イージー・ライダー

2020年07月02日

【こんな映画を見た】Easy Rider/イージー・ライダー【ストーリー考察】 ~この映画の一体何が衝撃的だったのか?~

アメリカン・ニューシネマの金字塔、「イージー・ライダー」は何が新しく衝撃的であったか


 
 今回紹介するのは、アメリカン・ニューシネマの金字塔的作品「イージー・ライダー」である。さて、この作品、有名すぎてレビューも、大げさに言うまでもなく一シーン毎に考察も行われているであろうほどに枚挙にいとまがないために、言ってしまえばわざわざこの記事において、特筆に値するような、目新しさに溢れたレビューと言った事を書くことが出来ない。しかし大好きな映画の一つなので、どうしても自分のブログにてオリジナリティのあるレビューをしたい!という感情が抑えきれず、この記事を書くに至った。筆者のイージー・ライダー観と言ったものを、ツッコミどころ満載だなあと思いながら、どうか暖かい目で見てやってほしい。
(以下ストーリーのネタバレがあるので未視聴の方はご注意)


●イージー・ライダーは何が衝撃的なのか?


 イージー・ライダーという映画を一度でも見たことがある方に、何が最も印象に残ったかという事を尋ねれば、大体答えは二つに分かれるだろう。一つは、ドラッグにラリラリになったトリップシーン、そしてもっと大多数を占めるであろうものは、ラストの、唐突に迎えられる旅路のエンディングであろう。
 筆者は子供の頃、深夜のテレビでイージー・ライダーが放送されると聞いて、イージー・ライダーがアメリカン・ニューシネマでなんだか有名な作品であるという事だけを聞きかじっていたから、テレビをつけて寝ぼけ眼を擦って見てみたのだが、さっぱりわからなかった。「音楽はカッコいいな~でもよくわからないな~衝撃的なラストシーンってなんのことだろう、アレッこれで終わりなの!?なんじゃこりゃ!」という感想だけが残った。
 ラストシーン、ネタバレしてしまえば、旅を続ける二人は、アメリカ南部に赴くのだが、そこで南部特有の排他的な歓迎にあい、最後は突然現れたトラックの農夫に銃で撃ち殺されてしまうのである。確かに衝撃的で、唐突にも思えるラストシーンだ。
 だが、このラストシーンは本当に唐突だったのだろうか? 当時上映された際にこの映画を見たアメリカ人のラストシーンの感情を代弁するならば、「確かに衝撃的ではあるけど、ああやっぱりこうなったな」というような感想を抱いたのではないだろうか。実際、中盤から終盤にかけてのシーンで、南部に赴いた一行が、排他的な土地柄に危機感を覚えていたし、その後には同行していた弁護士が殺されてしまうというはっきりとした伏線はあった。加えて当時のアメリカの時代背景を知っている人間であれば、あんな怪しい風貌の連中が南部にやってきて、挑発まがいの行為を繰り返しながらバイクで旅をしていれば、あのラストシーンもある意味頷けるものであるのではないか。そういう意味では、このイージー・ライダーが映画史に与えた真の衝撃というものは、あのラストシーンではないのである

●どこにも行き場などないという衝撃


 ではここからは、筆者なりの考察として、イージー・ライダーの衝撃性というものが何であったかということについて考察していきたい。冒頭、ワイアットとビリーの二人はコカインの密輸によって大金を得た。腕時計を捨て、時間に縛られない自由な旅路へと漕ぎ出したはずであった。しかし行く先々で彼らは受難を経験する。結局映画を通じて彼らを受け入れてくれた場所といえば、序盤に訪れた敬虔な農夫の食卓と、途中訪れるヒッピーコミュニティくらいのものであった。しかしそこは彼らにとって通過点でしかない。向かうべき目的はもっと東の、謝肉祭が行われる街なのだ。道中の街で祭りのパレードに参加するやいなや彼らは違反に引っかかり投獄されてしまう。なんとか弁護士ハンセンの口利きによって釈放され、ルイジアナ州ニューオーリンズへ向かうのだが、南部社会の拒絶に遭遇する。
 道中ハンセンの会話によれば、彼らの旅路は「自由」を体現しているために受け入れられないと指摘される。自由の国アメリカで、自由を体現しているために先々で拒絶されるという強烈な矛盾。さらに、終盤、キャンプを囲む二人の会話は、陰鬱なものであった。金を手に入れて、引退して楽な暮らしが出来ると楽観的なビリーを横目に、ワイアットは何かを悟りきった様子で、「ダメだよ」と返す。そしてラストシーンに突入する。旅路の最後に待ち受けていたのは、最たる拒絶、唐突な銃撃であった。ビリーは撃たれ、ワイアットもまた銃撃を受け、バイクは爆発する。そして流れるのが「Ballad of Easy Rider」のメロディである。この曲の歌詞が、彼らの旅路の、ひいてはこの映画の全てを物語っているようである。
 結局、金と自由を手に入れて、もはや何にも縛られることなど無く、自由な生き方を目指した彼らに、当時のアメリカにおいて行き場などなかったのだ。結局最後は射殺されて、そうして死んでようやく自由になれる。この痛烈な描写は、当時のアメリカ人になんとも強烈な虚無主義を突きつけた事であろう。ヒッピームーブメント、若者たちの文化、ドラッグ、この映画が放映された60年代アメリカにおける自由を求めて築き上げられた運動の全てがこの映画には詰まっており、そしてそれが全て否定されている。自由を求めて行き着く場所はただ死のみ。さもなければ社会に縛られて生きていくしかない。そんな痛烈な現実主義をこの映画は表明しているのだ。なんとも衝撃的であったことだろう。

●終わりに


 以上が、筆者なりの「イージー・ライダー」についての考察である。自由とは何かを問い、どこにも自由はないと突きつける、それこそがこの映画の衝撃性であると、筆者なりに考えた。無論批判やツッコミは多々あるだろう。というかひょっとすれば、こういった考察すらも、筆者が知らないだけでとっくに既出のものであるかも知れない。
 しかしこの映画は様々な考察を受け入れ許容しうる度量を持っている。それこそがこの「イージー・ライダー」という映画の名作たる所以なのではないかと、筆者は思う。


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voiceofdrone at 16:13|PermalinkComments(0)