セカイ系

2020年07月07日

【セカイ系考察】「セカイ系」は何故流行したのか、社会的背景からの一考察 ~冷戦終結とグローバル化、変貌する私達の「セカイ」~

エヴァンゲリオン、「セカイ系」作品、の世相的、社会的背景の考察



 さて前回、【エッセイ】セカイ系とはなんだったのか~セカイ系作品の普遍性と「世界」と「セカイ」の違い~の記事においてセカイ系作品における、「セカイ」とは何か、はたまたセカイ系とはどのような普遍性を持ち合わせているのかという点について考察した。
 今回は、そもそも1995年「新世紀エヴァンゲリオン」に端を発するセカイ系作品の流行の社会的背景とはどのようなものであったかという点を現代社会の世相的な視点から考察してみたい。

一つではなかった「セカイ」~冷戦終結以前と以後~


 1991年のソビエト連邦の崩壊というのは、現在2020年から見るともはや30年前の出来事であり、すでに現在的な大ニュースではなく歴史的出来事として扱われつつある。しかし重要なのは、1991年にソビエト連邦が崩壊するまで、世界は一つではなかったという点である。ソビエト連邦を中心とした東側世界と、日本も含まれるアメリカ合衆国を中心とした西側世界。冷戦終結以前においてはそんな二つの世界が展開されていたのだ。しかしそんな状況は1991年、ソビエト連邦の崩壊によって突如として終結した。ソビエト連邦はロシア連邦とCIS(独立国家共同体)諸国へと分裂し、それ以前の1989年のベルリンの壁崩壊からも旧社会主義諸国は次々とソビエト連邦からの独立と自由経済化、民主主義化を迎えていた。そして1991年のソビエト連邦の崩壊という大ニュース。それは一夜にして、世界の半分を占める社会主義世界の崩壊したことと、旧社会主義圏の自由主義世界への参入という形で世界が統一されたことを意味していた。この時をもってして、フランシス・フクヤマ氏は『歴史の終わり』という著書にて、自由経済、民主主義の勝利という形による、強権的支配による国家の崩壊や革命といった歴史的大事件という形による歴史的大変動が起こる時代が終わり、民主主義を中心としたゆるやかな世界が展開していく「歴史の終わり」という論を唱えた。しかし2001年の911同時多発テロ事件の勃発と対テロ戦争、自由主義世界の勝利という形で迎えた冷戦終結による世界の統一は、数年にして瓦解の様相を呈していた。ただ依然として重要なのは、世界の半分を占めていた、巨大な社会主義世界が崩壊し、良くも悪くも、世界は従来的な二極分立の時代から、アメリカ合衆国による一極化を経て、グローバル化の名において、世界は従来とは全く違う形にて変化しつつある時代を迎えたという事である。
 以上、セカイ系作品とは全く関係が無いかのように思われる現代世界の変遷を書き連ねてきたが、以上のことは、セカイ系作品と呼ばれる一連の作品群が成立する前夜にあたって、1995年の「新世紀エヴァンゲリオン」というセカイ系作品のパイオニアが誕生する1990年代の社会情勢として筆者が重要であると考えている社会背景である。


新世紀エヴァンゲリオンの「セカイ」


 1995年放送の「新世紀エヴァンゲリオン」という作品は、当時から20年後の2015年を舞台としている。「新世紀エヴァンゲリオン」が作成される過程において、1990年代という世界の大変動という社会背景はどのように作品に影響したのだろうか。新世紀エヴァンゲリオンという作品は、監督の庵野秀明氏の役割による所が大きい作品である。庵野秀明氏は、新世紀エヴァンゲリオンを制作するに当たって、学生時代の「宇宙戦艦ヤマト」と「機動戦士ガンダム」を始めとする「ガンダムシリーズ」に強い影響を受けていると語っている。庵野秀明氏はアニメ製作者的な側面が強い人物であり、一見すると1991年のソビエト崩壊のような社会背景が作品に盛り込まれる余地は少ないようにも思われる。
 しかしながら、「新世紀エヴァンゲリオン」の世界観を見ると、作中2000年に起こったセカンドインパクトと呼ばれる大災害による世界の大変動と、それに端を発して形成された新たなる社会が舞台となっている。セカンドインパクトに端を発する世界中での紛争によって、実に世界人口の半分もの犠牲者を出したと語られる。この紛争が従来的な作品における終末戦争、つまり核戦争によるポストアポカリプスにまで発展せず、作中にて、大変動を経験しながらも、日本という国家が存続し続けているという点については、作品そのものの設定事情というものはもちろん存在するだろうが、やはりソビエト連邦の崩壊に伴う冷戦終結、核戦争という恐怖が薄れたことによる設定なのではないかと筆者は考察する。やや結論ありき的な考察となってしまうが、人間が作品を制作するに当たって、時代背景というものは色濃く反映され得る。そこへいくと新世紀エヴァンゲリオンとう言う作品の新世紀、つまり来たる21世紀の世界観が、従来的な冷戦という巨大な社会体制に支配された考えではなく、ポスト冷戦的な発想に基づいたものであるという事も出来るのではないだろうか。
 さらに考察を深めると、新世紀エヴァンゲリオンがセカイ系と呼ばれるにあたる主人公「碇シンジ」とヒロイン「綾波レイ」や「惣流・アスカ・ラングレー」らとの関係に基づくいわゆるセカイ系独自の「キミとボクとセカイ」的閉鎖的世界観の背景には、冷戦終結に伴う世界の一体化において、変容した世界そのものの在り方と、冷戦終結によって世界中の人々が認識した、「世界は変化・変容しうるものである」という痛烈な体験が元になっているのではないだろうか・・・というのが、筆者のセカイ系作品全体に対する社会的側面からの考察である。


セカイ系作品が流行した時代における社会背景


 いわゆる「ポストエヴァンゲリオン」的作品とも当初は呼称された「セカイ系」作品群。ではそもそも、これらの作品が「セカイ」を意識して作られた背景はどのようなものであるか・・・という点について、前述した通り、冷戦終結という体験と、2001年の同時多発テロに端を発する変わりゆく世界の在り方、ひいてはインターネットの普及とグローバリゼーションという、分裂していた世界の統合と、再び分裂しゆく世界、そして全く新しい世界が現実に展開されつつあるという事を背景として、「世界」とは絶対的にただそこに横たわる存在ではなく、あくまで相対的で可変的で、いくらでも変わりゆくものであるという体験、そしてそもそも「世界」、「セカイ」とは何か?という問いが疑問として人々に残った結果が「セカイ系」という問いに繋がり、ひいては流行に繋がったのではないかと筆者は考察する。


セカイ系作品とインターネット論


 2000年代という時代において、人々の生活にはインターネットという新たな場が登場し、急速に発展しつつあった。インターネットという現実の延長、ひいては別世界的なインターネットの存在という点からの、セカイ系における「キミとボク」的な閉鎖的世界の展開の発想という点についても興味深いと思われる。筆者のインターネット論を考察した記事【エッセイ】別世界としてのインターネットと、現実の延長としてのインターネット 【考察】においても言及したが、2000年代初頭の初期インターネットはいわゆる現実とは隔絶した別世界的なものとして展開されていたと筆者は考察した。掲示板文化などに代表されるインターネット独自の世界。その中では匿名という新たなる場においては、セカイ系作品の構図として、主観的な「ボク」の存在と、「ボクのセカイ」の目の前に広がる「その他大勢のよくわからないもの」というセカイ系の前提である状態が展開されていたのではないか、インターネットの匿名文化が「セカイ系」の構図と同調していた・・・というのは、いささか筆者の空想にすぎるだろうか。空想に空想を重ねるならば、このインターネット世界の構図には、セカイ系において必須であるヒロインである「キミ」の存在は登場しない。だからこそセカイ系における「キミ」の存在が求められた社会背景があったのではないか・・・と筆者は考察した。

終わりに

 オタク文化の考察は難しい。オタクというのは多様性を体現したような存在であり、決して一概には言えない人種であると、オタクの端くれである筆者をしても思うところであるからである。
 今回は、「新世紀エヴァンゲリオン」に端を発するセカイ系というジャンルが当時の世相に影響されていたのではないかという、いささか結論ありきな記事になってしまったが、いかがだったろうか。
 最後に駆け足で考察したインターネットとセカイ系という考察については、また機会があればより詳しく考えてみたいと思う。この記事を最後まで読んでくれた方には、筆者の空想のような考察に付き合ってくれて、本当にありがとう、と心からの感謝の意を述べたい。


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【セカイ系考察】「セカイ系」とはなんだったのか ~セカイ系作品の普遍性と「世界」と「セカイ」の違い~

「セカイ系」とはなんぞや?「セカイ」についての一考察



 「セカイ系」、1995年放送の「新世紀エヴァンゲリオン」に代表され、2000年代初頭のライトノベルやアニメ作品群においてしばしば定義されたジャンル名である。セカイ系という言葉の定義は難しいのだが、概説すると当初はいわゆる「エヴァっぽい」作品を総称した言葉として誕生したとされる。
 そこから様々に発展してより具体的となった「セカイ系」と定義される作品の共通性を挙げるのであれば、「ボクとキミ」の関係を重視し、かつそこに隣接する形で「世界の行く末」が決定される、その中間項の描写は存在しないか、ごく限られているという、言い換えればストーリー自体は「主人公」+「ヒロイン」という極めて狭い範囲で物語が展開されるのにも関わらず、登場人物の行為行動は世界全体の危機に直接関係し、世界の行く末を決めるという形式のストーリーと分析されている。
 「主人公」は作中の中枢に関わる重大なバックグラウンドを知らず知らずのうちに抱えているという場合もあるが、主人公自身はその事に無自覚であったり、もしくは本当に突然巻き込まれた一般人である場合もあるが、多くの場合ある日突然世界の危機の中心に巻き込まれるという形で物語はスタートする。主人公に関わる「ヒロイン」達は、皆世界そのものに影響を及ぼしかねないような重大な役目を担っているというケースが多い。そうでなくともヒロイン達は、何か宿命づけられた役目を担っていて、ただ巻き込まれただけの「主人公」の環境と対比されるという構図も多く見られる。


思春期的「ボク」とセカイ


 セカイ系という定義を概観するのであれば、これは極めて思春期的な価値観を持つと言えるであろう。実際、セカイ系とされる作品において、主人公とヒロインは中学生から高校生あたりと設定された、同年代の少年少女とされる事が多い。
 多感な「思春期」、「疾風怒濤の時代」とも表現される時期にある「ボク」は、世界においてどのように位置づけられるのかという問いが一つの普遍的思春期意識として掲げられる。そんな世界に対して疑問を持つ「ボク」の前に、もしもある種世界に対する重大な解を備えた、あるいは世界の意味そのものをも表現する「キミ」が現れたら… セカイ系のストーリーとは、もしもそんな多感な時期の「ボク」の前に「キミ」という存在がいたら、そんな風な前提があると解釈することが出来るのではないか。そして「キミとボク」の存在によって「ボク」の抱える世界への疑問が解消され、展開されるセカイにおいて、「ボク」の存在価値が決定されていく。(それは必ずしも肯定的価値であるとは限らないのだが)セカイ系のストーリーとは、そんな風に捉えることも出来るのではないだろうか。
 セカイ系における一件近視眼的とも思われる閉鎖的「セカイ」の存在は、究極的には「ボクとキミ」のためのもの、もっと現実的な言い方をするのであれば、読み手の代弁者でもある「ボク」の世界に対する疑問を解消するための「キミ」の存在であり、「セカイ」なのである。

「世界」と「セカイ」の違い

 ここで少なくともこの記事において筆者が考えている、言葉の定義をはっきりとさせておかなければならない。セカイ系作品において展開される「セカイ」と、一般に言われる「世界」とはどのような違いがあると筆者は考えているか。「世界」とは、自分がいてもいなくても成立する、個人的視点に依らない実際的な全世界である。例えて言うならば、「ボク」がいてもいなくても世界は何ら変わらずに回っていく。
 一方でセカイ系作品においてまさにそれが「世界」ではなく「セカイ」とカタカナで表記される、あるいは揶揄されるような形で表現される「セカイ」とは一体どのような違いがあるが故なのだろうか。
 「セカイ」とは、あくまで主人公である「ボク」の存在が前提となった、人間原理的世界である。「セカイ」の範囲は様々で、細々とした事は抜きにしても一応は広く全世界を舞台とした「セカイ」もあれば、「ボク」の生活に関係する、視界に収まる範囲である場合でもある。ただいずれにせよ、「セカイ」の存在は、「ボク」の自意識において定義される。「ボク」の存在無しには「セカイ」は存在し得ない。いやむしろ「ボク」がいないのであれば「セカイ」が存在していたところで意味がない、「ボク」が観測可能であるという意味で「セカイ」は成り立つのである。
 ただここで筆者の意見を差し挟ませていただくならば、私達人間個人個人が現実に見ている「世界」もまた「セカイ」的であるという点である。ある個人にとって普段語られる世界とはあくまで自らに身近な、近視眼的な「セカイ」である場合も多い。前述の通り、無論「世界」は私達が、自分自身がいてもいなくても成立する。実際的な意味を込めて言うならば、今日も私達の見ず知らずの人々が世界中で生活しており、世界中で世界は周っていく。
 そのような意味における「実際的世界」はあるいは「世界」ではなく単に「地球」と表現するべきであろうか。実際「世界」という言葉の意味はしばしば限定されるし、歴史的にも「世界」の範囲は時代によって変遷してきた。近代以降において、交通機関や情報の普及網といったインフラが全地球を覆い尽くし、全地球そのものが「世界」として、物理的に繋がれる前の前近代においては、東アジア世界、ヨーロッパ世界、中東世界といった様々な世界が並立して地球上に存在していた。そういう意味では「世界」という単語を「セカイ」と区別して定義するまでもなく「世界」という言葉には、世界を観察する自分自身とその周辺という、私達の自己認識を前提とした、近視眼的意味合いが含まれていると言ってもよいだろう。
 話が少々それてしまったが、何が言いたいかと言うと、普段私達が生活して見ている世界も、自己認識を前提とした前述にて定義した「セカイ」的なものであるという存在であるという事である。


セカイ系作品の普遍性

 セカイ系作品に存在する普遍性、それは「主人公」、「ボク」の前に横たわる「セカイ」にはどんな意味が存在するのかという事を解き明かすという点にあると考えられる。セカイの意味を解き明かす、その結果出た答えが肯定的なものであるか、否定的なものであるかはさておいて、ともかく作中で、「セカイ」の存在は定義される。その結果導き出されたセカイの在り方が広く一般的な意味であるか、言い換えれば普遍的であるかということではなく、答えを出そうという試みそのものに普遍性があるのだと筆者は考える。
 もっとも、ここで注意しておかなければならないのは、セカイ系作品においては、「セカイ」の「答えを探そうという試み」は行われるけれども、前述した通り、そのセカイが必ずしも、現実的な全地球という意味での範囲の世界であるか、あくまで主人公の視界の範囲にのみ横たわる狭い世界なのかという事、あるいは導き出された「答え」が明確であるか、はたまたそもそも「答え」などあるのかという事は作品ごとにまちまちであり、はっきりとしないという点である。

終わりに

 今回は筆者の視点から、セカイ系作品とはなんだったのか、セカイ系作品とはどのような普遍性があるがゆえに流行したのか、という事についてまとめてみた。もっとも、セカイ系という言葉の定義は今日をして、まだ不明確な点も多い。その点で言えばこの記事におけるセカイ系と筆者が定義したものについても、異論反論があるかも知れないが、ご容赦願いたい。
 さて、次回の記事では、もっと現実的世相的な視点から、1995年の「新世紀エヴァンゲリオン」放映以降のセカイ系作品の流行という点を社会的な側面から考察する試みや、セカイ系ブームが終焉に向かった原因についても、またいずれ機会があれば考察してみたい。

(追記)【エッセイ】「セカイ系」は何故流行したのか、社会的背景からの一考察 ~冷戦終結とグローバル化、変貌する私達の「セカイ」~において、現実世界の社会的背景から、セカイ系作品を考察する記事を書いたので、よろしければこちらも是非。


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