れていた界隈にも一定の期間が経つことで暗い影が差すようになってきた。スキャンダル、炎上、特定、企業の不祥事、そして引退。考えてみれば、2017年中盤からのバーチャルYouTuber大ブームにおいては、視聴者も、あえて言うなら運営側も、夢を見ていたように思える。しかし、夢はいつまでも夢ではない。嫌でも現実との折り合い、衝突が起こり、特にそれは狂信的なまでに幻想を見ていた、見ていたかった筆者に嫌でも現実が突きつけられる事となった。なにか事件がある度に、もともとメンタルの強くない筆者は強いショックを覚え、それが一度や二度ではなかった。そのうち筆者は恐ろしくなった。数々の事件にしてもそうだが、こうまで狂信的にバーチャルYouTuberに夢を見続けている自分が、である。

 その事に気づいた時、筆者はバーチャルYouTuber界隈から、なから無理矢理に距離を取って、やがて完全に離れた。そうすることで、自分を保っていたかったのだ。

 しかし、やはり一度は心の底から楽しませてもらった界隈をそう簡単に忘れることは出来なかった。けれども、界隈に戻れば、またなにか事件が起こるのではないかという不安があった。実際離れている間にも、遠くからちらほらとあれやこれやの事件についてが聞こえてきて、その度筆者は耳をふさいだものである。

 そんな事を繰り返していたが、最近になって、このブログを初め、Twitterを始め、考え方が変わった。それは筆者の精神状態が今においてある程度良好であることも関係するのだが、一番は、新しいことを始め、それに伴って、昔見ていた夢を、もう一度見てみたいということであった。そして、界隈に戻るにあたって、もう一度新鮮な気持ちで、初心者として、一からバーチャルYouTuberを好きになりたいと思ったのである。
 そして、筆者は、界隈にいた時も、離れている間にもつらつらと考え続けていた、「バーチャリズム」という思想をブログに綴った。正直に言えば、かなり自分では空想的な、やや恥ずべき産物でもあると感じていたのだが、他者、とらじぇでぃさんによって肯定されることで考えが変わった。これからは、自分の考えを、あくまで人の迷惑にならない限りで人々に知ってもらいたいと思ったのである。そして今回、とらじぇでぃさんの記事によって、改めて、バーチャルを楽しむという素直な気持ちを思いださせてもらった。最近若干思想的に凝り固まっていた筆者であるが、改めて、自分を見つめ直したいと思う所存である。


 以上が、今日までの筆者の思いと、そして現在の思いである。いささか長く語ってしまったが、もしも最後までつきあって読んでくれた方がいたら、心からの感謝を述べたい。



このエントリーをはてなブックマークに追加
voiceofdrone at 21:27|PermalinkComments(0)

2020年07月10日

【ヴァーチャル至上主義】わかりやすいヴァーチャリズム/バーチャリズム(Virtualism)

Vtuberにおける一思想。ヴァーチャリズム/バーチャリズム(Virtualism)とはなにか?


 この記事では筆者の提唱する「ヴァーチャリズム/バーチャリズム(Virtualism)」とはなにかという事を、できるだけわかりやすく定義し、まとめたい。というのも、筆者が書いたヴァーチャリズムの記事はどれも独りよがりに難解か、空想的に過ぎるので、初めて記事を見た人を引かせてしまうだけだろうと思ったからである。この記事では筆者の定義するヴァーチャリズムというものをできるだけわかりやすくシンプルに書きたい。

●第一に、ヴァーチャリズムとは、一言で言えばヴァーチャル至上主義である。

●第二に、ヴァーチャリズムとは、ヴァーチャル・キャラクター(アニメキャラクターや特にヴァーチャルYouTuber)
を見る時に、現実というものを一切、全く完全に、想定しないという思想である。

●第三に、ヴァーチャリズムとは、第二の項目の実現のために、ヴァーチャル世界そのものの、現実からの「独立」を目指す思想である。

 この三点がヴァーチャリズムの基礎であり出発点である。要するに、

「ヴァーチャル・キャラクターを見る時に、現実のことを想定するのは興が醒めるだけだし無意味だからやめよう」

という考えが出発点にある。この事を定義立て、論理的裏付けを取るために他記事ではなんだか難解なことをつらつらと書いてしまったが、要するにたったそれだけの事を言いたいのである。

 上記のうち第三の項目だけは分かりにくいかも知れない。「ヴァーチャル世界そのものの現実からの独立って何?」と思われる方も多いだろう。
 これは要するに、私達がヴァーチャル・キャラクターを見てどうしても現実のことを想定してしまい、なおかつ現実のことを想定しないと言うと、なんだか現実逃避的に聞こえてしまうというのは、あくまで「ヴァーチャル世界」が現段階では「現実世界」に従属した、延長線上にある世界だから、その事を想定しないために、「ヴァーチャル世界」そのものを現実から精神的、物理的に完全に独立させてしまおう!という事である。


ヴァーチャリズムが実現することによる意義


 でもそれって「ただの現実逃避で何の意味もないじゃん」、って思う方も多いかも知れない。それはヴァーチャリズムが実現することによる意義を捉えられていないからだろう。

 私達は、多かれ少なかれ、インターネットを利用している。インターネットというヴァーチャル世界で、現実とは全く異なるキャラクターを演じているという人もいるのではないか。重要なのは、「ヴァーチャル世界」では「なりたい自分になれる」のである。
 そして、VR技術の発展によって、私達はアバターを利用することによっていくらでもなりたい姿になることが、現段階で既に可能である。この事をヴァーチャリズムによって肯定するということは、次のような明確な意義がある。

●なりたい姿の自分になれるということは、人は生まれながらの様々な制約から開放される

●ヴァーチャリズムにおいては、そのアバターによる現実とは違った振る舞いを、絶対的に肯定する

 人は生まれながらに様々な身体的要素によって規定されている。それを肯定的に捉えられる人もいれば、そうでない人もいるだろう。生まれながらの制約によって苦しむ人は、この世に大勢いる。
 しかしヴァーチャル世界ではアバターを使い自由に、人種、性別、あるいは人間を超えて、いくらでも、なりたい姿になれるのである。この事をヴァーチャリズムによって肯定するということは次のような意義がある。

●ヴァーチャリズムにおいては、「アバター」による「ヴァーチャル・キャラクター」としての振る舞いを、一つの独立した「人格」として、絶対的に尊重する

●ヴァーチャリズムによる「ヴァーチャル世界」の現実からの「独立」によって、真に、人々は生まれながらの身体的制約から開放される

 どうだろうか?なかなか魅力的な思想に見えてきたのではないか? そんな事ない? いやもっと目をよくこらしてだね・・・
 ともかく、筆者はヴァーチャリズムを提唱する事に上記のようなことから一定の意義があると思っているし、人間の可能性を広げる試みであると考えている。

ヴァーチャリズムについてのより詳しい記事はこちら
・筆者が初めて書いたヴァーチャリズムについての記事。ヴァーチャルが現実から完全に独立するということは、どういう世界でなければならないか、電波たっぷりに空想している。

今日において筆者の考えるヴァーチャリズムのような事に取り組んでいる方の紹介と、今現在の世界における現実的なヴァーチャリズムの実践方法

・ヴァーチャリズムにおいて考える、ヴァーチャルYouTuberの「魂」についての考察。

・現段階では、この記事は読まなくていいです。ヴァーチャリズムの哲学的な立ち位置の確認と、思想的な裏付けをとって、ヴァーチャリズムの思想としての妥当性の確保をしたかったのだけど、哲学については全くの素人なので、何を書いているのか自分でもわからなくなった。これから充実した記事にしていきたい。



このエントリーをはてなブックマークに追加
voiceofdrone at 03:46|PermalinkComments(0)

2020年07月07日

ヴァーチャリズム/バーチャリズム(Virtualism)の今日における思想的実践



(2020/07/10追記)わかりやすいヴァーチャリズムの定義について記事を書きました

もくじ
1.ヴァーチャリズムとはなにか
2.ヴァーチャリズムの今日のおける状況と実践
3.ヴァーチャリズムは実践可能であるか?
4.思想的側面からのヴァーチャル生活実践の補強
5.終わりに(本音をぶちまけるコーナー)←せめてここだけでも読んでください・・・筆者は思想的にヤバい人ではないので・・・

ヴァーチャリズムとはなにか

 ヴァーチャリズムとは今日、既存の用語として、美術的分野の意味をもつ言葉としても用いられているが、このブログで提唱するヴァーチャリズムとは筆者独自の考えである。その定義用法については【考察】ヴァーチャルの可能性とヴァーチャリズムの提唱の記事に詳しく書いた。この記事においても手短に説明するならば、ヴァーチャリズムとは現実を前提としないヴァーチャル世界の展開、ヴァーチャル世界それ自体の独立を目指す思想である。言い換えるならば、ヴァーチャル世界に現実が想定されない世界の実現である。現実世界と同程度かそれ以上の価値をもってヴァーチャル世界という存在が確立され、世界というものが複数並立可能であるという可能性を前提とした思想だとも言える。
いささか筆者の誇大妄想的なものでもあるが、昨今のヴァーチャル技術の発展にたいして思想的な面からの補強を行うという試みには何らかの意味があると信じている。前回の記事では、今後の技術発展を見込んだ未来に実現する世界観としてヴァーチャリズムを展開したが、この記事では現在におけるヴァーチャリズムの状況と実践について扱いたい。



ヴァーチャリズムの今日における状況と実践

 筆者の定義するヴァーチャリズムという思想は、今日、主にバーチャルユーチューバー界隈において一部では一定の形で実践を目指されているとも言える。Twitterの自己紹介文を参考にさせていただくと、バーチャルユーチューバーであるPhio(フィオ)氏はバーチャルで生きていける世界を目指した技術的な取り組みを行っており、またPhio氏の取り組むバーチャル世界の実現の試みをざっと見させていただいたが、極めて興味深い。
 また、メディアアーティストであり技術者の坪倉輝明氏もまた、Twitterの紹介欄にて、「テクノロジーを駆使して現実とデジタルの境のない世界」を目指していることを述べられており、ホームページのプロフィールにおいても、「現実とデジタルの境を曖昧にさせるような中間的な体験を創っている」といった事を書かれている。これも筆者の考えるヴァーチャリズムに近いとも言える。
 また、バーチャルユーチューバーでありポエムコアアーティストのミソシタ氏もまた、「ヴァーチャルで生きる」事をテーマにした楽曲を作成されており、代表曲の一つである「地下二階のレジスタンス」では、「リアルとヴァーチャル どっちも自分 結局魂は一つってこと」といった歌詞など、ヴァーチャリズムという観点からも極めて興味深い世界観が展開されている。また「革命前夜」の歌詞における、「Realじゃないが Fakeでもない 俺らはVirtual」と言った歌詞も、筆者の考えるヴァーチャリズムの理念と極めて近い。
 またVRプラットフォームである「VRChat」におけるヴァーチャル世界の様々なワールドにおいて交流を行い、バーチャル空間を生活の場として実践する試みも、ヴァーチャリズムの実践と言えるものであり、筆者もとても注目している。
 また、筆者が最も注目しているものとして、「バーチャル美少女受肉おじさん」こと「バ美肉」おじさんの存在が挙げられる。彼女ら(彼ら)はおじさんでありながら、おじさんであることを表明しつつ、ボイスチェンジャーやあるいは生声で、少女の姿のアバターを使って活動する方々である。現実にとらわれない、なりたいものになれる試み、まさにヴァーチャルの、ヴァーチャリズムの真骨頂ではないか。彼女らの存在を思想的に裏付けるために私はヴァーチャリズムを考えだしたと言っても過言ではない。
 以上僅かであるが、今日において筆者の考えるヴァーチャリズムに近いと言える試みをされている人々についての状況と実践について述べさせて頂いた。改めて色々な人々を見ると、筆者の想像以上に筆者の考えるヴァーチャリズムに近い行為の実践を既になされている人は多いという事に驚くと同時に感動を覚えた。

ヴァーチャリズムは実践可能であるか?

 さて、筆者の考えるヴァーチャリズムというものが、本当に実践可能なのかということについて今一度考えてみたいが、とても非現実的ではあるが、ヴァーチャリズムという考えがもしも全人類に浸透し理解されたならば、それは今日からでも全人類にとって実践可能であると考える。
 技術的に未だ未熟な部分があるとは言え、ヴァーチャリズムの本質は先に述べた通り、ヴァーチャルにおいて現実が想定されない事によって、ヴァーチャル世界が世界として成立し、独立することである。より平易に述べるのであるならば、ヴァーチャル世界は現実から独立したものであると考える事が出来たのならば、いささか極論すれば、その時点でその個人にとってはヴァーチャリズムは成立するのだ。つまり、技術的進歩に先立ってヴァーチャリズムがもしも思想として一つの立場を築く事が出来たのならば、ヴァーチャリズムを掲げる人々の間では、ヴァーチャリズムとして、ヴァーチャル世界を現実から独立させるという事は可能なのである。それがヴァーチャリズムが思想であるがゆえの強さであり、思想とは人々にとっての世界の認識を変化させ、規定するものであるからして、実践可能なのである。世界の認識について持論を述べさせていただくならば、世界とは決して絶対的にそこに横たわるものではなく、人々の認識によって変貌し、変化可能なものである。グローバル化やインターネットの普及によって、世界のあり方は大きく変化したように、重要なのは、人々の認識の問題なのである。



思想的側面からのヴァーチャル生活実践の補強

 ヴァーチャリズムをヴァーチャリズムとして定義づける事に今日においてどのような意味があるのか? 前文に少し書いたが、筆者としては、技術的な進歩によるヴァーチャル世界の発展に思想的な補強を加える事によって、可能である、あるいは可能になりつつある世界の実現に対して、理想的な姿を筆者なりに思想的に定義づける事によって、ヴァーチャル世界の発展を願うものである。思想的な側面からのヴァーチャルへのアプローチは、今日においても無いではないが、少ないと感じた筆者は、何か少しでもヴァーチャルの発展に寄与したいと思い、ヴァーチャリズムという思想を提唱することで、他人任せになってしまうが、この記事などを見た誰かがこの思想に感化される事を願っている。もちろん、思想的な側面からのアプローチというのは、あくまでヴァーチャルの発展ということに対しては二次的三次的な行為であって、最も尊ばれるべき行為は、日々行われている技術者の方々の努力や、バーチャルユーチューバーとして日々活動されている方の努力に他ならない。
 また、筆者なりに定義したヴァーチャリズムにおける理想的なヴァーチャル世界像に対して、もしこの記事などを読んでくださった方にとっては様々な異論反論を持つであろうことも想定されるが、それは筆者としても願っている限りである事であるので、なにか意見がある方はぜひメッセージを送って欲しい。筆者が真に願うのは、様々な意見の止揚によって、未だ不明確な側面の多いヴァーチャリズムというものが、より実践可能であり魅力的な、説得力を持つ思想として確立されるという事である。


終わりに(本音をぶちまけるコーナー)

 なんだかますます危ない思想というか宗教めいてきちゃったぞオイ!と思うところである。筆者としては、ヴァーチャルに現実を持ち込むのは夢とロマンをなくすし興を削ぐだけだからやめようねと言いたいだけなのだが、それに思想的裏付けをなんとかして与えたいと考えた結果がこれである。バーチャルの発展への寄与どころか、まかり間違えば見た人をドン引きさせかねないようなものになってきてしまってきて、本当に申し訳ない限りである。そういった点において、お叱りやご批判があれば、どうか送っていただきたい。


このエントリーをはてなブックマークに追加
voiceofdrone at 23:49|PermalinkComments(0)