インターネット

2020年07月13日

私版・唯物史観的「インターネット」発展段階論 ~マルキシズム的な何か~

この記事は過去に書いた筆者のインターネットの歴史に関する一考察、【インターネットの発展段階史】別世界としてのインターネットと、現実の延長としてのインターネット 【考察】の内容を大元の下敷きにして、より詳しく、インターネットの歴史をある種「歴史学」として捉え、考察をするものである。

唯物論的史観からみる「インターネットの歴史」



目次
●初めに・マルクスについて
インターネット唯物史観・発展段階論説
唯物史観・発展段階論的な視点から予測されるインターネットの今後
●終わりに(ネタバラシのようなもの)

初めに・マルクスについて


 さて、初めに断っておくがこの記事は「インターネットの利用者意識の変容」を発展段階論的な視点から、マルクス主義における唯物史観に基づいて分析するものである。
 
 「マルクス主義」、「マルクス思想」。人によってはこの言葉を聞いただけで拒否反応が出る人もいるのではないだろうか。それはやはり「社会主義」という「理想」と、数々の「マルクス主義」をもとにした社会主義国家の失敗という「現実」によるものであろう。
 ただ、断っておきたいのは、「思想家」「経済学家」としてのマルクス主義は今日においてほとんど扱われなくなったと言っても過言ではない状況であるものの、「哲学」、「歴史学」、「社会学」においては未だにマルクス主義的価値観が息づいているのだ。
 なぜならば、「社会主義の提唱者」としてのマルクスは残念ながらある種の「夢想家」というのが否めないものの、「既存の社会・資本主義の分析者、及び19世紀における資本主義の破壊者」という意味においてはマルクスというのは天才的だったと言わざるを得ないからである。

 例えばマルクスに対する評価を挙げると、マルクスの伝記を書いたE.H.カーによれば、
マルクスは破壊の天才ではあったが、建設の天才ではなかった。彼は何を取り去るべきかの認識においては、極めて見通しがきいた。その代わりに何を据えるべきかに関する彼の構想は、漠然としていて不確実だった。」
「彼の全体系の驚くべき自己矛盾が露呈せられるのはまさにこの点である」
との評価である。

 「歴史学」においてマルクス思想が息づいているというのは、まさに彼の「発展段階論」「唯物史観」的歴史観に代表されるものであり、特に日本の歴史学会にてはもちろん批判も数多くなされてはきたが、今なお色濃く根付いているのだ。

 さて、前置きがだいぶ長くなってしまったが、この記事では、インターネットの歴史を「歴史学」として捉え、唯物史観、発展段階論的な視点から考察を行っていきたい。
 なお、言い訳として一応断っておくと、筆者はマルクスに関しては少し勉強したつもりではあるが、素人である。そのため間違いなどもあるかも知れないが、その点はご容赦いただきたいと同時に、コメント欄などでレスポンスをいただけると嬉しい。


インターネット唯物史観・発展段階論説


 さて、本題であるインターネットの歴史に対する一考察を始める。
 前置きとして、この記事は、唯物史観的な視点から、「別世界」であるか、「現実の延長」であるかといったような「インターネットの利用者意識」をインターネット社会の「上部構造」として捉え、物質的、技術的なインターネットの「生産力」とも言える物理的発展を「下部構造」として考える。「上部構造」は「下部構造」によって規定される、即ちインターネットの利用者意識や使い方、インターネット社会の変遷というものは、「下部構造」である技術的な水準によって制約され、規定されるという考え方である。

 かつてインターネット黎明期から初期にかけては、チャットや匿名掲示板といった場所にて独自の文化や世界観が形成され、インターネット世界という別世界的なインターネットが展開されていた。というのも、チャットコミュニティや匿名掲示板といった場所では、現実と隔絶した振る舞いが許容され、現実ありきではなく、インターネットという場を前提としたコミュニケーション、つまり別世界としてのインターネットが展開されていたのである。
 これを「下部構造」、即ちインターネットの「生産力」という視点から捉えると、当時はまだコンピュータそのもののスペックや回線の速度といった限定から、インターネットは文字媒体としてのメディアとしての振る舞いが強かったと言える。文字を主体にするということは、読み手である利用者にある程度の想像力が問われなければならないのと同時に、この時点でこの後のインターネットの時代である「現実の延長としてのインターネット」を踏まえて言うと、この時代におけるインターネットは、現実の延長として、現実の出来事を報告するのにそもそも不向きだったということである。よって、現実とインターネット上との非リアルタイム性からネット上のみで成立しうる独特の文化が生まれ、発展する余地があったと言える。つまり「上部構造」であるインターネットの利用者意識は、発展途上のインターネットにおける文字主体時代という構造に規定されていたと言える。
 これがやがて技術発展によって徐々に変化してきた。コンピュータスペックの高性能化とインターネット回線の高速化によって、大容量のファイル、高画質な画像であるとか動画をネット上にアップロードすることが容易になってきたのである。ちょうど2000年代中盤以降の事である。ただ、この時点においては「上部構造」としてのインターネットの利用者意識が変化するにはまだしばしの時間が必要であった。

 決定的に「下部構造」が変化し、「別世界としてのインターネット」という「上部構造」に変革をもたらしたのは、恐らくはスマートフォンの登場だろう。それ以前の携帯電話と異なり、小型のコンピュータと高性能なカメラを兼ね備えたこの電子機器が技術的に実現し得る決定的な「下部構造」における「ネット生産力」の増大ととともに、「上部構造」は変化していった。付け加えるならばスマートフォンという「現実の報告」にうってつけの機器が登場したことによって初めて、SNSといったサービスが登場しうるだけの下地が整ったのだと言える。
 スマートフォンの登場と、それに伴うSNSという革命こそが「インターネットの現実の延長」化を決定的に促進した。もはや人々はありとあらゆる場所で、リアルタイム的に現実の出来事を画像、映像あらゆる形で報告することが出来るようになり、従来型の形の見えない相手との会話である匿名掲示板から、より明確に相手が見えるSNSへとネットの主体が移行していった。コミュニケーションは実体性を帯びたものとなり、多かれ少なかれ現実が想定される時代へと移り変わったのである。

  つまり唯物史観的にインターネットを捉えれば、インターネットという存在の利用者においての意識という「上部構造」が、「別世界」から「現実の延長」へと移り変わったのは、つねに電子機器の性能やネット回線というインフラに関する技術的制約という「下部構造」に規定されたと言えるのではないか。

唯物史観・発展段階論的な視点から予測されるインターネットの今後


 さて、ここまでが今日においてのインターネットの歴史的な概要である。では、今後のインターネットのあり方は、どのように変化していくのだろうか。「下部構造」としての技術的進歩において予想されうるのは、ますますの電子機器の小型化高性能化、5Gに代表される回線の高性能化、そして更に挙げるならば、「人工知能」と「ヴァーチャル」技術の進歩である。まず電子機器のスペックアップと回線の高性能化によって、「ネット生産力」とも言える「情報量」はますます膨大になっていくと考えられる。それに伴って、「ヴァーチャル」技術が実用化し普及することによって、「上部構造」には再度革命が起こる。

 即ち、「ヴァーチャル革命」による再びの「インターネットの別世界化」である。奇しくもマルキシズムにおける原始共産制から資本主義へ、資本主義の成熟から社会主義への革命へというような構図と一致してしまったが、技術的成熟によって、「インターネット」そのものの存在がさらなる変化・飛躍を遂げるということ自体は十分に考えられる事である。そこで基軸となる技術が「ヴァーチャル」であると、あくまで筆者の考えであるが、そう予想している。そして「別世界」としての「ヴァーチャル世界」の成立により、人類社会そのものが大きな変革を経験することになるだろう、と筆者は考えている。


終わりに(ネタバラシのようなもの)


 さて、筆者によるマルキシズム的な何かによるインターネットの発展段階論的歴史展開を延べた。これまでのインターネットと、そしてこれからを考えるのにあたって、「別世界的インターネット」→「現実の延長的インターネット」→「別世界のインターネット」という段階を踏むであろうということは、前述の通り、奇しくもマルキシズムにおける経済発展段階説と一致した。

 ただここで気をつけなければならないのは、「マルキシズム」がもてはやされた所以は、「何にでも当てはまる」という利便性が一因としてあるということである。「発展段階論」を適応すれば、歴史のあらゆる時代と場所に説明がつくと期待されていた時代もあった。ただし、それほど現実は単純なものではない。科学的に世界を分析できるという理性主義の時代に生まれたのが「マルキシズム」であり、その限界性は後の時代において露呈することとなった。
 そのため、インターネットの歴史というものを単純化して考えて、「発展段階論」を適応すればある程度当てはまるというのは、そもそも「マルキシズム」の性質から当たり前であると言えば当たり前であり、決してこれが安易に良く出来た分析であるなどということは筆者自身あまり思わない。少なくともインターネットの「過去について」の分析はともかく、未来における、「マルキシズム」における「社会主義」に値する「ヴァーチャル革命」がそうやすやすと、自然に行われるとは考えていない。それについては、思想が必要であり、筆者が提唱する「ヴァーチャリズム」はそのためのものである。というと、なんだか「マルクス・レーニン主義」っぽくなってしまうような気がするが。
 さて何事もなく世の中が進めば、ドラスティックな「ヴァーチャル革命」というか、少なくともヴァーチャル技術の進歩はもちろんあるだろうが、あくまで既に確立した「現実の延長としてのインターネット」とは並立して存在していくものだと筆者は考えている。
 くれぐれも「マルキシズム」の利便性に簡単に惑わされないよう注意していただきたい。


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2020年07月05日

【匿名は良いか悪いか?】現代社会のインターネットにおける匿名という場の自由主義的観点からの存在肯定論


匿名は良いものか、悪いものか

 
 インターネットが普及し、その初期から存在していた匿名性という性質は、良くも悪くもインターネットの発展に多大な影響を与えてきた。2ちゃんねる(現5ちゃんねる)といった匿名掲示板がその代表的な存在だろう。特に2ちゃんねるは「便所の落書き」とも揶揄されながらも、様々な匿名ならではの文化を作り出し、今日のネット社会においてもTwitter、ひいては現実社会の流行語など、知らず知らずのうちに使ってるスラングが、実は2ちゃんねる発祥であるなど、その影響は大きい。
 一方で、匿名であるがゆえに起こる根拠のないデマ、誹謗中傷、差別的発言など、その存在そのものに負の側面として、倫理的に存続がなされるべきなのかどうかといった疑問が投げかけられることもままある。正常な倫理観を持ち合わせる人間からすれば、目を疑うような言葉などが飛び交っている場でもあり、過激な犯罪予告などから逮捕者も多数出ているのだから、そのような意見が出てくるのも仕方がないといえば仕方がないだろう。

 しかし、匿名という場における功罪は様々であるとはいえ、この世の中に匿名の場があることによる事自体に一定の有益性、ひいては民主主義社会にとって一定の意義があるのではないかと筆者は考察する。

インターネット以前の匿名という場の歴史


 さて、匿名という言論の形式は、インターネット誕生以前から雑誌や新聞などへの匿名投書と言った形で行われてきた。検閲が存在する社会では、自由な言論を少しでも担保する場として機能した。もっとも、実名を明かさないが故に無責任で差別的な論が展開されるという性質は、この時代も変わらず、19世紀後半のドイツの匿名投書では反ユダヤ主義的な投稿がなされるという問題も起こった。哲学者ショーペンハウアーも、「匿名の文章というのは、責任が存在せず、価値がない」と自著のなかではっきりと匿名を批判している。

 確かに匿名という場においては、無責任であり、過激な意見が飛び交うということも事実である。しかし、近代において、民主主義が各国で確立するにあたって、投票の手段は公開投票からやがて秘密投票へと置き換わった。名を明かさず、匿名であるということによって、政治的な自由が担保されたのである。匿名こそが、民主主義の基礎であるとも言える。

 また匿名の投書や、それこそ2ちゃんねるの蔑称である「便所の落書き」というものも、「落書き」なりの歴史があり、文字通り、便所に描かれた落書きなども匿名の場として、強権的な政権の国家において、人々が本音の、自由な意見を発することが出来る場として機能していたのだ。
 戦前戦中の日本においても、特高警察が不穏な落書きとして取り締まった落書きの数々の記録は、強権的な軍部への反対意見や反戦主義、「日本はこのままでは戦争に負ける」と言った意見であるとか、その時代における人々が思っていた本音が書き綴られていたこともあった。人々が匿名性を担保され、自由に書くことが出来る「便所の落書き」にも、一定の研究の価値がある記録が残っているのだ。

インターネットと匿名の性質~自由な言論かエコーチェンバーか~


 さて時代は下り、インターネットが発明され、一般層の利用という点においては、80年代後半のパソコン通信から始まり、90年代の本格的なインターネット時代が幕を開ける。インターネットはその当初から、強い匿名性という性質を兼ね備えていた。もっとも黎明期のインターネットにおけるパソコン通信は、通常各個人に一つのIDが発行されており、後の匿名掲示板時代よりは匿名性に制限があったのだが、匿名掲示板の普及とともに、匿名性ゆえの行動はかなり拡大していった。当初はインターネットに関する法整備もままなっていなかったことから、初期インターネットの匿名の場というのは、さながら無法地帯の様相を呈していた。流石にこれは問題となり、IPアドレスの記録と発信者情報の開示といった制度的な個人特定の仕組みなどが整備されていくのだが。

 さて2000年代初頭のインターネットの匿名掲示板では、雑多な情報や雑談といった側面も大きかったが、専門知識を持った人間による専門的な分野の板であるとか、多種多様な板で、それぞれ専門的な議論もなされていた。その中で、政治的な意見や思想も醸成されていくことになる。2000年代初期には現在「ネット右翼」と呼ばれる思想の源流が構築されてもいた。ただ、このような思想は匿名の場という性質におけるエコーチェンバー現象、すなわち閉鎖的なコミュニティ環境においてコミュニケーションを繰り返すことによって、特定の信念や思想がより増幅され、先鋭化していくという現象も起こった。政治的な思想は閉鎖環境において先鋭化していき、特定の集団への差別であるとか偏見も増幅されていった。
 その一方で、2ちゃんねるのような匿名の場が、社会のモラルや権威に縛られない自由な言論を行える場所であるとして持て囃されることもある。実際学術的な貢献であるとか、捏造の指摘、匿名による企業や団体などの不正の告発の場となるなど、そういった意味では社会的貢献もなされているという肯定的意見も存在した。

政治的な匿名の意味合い


 ここまで主に2ちゃんねるを中心として、インターネットにおける匿名掲示板の歴史を述べてきた。現代においては、匿名の場というのは、掲示板に限定されず、TwitterのようなSNSも登場して久しい。インターネットが広く普及した現在において、匿名というのは、もはや一部の特殊な人間だけが利用する特別な環境ではなく、人々が日常的に利用する言論の手段として根付いたと言える。その結果、至るところで匿名という場における性質、例えばエコーチェンバー現象による思想の先鋭化であるとか無責任な投稿、デマ、誹謗中傷と言った問題が顕在化し、昨今もニュースにおいて、インターネット上の匿名者をより簡易に特定するといった法制度が議論された事は記憶に新しい。
 無論行き過ぎた匿名の言論は取り締まられて然るべきだとは筆者も思うが、はたしてそういった倫理的、道徳的な視点から匿名の場そのものを規制するということは、正しいことなのだろうか?

 昨今の世の中において社会はより道徳的、倫理的な正しさが求められるようになっている。この事は概ね正しい行為なのだが、しばしばそれが行き過ぎることもある。建前が優先されるあまり、人々が言うべき本音を覆い隠さざるを得ない世の中というのは、果たして健全なのだろうか。無論、中傷的、差別的な行為言動が良いと言うのではない。しかし、道徳的な優位性というのは、ある種理想論を言ったもの勝ちであるという面も否めないだろう。究極的な理想論のみが正しい発言として優位性を担保され、現実的な視点においての発言までもが遮られてしまうというのは、果たして本当に正しい事なのだろうか。筆者が懸念しているのは、やがてはこのような道徳的な建前による「発言の制限」を利用し、強権的、全体主義的な社会を標榜する存在が出現しかねないという点である。

 匿名という場は、社会的なモラルに縛られない場である。そのため自由な言論が担保され、人々は本音を言うことが出来る。もっとも、その本音が必ずしも正しいとは限らないのだが、自由主義的な視点からすると、民主主義における言論の自由が保証されるためには、絶対的な内心の自由と、その内心を、正しくないとしても言うだけならば自由であるという事による多様性のある言論と、その自由が担保されているあらゆるものに影響されない場は存在するべきであると、筆者は考える。


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2020年07月04日

【コロナとインターネット】アフターコロナの世界とインターネット論 ~現実のデジタル化とバーチャル世界~

コロナウイルスの現在 インターネットとはどのような歩みを迎えるか?

 
 今年の春先に猛威をふるい、今まさに第二波が訪れようとしている世界中でのコロナウイルスの猛威。人と人とが直接的な対面を避けざるを得なくなった世の中で、今まさにあらゆる場面での電子化が否応なしに推し進められている状況下にある。世界は遅かれ早かれやがて電子化の一途を辿るであろうという予測こそ昔からなされていたが、まさかウイルスの猛威によって半ば強制的に行われるとは、筆者ももちろん予測など出来なかったし、世界中の人々にとってもおそらくそうであろう。本記事では、ひょっとすれば、人類がこの先しばらくの間付き合わざるをえないかもしれないコロナ、ひいてはまだ見ぬ未知のウイルス全体の脅威とインターネットとの関係とについて考察してみたい。

コロナが与えた衝撃と日常の電子化


 コロナウイルスの何が大問題なのかと言えば、言うまでもないことであるが、人と人との直接的な接触が制限されてしまったことにある。未だ社会や経済というものは人と人との接触によって成り立つものであるし、その根幹が絶たれてしまっては、川の水がせき止められて、水が流れなくなってしまったような状態に近い。自然現象として、コロナウイルスの感染とは、人間社会を破壊するだけの強烈な深刻さを持つのである。
 コロナウイルスの流行に伴って、日常、不必要であると考えられた接触は避けられるようになった。仕事もそうであるし、娯楽や街を歩くということにまで、それは及んだ。そして、代替策として重要視されたのが、インターネットという手段を用いた遠隔化、電子化である。例えば仕事の場であれば在宅のテレワークによって会社に行かないという形で仕事を行うという企業も多く現れたし、テレビ番組の収録にあたっても、スクリーンに出演者が映し出される遠隔的な番組の形式も、もはや日常の一部として私達は見慣れつつあるのではないだろうか。そしてインターネットという場においても、多くのサービスなどが、「お家で過ごそう」のスローガンのもと、少しでも在宅にて楽しめるようなコンテンツ提供を行った。いわゆる遠隔的、電子的な在宅化した日常が、コロナウイルスによってもたらされたのである。それは良くも悪くも、人々に新たな試みを挑戦させる事となった。あるいはこの経験から、日常生活のミニマリズム化、そもそもコロナ以前から不必要であると思われていた接触が、今一度見直され、インターネットという手段による代替が大規模に行われたのではないか。
 日常の電子化という現象は、前述の通りこれから先、技術発展とともにゆるやかに進んでいくのではないかと以前から予測されていた。しかしコロナによってそれが大幅に、無理矢理に促進されることになったのは、誰も予想し得なかったことであろう。

すでに可能であった日常の電子化の可能性


 あるいは、すでに技術的水準としては、ある程度の日常の電子化、インターネット化が可能であったということを筆者を含めた人々が気付かされたという体験でもあったと思う。重要なのは、以前から可能でありながら、保守的な観点から、そもそもの必要性、利益性の問題から、行われていなかっただけで、あくまで技術的には可能であった事である。この事は、今後人々がインターネットと付き合っていくに当たって重要な経験であったのではないか。以前筆者は別記事にてインターネットの発展段階とは、技術的水準によって規定され、それに伴うサービスによって利用者の意識は変化していくものであるとの持論を述べた。今回のコロナのような外的要因による強制的な意識の変化など想定していなかったということである。では、ウィズコロナと呼ばれる現在、アフターコロナと呼ばれる未来において、変化したインターネット利用者の考えはこれからのインターネットの在り方にどのような変化をあたえるのだろうか。次節ではその事を考察していきたい。

アフターコロナにおけるインターネット


 人類がコロナウイルスを克服するには、ワクチンの開発を待たねばならないだろう。その間のウィズコロナの時代において、人類が経験したインターネットとの付き合い方は今後のインターネットにどのような影響を与えるのか。
 インターネットによって代替可能であり、かつ利益性という側面から許容できる範囲のインターネット利用は、ますます促進するであろう。テレワークによって、もちろん全ての仕事が代替可能であるというわけではないだろうが、一部においては可能であったという経験は、企業の意識にも大きな変化を及ぼすだろう。
 その結果、一部の仕事はテレワークに代替され、その結果、今までになかった規模でインターネットの利用価値というものが変化する。変化すればそれに伴って関連技術への投資や発展も見込まれるであろう。インターネットという場の利用価値、価値観が大いに変化することになる。具体的に言えば、今後生活の中でインターネットというものが占める比率はますます上昇するだろう。その事が意味するのは、インターネットというものが、もう一つの現実の場として扱われ、可能な交流はそこで行われるという意識が、ますます高まるということである。その結果起こる事とは、いささか作者の空想を書くならば、インターネットが現実の延長からもう一つの現実としてのインターネットへのパラダイムシフトが始まろうとしているという事である。

もう一つの現実としてのインターネット、そしてヴァーチャル


 もう一つの現実としてのインターネット・・・なんだか突然壮大な言葉を書いてしまったようだが、これは実際可能性として十分に考えられることである。つまり、インターネットという場が、それそのものとして一つの現実という場を担保するという事であり、インターネットという場を介して現実が行われるのではなく、インターネットで完結する事が増えていくという事でもある。仕事というものも、現実に企業が土地にビルを建ててそこで仕事を行うのではなく、インターネットを中心とした企業活動を行う。そしてヴァーチャル・リアリティという技術が、インターネットの別世界化にさらなる拍車をかける。インターネットでのコミュニケーションのより完全な形として、ヴァーチャル世界の実現が技術的に求められる様になるのである。ヴァーチャルという場において企業活動やエンタメ活動を行う試みはすでに現在行われている。そして生活の中で、インターネットの比重が高まれば、必然的にそれらの活動もより注目され、単なる物珍しい流行り事ではなく、実際的なもう一つの現実の場として、ヴァーチャル世界が注目される・・・筆者としては、この先の世界のあり方のロードマップとして、あり得る可能性であると考えている。

終わりに


 またまた筆者の空想を書き連ねてしまった感が否めない記事になってしまった。ひいてはコロナにかこつけて自分の理想を書くという、否定的に捉えられかねないような内容になってしまったが、筆者としては、あくまで予測の一つ、可能性の一つとして、これらの事を提示したいというだけなので、どうかご容赦願いたい。


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2020年07月02日

ヴァーチャルの可能性とヴァーチャリズム(Virtualism)の提唱

バーチャル至上主義、「ヴァーチャリズム」の可能性


(2020/07/10追記)わかりやすいヴァーチャリズムの定義について記事を書きました

 
 ―前回書いた【エッセイ】別世界としてのインターネットと、現実の延長としてのインターネット 【考察】の続きとして読むとよりわかりやすいかも知れません―

 ここ数年ヴァーチャル技術を活用したバーチャルユーチューバーと呼ばれるコンテンツが急速に形成された。筆者はあいにくバーチャルユーチューバーというコンテンツそのものにはあまり詳しくはないのだが、ヴァーチャルという概念そのものの可能性に大いに期待を寄せる確かなきっかけになった。VRやAR技術による世界のあり方の変革の可能性については、様々な方々が提唱しているが、筆者はヴァーチャリズム(ヴァーチャル主義)とでも呼称されるような、よりドラスティックなVR革命の可能性について考えたいと思う。
 全く新しい現実の可能性、ヴァーチャル・リアリティ(VR)技術の発展は、やがて人類社会の存在そのものすら揺らがしかねない可能性を秘めているように、筆者は空想してならない。というのも、ヴァーチャルとITの技術発展が進めば、既存の世界の在り方そのものをアップデートさせる事が、現段階の予測として可能であるという点にある。ゲーム的に言えば、技術のテクノロジーツリーのある種最終地点に位置するのが、人工知能とヴァーチャル技術であるということであり、世界は最終的に人工知能とヴァーチャル技術によって完成する。ヴァーチャルという新しい世界の生成は、現在をして様々な応用や活用に発展し、さらに一定の技術的水準に達すれば、全く新たな、もう一つの現実としていくつものヴァーチャル世界が現実世界と並列し、そしてひいては現実そのもののヴァーチャル化、ヴァーチャルの「現実」化が進められるのではないかと筆者は期待を寄せている。

バーチャリズム/ヴァーチャリズムとはなにか


 今日のインターネットは、多くの人々にとって現実の延長として使用されている。今日においては、現実が主人であり、インターネットとはそれに従属する延長であり、現時点のヴァーチャルもまた然りである。しかしヴァーチャル技術の進歩によって現実がヴァーチャルに取って代わり、人々の生活の主たる場がヴァーチャル世界になる。ヴァーチャルに存在するものは現実から独立した存在であり、現実というものは想定されないヴァーチャル存在それ自体の独立… そんな可能性をある種の思想的に、筆者はヴァーチャリズムと定義して考えている。
 ヴァーチャル世界というものは、現実の物理世界以上に可変性に富み、いくらでもなりたい姿の自分になることが出来るし、(現実を前提とした言い方になるが)非現実的な世界にいくらでも飛び込むことが出来る。例えば今日におけるバーチャルユーチューバーというものは、どうしても現実を起点に、いわゆる「中の人」というものが想定されてしまうと聞くが、ヴァーチャルがヴァーチャル世界として存在し、ヴァーチャル世界に存在している状態において、現実というものが一切想定されない、思想的にヴァーチャリズムの実践された世界とはそのような世界であるとも言えるであろう。現実は相対的にあくまでただの一つの世界となり、複数のヴァーチャル世界をも含めた中の一つになる。そんな世界観が、ヴァーチャル技術の進歩とともに実践可能となる世界の可能性を提示したい。

現実そのもののヴァーチャライズド


 ヴァーチャリズムを徹底するためには、ヴァーチャル世界が技術的進歩によって確固たる世界として確立すると同時に、現実そのものもヴァーチャル化されなければならない。これはAR(オーグメンテッド・リアリティ)に分類される技術の発展とも言えるかもしれない。これは何故かといえば、現実として存在する物質世界のヴァーチャル化を徹底的に行わなければ、依然としてあくまで現実を中心とした周辺的なヴァーチャル世界の形成といった段階に留まってしまうからである。現実というものを全く前提にしないヴァーチャル世界の独立というヴァーチャリズムの観点からは、これは容認しがたいことである。
 では現実のヴァーチャル化とは何であろうか。現在をして、現実の物質的なものに価値基準を根ざさない仮想通貨の登場や、インターネットを通じたテレワークの実施などが挙げれられるが、注意しておかなければならないのは、これは厳密に言えばこれは現実のデジタル化であり、ヴァーチャル化とは微妙に異なる点である。両者は何が異なるのか。デジタル化というのは、現実を様々なIT技術によって置き換え、現実をインターネット化させる試みであるがあくまでそこには現実の主体的現実性とでも言えばよいのだろうか、インターネット上に新たな世界が出来たとしても、あくまで現実という世界がプライマリーである状態であるであろう。ヴァーチャル化というのは、デジタル化を前提に踏まえた上でより進歩して、まず思想的にヴァーチャルという技術と概念を前面に押し出すことを念頭に置いて、ヴァーチャルそのものが少なくとも現実と同等の世界であるという価値基準を明確に浸透させることによって、人間社会を変革する試みである。
 これは現時点ではより空想的なものになるであろうが、技術的進歩によるヴァーチャル世界の確立とともに、資本主義的社会は撤廃されなければならない。これは、貨幣価値を基準にした社会が現実として存在する限り、ヴァーチャル世界が真に現実から独立することは出来ないからである。社会に貨幣経済を基軸とした体制が残る限り、現実主義的な実利主義、物質主義的な価値観は資本主義によって担保され、社会が物質主義的である以上、非物質的なヴァーチャル空間は前述の通り現実に従属した周縁的存在に留まらざるを得ず、言い換えれば資本主義的価値観そのものが、ヴァーチャリズムにとっては障害となるからである。
 現時点でそれが実現する可能性は、人工知能の発展にともなう労働力の代替、いわば第四次産業革命と呼ばれる現象のさらなる進歩に他ならないであろう。人工知能が現実的な場面における人間の役割を代替し、それに伴い、現実そのもののあらゆる場面が本質的な意味でヴァーチャル化される事が可能となる、つまりヴァーチャルを基軸とした社会体制の構築であり、ヴァーチャルが現実を従がえる段階にまで達して始めて、現実を前提としないヴァーチャルそれ自体の独立というヴァーチャリズムの理想は完遂されるのである。

来たる人工知能社会とヴァーチャル革命


 技術的発展を概観すれば、人工知能は遅かれ早かれ、少なくとも「人間と同程度の能力」を有するまでに進歩すると予測できる。それに伴い、利益性という壁もあるだろうが、少なくとも殆どの産業において労働力は人間から人工知能へと代替される事が予測される。そうなれば人類の大半は失業者となり、必然的に現段階のような資本主義社会というものは見直されざるを得なくなるであろう。では、その後の世界はどのようなものになるのだろうか。人類は労働から開放され、自由な生活を送ることが出来るのだろうか。その後の世界の予測は、悲観的なものから楽観的なものまで様々なものがあるが、なんにせよ、その後の世界がユートピアとなるためには、従来の価値基準を覆すに足るだけの確固たる思想が用意されていなければならないと筆者は考える。それがヴァーチャリズムである。
 ヴァーチャルを主体とした新たな世界において、人類は自らの生まれつきの制限からすべて開放される。人工知能が進歩すれば自動翻訳の実用化とともに言語の壁は無くなるであろうし、肌の色や身分に縛られることもなくなる。万人が思い描く理想の自分としていくらでも変化可能な形態として振る舞うことが出来るのである。また住む場所にも固定されない。ヴァーチャル世界の中で、人々はいくらでもどこにでも、物理的制約を超えて存在することが出来るからである。ヴァーチャリズムが実現した世界であれば、貧富の差というものは存在しなくなり、自由な人生を謳歌する事ができる。この時点で人々が行うべき唯一の仕事は、ヴァーチャル世界のさらなる改善と、拡張・発展のみである。

現時点でのヴァーチャリズムの実践


 現段階の世界においては、ここで語ったヴァーチャリズムを支える柱であるヴァーチャル技術にしても人工知能にしても、まだまだ未成熟な段階であることは否めない。しかしながら、現時点で行えるヴァーチャリズムの実践として、ヴァーチャルはヴァーチャルであり、現実とは異なる世界であるという思想的な捉え方は、可能であろう。例えばヴァーチャル存在はヴァーチャルであるとして、現実に繋がる要素を徹底的に拒否する事は、ヴァーチャリズムにおいては思想として許容されるのである。ただ、その事は現時点の世界では、単なる現実逃避でしかないという意見が多数を占めるであろうが、ヴァーチャリズムの立場においては、繰り返し述べるが、ヴァーチャルにおいて現実を想定しないという事が重要なのである。

終わりに


思いっきり妄想をぶちまけて書いてしまって申し訳ない限りである。この記事の大問題は、技術的発展とか述べているが、筆者そのものがその手の分野の実際の技術についてド素人であることである。そのため具体的な内容に欠け、妄想的記事になってしまった事は大きな反省点である。思いっきり、昨今のVRブームに触発されてつらつらと重ねていた妄想を、深夜テンションで書きあげてぶちまけてしまったものである。
しかしながら、ヴァーチャルというものを技術的視点のみならず、思想化し、今後の世界の展望として掲げる事は、一定の価値を持つと考える。(反省していない)


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【インターネットの発展段階史】別世界としてのインターネットと、現実の延長としてのインターネット 【考察】

インターネット発展段階論、別世界から現実の延長、そしてこれから。
 
 近年、インターネットというものの在り方も随分と変化したように思える。かつてインターネット上の掲示板などに代表される場所では、独自の世界観や文化が形成され、インターネット世界というさながら現実と隔絶したもう一つの世界が展開されていた。ところが、インターネット利用者の増加に伴い、インターネットはSNSといった現実の生活ありきのコミュニティが形成された事によって、インターネットは現実の延長としての場としての色を強め、かつての別世界としてのインターネットという側面は薄れてしまったように思える。しかしこの記事で筆者は決してインターネットの懐古や、利用者の選民主義的思想を展開したいのではない。むしろ、インターネットの利用者層の思想というものは、インターネットの発展段階にそれほどの影響を及ぼしていないのではないかと考えている。それについての細かい解説も含めながら、この記事ではインターネットの歴史におけるその在り方の変革についてと、そしてインターネットの今後についての一考察を述べていきたい。


●別世界としてのインターネット

 黎明期から初期のインターネットにおいては、チャットコミュニティや匿名掲示板などの役割が大きかったと言える。このような場所においては、現実と隔絶した振る舞いが許容され、現実ありきではなく、インターネットという場を前提にしたコミュニケーション、つまり、別世界としてとしてのインターネットが展開されていた。この事は、この時期におけるメディアなどで描かれるインターネット像にも如実に現れている。例えば代表的なものとしては「デジモンワールドシリーズ」や「流星のロックマンシリーズ」、ややマイナーなところで言えば「serial experiments lain」などの世界観に象徴されるであろう。これらのゲームやアニメにおいては、現実とは別に電子世界という場が形成されている世界観が展開されており、いわば当時をして著しい発展を遂げていたインターネットの未来像として想像されたものであろう。また別世界としてのインターネットの実践の場としてはMMOゲームのようなコンテンツが挙げられる。このようなゲーム内では、独自に形成されたゲーム世界において現実に置いては顔も知らない人々とコミュニケーションを取ることができ、中には現実の生活よりもゲーム中の世界を優先してしまうような、いわゆる「MMO廃人」のような存在が社会問題化したことも一昔前のニュースとして記憶にあるのではないだろうか。


●現実の延長として変化したインターネットとその基盤

 別世界として存在するインターネットから、あくまで現実の延長線上としてのインターネットへと変貌して行ったのは、2010年代におけるスマートフォンとSNSの普及が起点だろう。特にスマートフォンのような、高性能なカメラと処理能力を備えた機器と、その通信を支えうる高速度回線がインフラとして整備された事は、インターネットの現実の延長化に拍車をかけたように考えられる。というのも、スマートフォン以前のインターネットにおいて、インターネットという存在が別世界性を保っていたのは、現実とのリアルタイム性に対しての技術的制約が要因だったように思えるからである。例えば、現実になにか出来事があったとしても、それを分かりやすく報告するために高画質な写真や動画などをアップロードするには、それなりの時間と手間がかかるために、インターネット上においてはブログのような文字主体の形式による報告が主であった。つまり、インターネットという存在の役割として、現実の出来事の報告という行為そのものが技術的制約のために不向きであったとも言える。しかしスマートフォンという機器が存在し得る技術的水準に達した時、インターネットは多くの人に現実の出来事を報告し、共有するのにうってつけの存在となった。SNSなどのコミュニケーションサービスが普及した事は、現在をもってして考えると、インターネットが一定の技術的水準を満たしたがために起こった現象なのではないだろうか。
 結論として言えば、インターネットという存在が別世界から現実の延長として扱われるようになったのは、技術的な一定の水準を満たした為に起こった自然な出来事であるように思われる。言い換えれば、インターネットの在り方というものは、その時期に多数を占めるインターネット利用者の気質などに影響されたのではなく、つねに技術的な制約のために規定されていたのではないだろうかということである。


●技術的進歩とインターネットの今後

 では、今後のインターネットはどのように変容していくのだろうか。今後のインターネット関連の技術進歩のロードマップとして比較的容易に予測し得る技術分野は、ますますのコンピュータ機器の高性能化、また5G に代表される回線の高速化、そしてヴァーチャル・リアリティ技術の進歩である。筆者は特に最後のヴァーチャル・リアリティ技術の進歩に注目している。現在の技術的水準では、残念ながらまだまだヴァーチャル技術は取り扱い難いものである。しかし今後、コンピュータ機器の高性能化と小型化、そしてさらに回線の高速化が伴えば、新たな段階としてヴァーチャル技術の一般化という事が予測される。そのとき、インターネットはどのような世界になるのだろうか。
 筆者の考えでは、再びインターネットの別世界化が起こるのではないかと予測している。付け加えて言えば現実の延長としてのインターネットは今後もはや廃れることはなく、別世界的インターネットの顕在化と並列していくだろう。ヴァーチャル技術と一口に言っても、現実の延長としてのARと、ヴァーチャルな世界を形作るVR技術とに大別される。このうち、VR分野については、昨今VR元年と銘打たれたVRゲームブームやVR技術を使用したコンテンツ、バーチャルユーチューバーなどが話題になったことは記憶に新しい。しかしながら、現段階でのVR技術とは、やはり過渡期であり、VR元年として銘打たれたVRゲーム群はやや時代が早すぎたと言わざるを得ない点もある。しかし技術的な水準が一定のラインに達すれば、自ずとヴァーチャルによる非現実の世界の形成が成されるのではないだろうか。VR技術には世界の在り方そのものを変えうるだけのポテンシャルを秘めている、というのは筆者の期待の部分も大きいかも知れないが、現時点でもインターネット上に展開されるVRヘッドセットを利用したヴァーチャルチャット「VRChat」というシステムも存在することを考えれば、コミュニケーション手段としてのヴァーチャル化というものが一定程度進行し、そこではさながら別世界としての、かつてのアニメやゲームに描かれたような電子世界が形成されうる事を筆者は予測している。


●最後に

記事の全体として、やはりやや別世界としてのインターネットやヴァーチャル技術に期待を寄せる筆者の立場が現れてしまった感が自身でも否めないが、もしここまで筆者の一考察と妄想に付き合ってくださった方がいれば、心からの感謝を述べたい。


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voiceofdrone at 02:23|PermalinkComments(0)