アニメ

2020年07月14日

「萌え」の構造 ~「萌え」の対象物と感情内容~

萌えとはなにか?「萌え」感情の構造論


「萌え」とは俗語として現代に生まれた感情の表現方法である。
 Wikipediaの「萌え」の記事の定義を見る限り、
「対象物に対する”狭くて深い”好意」という意味を含み、それよりは浅くて同種の感情を表す「好き」という言葉を使うのにふさわしくない場合に用いられる。
とある。

 筆者が考える限り、上記の定義に則るならば、「萌え」とは、「かわいい」や「好き」と言った感情よりはより具体性を伴った、類型性が見いだせる感情であると考える。
 この記事では「萌え」を構造的に分析し、一定程度の定義付けを行うことを目指したい。


対象物:「キャラクター」に対する愛情としての「萌え」


 日を追う毎にますます広い対象物に用いられるようになった「萌え」という言葉に対して、筆者なりに考えたのは、「萌え」という言葉が用いられる対象は、何らかの「キャラクター性」を伴っているという事である。
 ここで、この記事における「キャラクター性」とは何かを定義しておかなければならない。「キャラクター性」とは、擬人化、デフォルメ化、アイドル化によって見いだされた「主観的(に見いだされる)人格像」であり、「客観的非実在人格像」とも言える。

 ここで「萌え」という言葉が使われる対象についてまとめてみる。一つに、アニメまたはゲーム等の創作物に対するキャラクターという「仮想的人格」である。これは分かりやすいであろう。つまり創作物の「主観的人格像」を対象としており、「キャラクター」が包括する要素に対して「萌え」という言葉が使われる。
 第二に、実在する人物、例えばアイドルなどに代表されるのだが、そういった存在に対しても、「萌え」という言葉が使われる事がある。実在する人物の「キャラクター性」とは、「客観的非実在人格像」である。いわば「半仮想的人格」である。つまり客観的に見れば、アイドルというのは、一種の「キャラクター」であり、一応断っておくならば、もちろんアイドルファンはアイドルの「キャラクター」を超えて、いわゆる「素の人格」をも愛する事はあるのだが、全体として総括すればそこには一定の客観的な被造的、仮想的人格である「キャラクター性」が含まれているのである。
 第三に、無機物に対する「○○萌え」という用法が挙げられる。代表的な例を上げるならば「工場萌え」である。これは一定程度の対象の擬人化と対象そのものが持つ本来的な特徴とが入り混じった形の「キャラクター性」であると考えられる。対象の持つ「機能美」と「主観的人格像」が入り混じった好意であるとして捉えると分かりやすいかも知れない。

 つまりそうした「キャラクター性」を帯びた存在に対して使われる感情の表現が「萌え」なのではないかということである。付け加えるならば、「萌え」という言葉を使う側も、一定程度の認識の上でその「キャラクター性」の仮想性、「主観的人格像」性を認めており、実在する人物のそのままの人格にたいして用いる好意である「好き」とか「愛」という感情とは、また違った形の感情であることを認めた上での表現が「萌え」だということである。

 さらに言えば、「萌え」の対象である「キャラクター性」とは一定程度「デフォルメ化」されている、という点も挙げられる。デフォルメとは、意図的にある部分が誇張、強調化、または簡略化する手法であるが、多くの場合、「キャラクター」とは何らかのテーマ性を持って、強調される部分と簡略化される部分がある。
 本来「人間の人格」とは、様々な相反する要素が並立し、時には矛盾すら見られる形で構成される複雑で分かりにくいものであるが「キャラクター」の場合は、その人格に一定程度の主題性をもたせ、強調すべき所を強調し、はっきりと分かりやすいものにするということがある。そういったデフォルメされた「キャラクター性」に対する感情表現に特有なのが「萌え」なのではないかという事である。

感情内容:疑似恋愛あるいは理想主義の体現


 さて、「萌え」という言葉が使われる対象についてまとめたところで、次は「萌え」という言葉に含まれる感情について考える。これは前述の対象物のように類型化することは難しい。「かわいい」とか「好き(likeである場合もあるが概してlove)」とかあるいは純粋な好意といった感情が様々に入り混じった感情であるからである。

 あえて特徴づけるとすれば、多くの場合対象物に対する「疑似恋愛(疑似関係)性」という特徴がある。つまり、「主観的人格」を認めた相手を恋愛または自己との関係対象に見立てて、「キャラクター性」故に無差別に振りまかれる好意を受け取って自身と対象を結びつける。つまり自分と対象物を何らかの形(純粋な好意関係、恋愛感情、あるいはエロティシズム)で結びつける、あるいは結びつけたいという感情を前提として、かつその行為を「愛している」というような直球の表現を避ける奥ゆかしさが含まれた言葉として「萌える」という表現が使われるのではないか、という事である。

 もしくは、対象物に対する理想主義的な憧れをも指すのではないか。「キャラクター」は「デフォルメ化」された人格として振る舞う。それは「デフォルメ」によってテーマ付けられた人格的一貫性による、普通の人間には見出すことの出来ない、あるいは見出すことが難しい理想的人格像、「理想の体現」、「憧れ」を感じさせるものであり、対象が非実在性を伴った「キャラクター性」を帯びている事によって成立する、理想主義に基づく崇敬感情なのではないかという事である。言い換えると、「デフォルメされたキャラクター性」とは人間の人格に求める理想主義の体現と言え、それに対する「非実在だからこその理想の体現」に対して、単なる「好き」や「愛する」を超えた「萌え」なのではないかという事である。



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2020年07月10日

【私的アニメ論】日常系アニメはなぜ需要が高いのか ~「一過性の体験の共有」としてのコンテンツ論と日常系~

安定した需要のある日常系アニメ。アニメというコンテンツの構造からその需要を解明する。


 日常系アニメ。その作品世界での日常に流れる空気を描いている作風から「空気系」と呼ばれることもある。
 日常系アニメを定義づけたり、体系立てて、その中から類型論的なものを考えることは難しい。それほど日常系アニメというものは多様で様々だからである。例えば同じ高校生活を描くとしても、高校生活の三年間を時間の流れとともに描く作品もあれば、いわゆる「サザエさん時空」的に卒業や進級が想定されない、もしくは進級というイベントはあっても卒業はしないと言ったストーリーのものまで様々だからである。
 あえて昨今の日常系アニメの定義を定義付けると、Wikipediaの「空気系」というページからの引用になるが、「若い女の子たちのまったりとした日常を延々と描くタイプの作品」となる。若干曖昧にすぎるが、多種多様な「日常系」を総括しようと思えばこうもならざるを得ないだろう。
 さて、少々前置きが長くなったが、この記事では「日常系」というアニメが何故人気を博し、今日においてもクールごとに安定していくつかの「日常系」アニメが放映され続けているのか、コンテンツ論的な視点からの需要の理由について考察してみたい。



体験の共有ツールとしての「メディアコンテンツ論」


 昨今のコンテンツの大量生産大量消費とも言える、「コンテンツが消費」される社会においては、何もアニメに限ったことではないのだが、情報化社会によってますます、放映される映像・音楽などのメディアコンテンツは視聴者の間で一定期間の感想と体験を共有する「ツール」としての役割が色濃くなってきたと言えるであろう。
 特に深夜アニメにはこの傾向が強い。それは、いわゆる「オタク」という視聴者層がインターネットの利用率が特に高く、特に匿名掲示板上やSNS上などで見られる実況文化とはまさに「体験の共有」に他ならず、さらに言えばそのために「消費型コンテンツ」に対する需要が高いからだと言えるだろう。
 一応断っておくと、「消費」と言っても文字通りに「消費」され「忘れさられる」という意味ではなく、「一定期間における体験を共有するコミュニケーションツール」として「使い果たされる」という意味が強い。それでもいささか否定的な言い方となってしまうが、筆者は何もそれを憂いているわけではないし、批判しているわけではない。
 むしろこの情報が洪水のように溢れる時代において、放映されるワンクールごとの映像コンテンツがそのような傾向を取らざるを得ないのは、いくら多数の視聴者がいるとは言え一人の視聴者の目は二つしか無く、脳は一つしかないのだから、一度に同時に摂取できる「コンテンツのカロリー」とも言えるものは制限されざるを得ないし、特に昨今におけるアニメ業界のまさに「コンテンツの洪水と飽和」状態において供給側が利益性を担保しつつコンテンツを制作し供給するということは、「コンテンツの消費による一過性の体験の共有の提供」という視聴者にとっての日常の一部として、いわばなるだけ摂取カロリーの少ない形をとらざるを得なく、供給側がそうであるのだから消費する側においても必然的にそうならざるを得ないとも言える。
 付け加えるならば、一般的に映像コンテンツのジャンルとは「共有される体験」の種類によって規定されるともとれる。
 では、「日常系アニメ」の場合にはどのような「体験の共有」がなされるかと言えば、まさに「若い女の子たちの日常風景」という体験を視聴者はまず「作中キャラクター」と共有し、そして実況という同期的なインターネット上での視聴者同士の体験の共有を持って、視聴者は満足するという構図があると言える。注目すべきなのは、「作中キャラクターとの体験の共有」が「日常系アニメ」は日常であるがゆえにその傾向が色濃く、さらに日常という波風の立たない「摂取カロリーの少ない」ジャンルだからこそコンテンツを享受する視聴者からの需要が高いとも言えるであろう。

実利主義的社会におけるただの日常という非実利性の重要性

 さて、前節ではいささか斜に構えたコンテンツ論を展開してしまったが、繰り返し断っておくが筆者はそのことによって視聴者および供給側の在り方を否定するつもりはないとはっきり言っておく。これは情報化社会という社会背景に規定された必然的な現象であるからだ。だがしかし、「社会背景を踏まえた供給側の事情による消費的コンテンツ」に対して、これはやや矛盾したように聞こえるかも知れないが、「オタク」という視聴者層は、「消費型コンテンツ」を受け入れて求めつつ、ただやはりどこか「コンテンツを消費し続ける」事に疲れを感じるような視聴者も多いのではないだろうか。
 それを踏まえて、「日常系」の需要が高い理由を論じると、この「コンテンツの洪水」社会における実利主義的な色が濃いコンテンツそのものの在り方に対して疲れ切った視聴者にとって、「日常系」において展開される「ただ流れるほのぼのとした日常」という非実利的なジャンルが受け入れられたと捉えられるのではないだろうか。
 さらに言えば、一定のテーマとストーリー性を持った、「ヘビーカロリー」な作品に対して、いわば箸休め的な意味合いで、日常系アニメは発明され、その普遍性ゆえに今日においても安定した需要があり続けるのだと、筆者は考察する。
 若干蛇足になるかも知れないが、この論理に基づけば、いわゆる「日常系アニメ」における「突然のシリアス展開」が多くの場合否定的に取られる理由も説明がつく。何故ならば、「シリアス」という展開によって箸休め的コンテンツである「日常系」を見ていた視聴者は予期せぬ「ヘビーカロリー」を摂取することとなり、そこに需要との食い違いが発生するからと考察できる。


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2020年07月09日

【涼宮ハルヒの憂鬱】あえて言おう、エンドレスエイト「肯定論」を

「キョンくんでんわー」、「なにか、おかしい」


もくじ
●リアルタイムの視聴者の「エンドレスエイト」への戦慄
●エンドレスエイトの評価
●筆者による「エンドレスエイト」肯定論
●終わりに


 あまりにも有名で、ライトノベルとしても、2000年代のアニメとしても代表的で社会現象をも引き起こした作品「涼宮ハルヒの憂鬱」。2006年に一期アニメが放送され、話をあえて繋がらないようにシャッフルするという実験的な試みもなされたものの、それも試みとしては概ね肯定的に受け止められ、かなりの意欲的な実験作であり不朽の名作「涼宮ハルヒの憂鬱」は社会にその名を轟かせた。
 さて、問題はここからである。2009年に放送された「涼宮ハルヒの憂鬱」第二期において、原作において、夏休み最後の二週間が何度も何度もループするという「エンドレスエイト」と呼ばれるストーリーがアニメ化されるにおいて、作中のループ世界を再現する形で、なんとほぼ同様の内容にて、何度も何度も同じストーリーが繰り返されたのである。その回数実に8話。おそらくは、「エンドレスエイト」の「エイト」、終わらない8月を繰り返すという内容によるものだが、本当に「エイト」通り、8話に渡ってほぼ同じ内容のストーリーで、演出や描写こそ多少の違いはあれども、8週連続で同じ内容を放送したのである。実験ここに極まれりである。


リアルタイムの視聴者の「エンドレスエイト」への戦慄



 この試みは視聴者にとって、当然様々な議論を呼んだ。想像してほしいのは、後発で後世から8話に渡って同じ内容が放送されるという試みを知った上で、アニメを見たような筆者のような人間ではなく、まさにリアルタイムで放送中のアニメを見ていた人々の心境である。1話目は良い。「このまま終わるのか?ははーん、さてはループを再現して、次回でループから脱出する内容をやるのだな」と、そんなようにも概ね肯定的に受け取ったことだろう。
 問題は2話目でもループから脱出する事が出来なかったことである。この時点で様々な憶測を呼んだ。「あれ?この話はいつ終わるんだ?」と。この時点において、リアルタイムで、支配的だったのは「4話構成説」であった。「夏休みがループすることに気づかない1、2話、ループに気づきつつも、脱出できない3話、そして晴れて夏休みのループから脱出する4話」という構成であると予測されたのである。しかし「それにしたってやりすぎだ」という声はこの時点で散見された。
 ただ、問題は、その予想をも現実が超えてきたことである。4話目においても、ループしている事自体には気づきつつも、脱出できないで終わるという展開で放送されたのである。この時点で人々は批判を通り越して戦慄した。「一体いつになったら終わるんだ」と。そして繰り返される5話、6話・・・、そしてついに8話目にして「ループに気づき、晴れて脱出し、夏休みが終わる」という完結編が放送された。この時点で人々は感動を通り越して放心していたであろう。「ああ、夏休みが、やっと終わった」と。

エンドレスエイトの評価


 さて、この「エンドレスエイト」の試みだが、はっきりと言ってしまえば失敗であったと言わざるを得ない。肯定的な評価を寄せる人もいるが、それは「まあ、やっちゃダメなことだったけどあえて言えば」という前提に立ったものであり、ほとんどが批判的な立場をとっている。
 実際、その後のエンドレスエイト収録話のDVDの売上が、当然ではあるが落ち込んだという事実もあり、制作キャスト側からも「反省」の意を込めたような発言があったこともあって、「エンドレスエイト」は失敗であったというのが、視聴者、製作者双方からの今日における一般的な評価となるのだろう。

筆者による「エンドレスエイト」肯定論

 ただ、ここで筆者は、「涼宮ハルヒ」シリーズのファンとして、そしてリアルタイムではないとは言え「エンドレスエイト」全8回をいつだったかの一挙放送にて一晩徹夜して8話ぶっ通しで視聴した人間の一人として(何をやっているのだか)、あえて、無理をしてでも唱えたい。「エンドレスエイト」肯定論を。

●演出カタログとしての「エンドレスエイト」

 まずひとつに挙げられるのが、この「エンドレスエイト」、全8回は決して使い回しを行わず、各話ごとに演出が異なり、アフレコもキャストが各話ごとに新規収録を行った。作画監督による絵柄や演出の違いを体験して、様々な演出の映像美を楽しめる。アニメを製作者側の視点からより深く知るのにはうってつけの「修行」なのではないかというのが一つである。


●活気に溢れた話、郷愁に溢れた話、あらゆる方向から「夏休み」を体感できる

 前述の通り、「エンドレスエイト」は全ての話が完全新規収録である。演出も全く異なるから、各話ごとに雰囲気も異なる。1話目は、作中キャラクターもループに全く気が付かない話であるから、明るく活気に溢れた夏休みを体感できる。しかし、以降の作中キャラクターが夏休みループに気づき、それについて、夜の公園で話し合うシーンは、シリアスな雰囲気を帯びた物となっている。作中メンバーがバッティングセンターに行くシーンなどは、BGMの哀愁もあってか、夏休みの郷愁、たった一度の高校生活のほろ苦い思い出を浮かばせるようなシーンになっている。
 夏休みという期間が持つ、仲間と過ごす楽しさ、夏という季節が持つ切なさ、そして哀愁、ノスタルジー、そして晴れて8回目にてループから脱出して9月1日の登校日を迎えるシーンの、夏休みが終わってしまったというもの悲しさ、あらゆる面をこの「エンドレスエイト」全8回は描き出したと言える。


●サブカルチャーとしての「涼宮ハルヒ」シリーズの異色性を定義づけた「エンドレスエイト」

 「涼宮ハルヒ」シリーズは、新興文学ライトノベルの王道でもありながら、数々の伝統的SF作品を下敷きにした文学性を伴った名作であり、また極めて強い独自性を持った作品である。アニメ文化におけるサブカルチャーのある種特異点と言っても良い。そういう意味では、「涼宮ハルヒ」シリーズの異色性をはっきりと示したのがこの「エンドレスエイト」であろう。「エンドレスエイト」という実験は、良くも悪くも、既存のものとは全く異なるという衝撃を私達に与えた。
 正直言ってこのような試みを安易に肯定してもよろしくないのだが、「涼宮ハルヒ」シリーズに代表される「深夜アニメ文化」がその独自性を得るにあたって、エンドレスエイトという商業的作品を超えたアウトサイダーな現代アートともいえるような試みは、「アニメ文化」を一つの独自文化として定義づけるに当たって、一度はどこかで行われるべき必要な実験であったのではないか(それが極めて話題性の強い「涼宮ハルヒ」シリーズで行われたのは幸か不幸かだが)、というのが筆者の考えである。


●「長門有希」を理解するための「エンドレスエイト」体験
 
 登場キャラクターの大半は、8月31日深夜に一度ループすれば、デジャブ感を抜いては、以前の記憶をすべて失う。しかし、「エンドレスエイト」にて実際に繰り返された総ループ数15498回ものループの記憶を全て持ち、この膨大な時間をただ一人過ごしてきたキャラクターがいる。それが「長門有希」である。詳しいことを省くと、彼女は宇宙人である。正確に言えば、宇宙人によって作られた対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェイスである。要するに人間ではない。人間ではないがゆえに、このループによって記憶が消されることもなく、膨大な回数繰り返される夏休みをただ一人「観測」し続けたのだ。彼女は人間ではない。しかし、無機質なようでいて、作中では感情のようなものが芽生え初め、その感情によって、後の「涼宮ハルヒの消失」にて彼女がエラーを起こす原因ともなった。要するに、この15498回ものループをずっと記憶を保って体験するのは、彼女にとってもとてもつらかったのである。「涼宮ハルヒの消失」において、彼女が蓄積したエラーを爆発させた必然性のようなものが、この「エンドレスエイト」の全8話によってより強まるのではないか。
 筆者の記憶が正しければ、確か4話目だったかと思うが、主人公キョンが長門に話しかけた際、無表情な彼女らしくもない、どこか疲れ切ったような表情を見せたことがある。
 長門有希は、「涼宮ハルヒ」シリーズでもトップクラスの人気を誇る名ヒロインである。そんな彼女の感情と辛さを一緒に味わうには(結局見るのは辛いんじゃないか!)、視聴者にとってもこの「エンドレスエイト」の体験は、必要なものではなかったのか。


●「苦い体験の共有」としての「エンドレスエイト」

 アニメというのは、リアルタイム性の強いコンテンツであり、ある種オタクが互いに体験を共有し合うためのツールでもある。そのような観点から言うのであれば、私達が「エンドレスエイト」というある種苦い体験を共有し、共に体験したという意味で、アニメを愛するオタクをより強く結びつけるきっかけになったのではないかという点もある。「あの時は本当に辛かった。あれを見るのは本当に辛かった。でも今思えば・・・」という感情の共有である。「エンドレスエイト」という衝撃的体験を起点に、「エンドレスエイト」世代におけるオタクたちの共感という面における一時代が形成されたと言っても良い。

終わりに


 本音を言ってしまえば、やはり「エンドレスエイト」を肯定するのは無理がある。無理があるがゆえにあえて挑戦したくなったのだが、やはり、最後の項目になるにつれて「やっぱり辛かった」という感情を吐露してしまったことは否めない。
 しかし、「エンドレスエイト」は見る価値が全く無いか? と問われれば、それだけは、決してそうではないと筆者は声を大にして言いたい。一つのアートとして、演出のカタログとして、「長門有希」を理解する体験として、そしてオタクの苦い体験の共有を追体験する手段として、ぜひ一度は全8回のエンドレスエイトを視聴してみて欲しい。筆者も見たのだから皆さんもやってほしい。筆者も見たんだから。


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