なろう系

2020年07月05日

【なろう系小説】「なろう系」考察論 ~「チートもの」についての物語的メカニズム考察~

物語の中の「チート」とは何か?


 前回書いた【考察エッセイ】現代社会における「なろう系」異世界ファンタジー論に続き、なろう系考察第二弾である。今回考察するのはなろう系に特有のものである要素の一つ「チート」である。この記事ではあくまで、「チートもの作品は幼稚である」とか、そういった視点ではなく、「チート」そのものが物語的にどのような意味を持つのだろうか? という事を筆者の視点から考察したい。

ゲーム的な世界観における「チート」論


 なろう系ファンタジー世界において、顕著な特徴を持つのは、(もちろんすべての作品がそうというわけではないが)世界観がゲーム的であることである。
 そしてこのゲーム的世界観に置いて、中には「チートスキル」を使用することによって主人公を強化するという要素をもった作品もある。この「チート」とはなんだろうか。ゲームに詳しくない方のために一応説明すると、「チート」英語では「Cheat」、ずるとか欺くという意味であるが、ゲーム的な意味からすると「チート」とは、ゲームデータを改変することによって、簡単にレベルやステータスを上昇させるとか、シューティングゲームとかにおいてはオートエイムという自動で照準を合わせ敵や的に必中させるような、プレイヤーにとって利がある行為行動を実現させるものである。オフラインゲームにおいてはチートの使用はあくまで個人の裁量に委ねられるが、オンラインゲームにおけるチート使用は、ゲームバランスの根幹を破壊する紛れもない不正行為であり、アカウントBANに値する行為でもある。オンラインゲームにおいてチートを使用するプレイヤーを「チーター」と呼ぶこともある。チートというものに関して否定的な考えが根深いのは、こういった「チーター」の存在によるところが大きいだろう。
 またスラングとして、ゲームや創作作品内において、あまりに強いキャラクターを「チートキャラ」とか「チート級」と呼ぶような用法もある。
 いわゆる「チートもの」とは、主に二種類に分けられる。スラング的な「あまりに強い」主人公による「チート主人公」もの、あるいはなろう系ファンタジー作品に顕著な、上記のようなゲーム的要素をそっくり取り入れ、主人公が世界内において「チートスキル」を使用することができ、「チート」によって主人公を強化し、簡単に強力なキャラクターとして設定する手法である。この記事では両方についての共通点も述べるが、主に後者の、「チート」を手段として使用する、使用可能な設定の物語について重点を置く。
 一見すると、随分ずるく安易な手法であるようにも思われる。主人公の強さは「チート」によって肯定され、「チート」を駆使することによって簡単に勝負に勝つとか、あるいは資金を増やしたり、捉え方によっては物語そのものが破綻しそうな手法である。しかし、ここでいうなろう系「チート」作品とは、あえて物語的に破綻した「チート」使用によって、物語が主人公にとって肯定的に破綻すること自体を楽しむという側面もあるのではないだろうか。その事はひとまず置いておいて、次節では創作におけるチートという行為行動そのものの性質を述べる。

「チート」の使用による努力描写の省略~結果主義的側面~


 創作作品において「チート」が意味するものは何であろうか。それは徹底した前提描写の省略、いわゆる努力描写の省略、もしくは否定であり、「チート」という結果主義的な行為によって、様々な描写を「省略」する意味合いが強い。主人公の他者に対する優越は「チート」によって定義され、「チート」の前には、あらゆる正攻法は屈しざるを得ない。そんな理不尽なまでの主人公優越主義が「チート」ものの醍醐味の一つであろう。
 ではなぜ「チート」という、一見物語を破綻させ、描写の「省略」によって自ら物語を制限するような、いわば執筆活動においてはいわば「逆チート」的であるとも思われる作品が人気を得たのであろうか。
 あらゆる創作作品において、「努力描写」というものは、主人公の成長と強さを示すにあたっての説得力を出すための重要な過程である。しかし、「努力描写」というのは、えてして行われるのは、修行であるとか、練習であるとか、創作にとっては、どうしてもありがちで、単調にならざるを得ないパートでもあるのだ。実際「少年ジャンプ」のような雑誌に掲載される少年漫画においても、近年努力描写は人気がなく、漫画家は極力そういった修行に独自色を出しつつ、なるべく修行パートは短くするという。「少年ジャンプ」の三つの三原則に「友情、努力、勝利」とあるように、少年漫画において努力とは一つの重要なテーマであり、一昔前の漫画においては努力至上主義というような作品もあった。しかし近年においてその努力描写が否定されつつあるのは、何も作品として努力パートがつまらない、というだけに留まらず、努力は才能に勝てない、努力無しで結果を得たいという考えが強くなっているという点も指摘されている。
 こういった「努力」の否定の究極系が「チート」であり、「チート」とは、単調な努力描写を作品的に完全に省略しつつ、努力そのものを否定するのである。

「チート」によるバランス崩壊をも楽しむ悦楽主義


 さて、「チート」が努力主義の否定あるいは省略であり、極めて強い結果主義的な側面を持つという事を解説した上で、では読者にとって「チート系」作品をどのように楽しんでいるのだろうかという事に目を向けてみたい。
 まず挙げられるのは圧倒的な、理不尽なまでの強さを誇る「チート級主人公」による、痛快な勧善懲悪ものである。「チート級主人公」の強さによって悪はなぎ倒され、弱い存在を助けるのである。これは近年に限らず、「正義の味方」的な古典的作品にもよく見られる類型である。負けることのない「チート級主人公」という安心感、それに基づく正義の執行は、読者にとって心理的な負担を感じない痛快さを持つのである。
 一方で近年の「なろう系」作品に顕著な主人公がゲーム的に「チート」を使用する事ができる作品であるが、筆者の考えを述べさせていただくならば、これらの作品の売りは、作中世界におけるバランスの崩壊、意図的な破綻である。例えるならば、前述にオンラインゲームにおいてチートを使用することは重大な不正行為であるということを述べたが、「チート使用もの」ではそんなオンラインゲーム的な環境であえて「チート」を使用して世界のバランスそのものを破綻させる事に楽しみがあるのではないだろうか。言い換えれば、やってはいけない行為なのだが、もしもオンラインゲーム上で自分だけがチートを許されていたら・・・という感情である。
 あるいは、自ら作り上げた世界を、自ら「チート」によって破壊する作者によるマッチポンプとも言えるような行為が、作者または読者にとって悦楽主義的にウケているのではないだろうか。その世界には、貨幣があり、社会があり、独自の制限がある。しかしそんな中で「チート」を携えた主人公による既存の閉鎖的で、しばしば問題がある社会の破壊と再建という行為による痛快さ、主人公によって作中内にてリアルタイム的に世界が破壊され、作り変えられ、再構築されるという楽しみ方もあるのではないだろうか。

最後に


 なろう系考察第二弾として、この記事では創作におけるチートについて考察してみた。なるだけ既存の意見である、「チートに頼る作品の幼稚性」的な視点は省き、チートという行為行動そのものが持つ性質について考えてみた。ひとまずこれで、なろう系考察のシリーズは終わりになるだろうが、また興味深いテーマが見つかったら続きを書くかも知れない。


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【なろう系小説】現代社会における「なろう系」異世界ファンタジー論 ~「転生」の意味、現代社会からの離脱~

異世界転生というジャンルについて、社会的背景からの流行の考察


 現在、ライトノベルやアニメにおいては、「小説家になろう」サイトを舞台にして連載される「なろう系」というジャンルが人気であり、次々と書籍化、出版、映像化もされている。それらの内容には賛否あるが、流行しているという一点は否定できないことである。今回はそんな、外部から一見すると不思議な価値観すら共通している「なろう系」について、今回はとくに異世界転生ものについて、それらが何故流行したのかということについて考察したい。

異世界転生に始まる物語の共通項~現代社会からの離脱~


 なろう系における異世界ものと呼ばれるジャンルは、何らかの要因、具体的な例を上げるといわゆる「トラック衝突」というのが一つのテンプレートとなるほどに、現世において死亡し、異世界へ転生するというパターンが大きい。これを率直に受け止めるならば、現代社会の否定であり、離脱欲求であるということになる。もちろんそういった思想的背景ではなく、「なろう系」というジャンルにあたって異世界ものが多いのは、単に設定しやすい、ローファンタジーのような現実を下敷きにした物語よりも独自色が出しやすく、隅々まで自分の思うがままにできるという設定的都合もあるだろう。しかし、現世にて生存したまま異世界へ飲み込まれるとかそういったことではなく(もちろんそういった作品もあるのだが)、異世界へ転生する、転生、つまり、現世を完全に否定して、死後に迎えられる異世界へ舞台が完全に切り替わるという形式が流行したのには、一定の思想的共通項のようなものを感じずにはいられない。いずれも、現世の場面というものは冒頭の導入に過ぎず、それが死亡という強烈な形で行われるのは、今までの異世界もののように現世に「帰ってこない」事が前提であるからだろう。
 なろう系以前の古典的異世界ものというのは、現世の存在があり、異世界はあくまで夢のようなもの、いずれは夢から覚めて主人公が望むと望まざると、現世に帰ることになる。現世に帰った主人公は、異世界での経験を通じて成長している・・・というのが古典的異世界ものにおけるテンプレートなのではないか。しかし「なろう系」における異世界「転生」、転じて生を受けるという言葉通り、現実の介入する余地は少ないか存在しない。異世界そのものが主人公の活躍の場となり、主人公はあるいは初めのうちはそれに戸惑い「帰りたい」という欲求を抱きはすれども、異世界の冒険を通じて異世界に馴染む。「帰ってくる」事はほとんど想定されないのである。
 このような現世否定主義的な価値観にはなにか、単なるそういった形式を超えて異世界転生というものが当たり前になったのは、何らかの社会的背景の存在を感じずには、筆者はいられない。

「帰ってこない」異世界、現世が想定されない異世界の自由


 ここで一度、なろう系という作品群の流行ジャンルを振り返ってみたい。まず、ネトゲ系、VRMMO系作品というものがあった(今も一定数あるだろうが)。「ソードアート・オンライン」シリーズに代表され、熱狂的な人気を得たジャンルである。これらの世界では、異世界転生よりは現実的に、近未来の進化したVR装置によるヴァーチャル世界へのトリップという形で、さながら一つの異世界に旅立つかのような形の異世界ものである。ここで重要なのは、この時点では異世界へのトリップは、一時的なものであるという点である。
 そして次第に、異世界転生ものが流行り始めるのである。ネトゲ系的な、ファンタジーゲーム的な世界観は踏襲しつつも、異世界から「帰ってくること」がなくなった。現実の向こう側に理想的な異世界があるのならば、そちらに重点を置いて、「帰ってくること」を想定する必要はないということである。
 こうして振り返ってみると、まずVRMMO、ネトゲ系作品があって、次第に異世界からの帰還という要素が物語的に求められなくなっていったようにも思える。しかしまだ、作品的背景の説明にはなったが、現代の社会的背景的な考察は出来ていない。次節ではそのあたりのことを考察していく。

何かを得るということと、実利的、物質主義的な現代社会


 異世界転生ものの主人公は、ニートや引きこもり、元いじめられっこや社畜であるといったような現実からの落伍者や、現実に疲れ切っている人間であることが多い。ただこの事をそのまま、作者や読者層に適応することは安易な考えであり、間違っている。しかし、現実に対して一定の厭世観を持っているという事は共通しているのではないだろうか。なろう系の読者は様々である。中には痛烈に現実を否定したいと思う人間もいれば、単にファンタジー作品を読みたいという人間まで様々であろう。しかし問題なのは、「異世界転生」という現象が、読者の間で何ら疑問を持たれること無く、「なろう系」の普遍性として展開しているという点である。そういった社会的背景を筆者なりに考察するのであれば、やや安易な答えを出してしまえば、やはりこの現実世界での鬱屈といった経験を通じた厭世主義的な現実否定というものが考えられる。 
 現代社会という場は、日に日に競争社会化の一途をたどり、落伍者や、少しでも立ち止まってしまった人間は容赦なく置いていかれ、見放されるという構図が形成されつつある。
 そしてますます実利的、実力主義的、あるいは物質主義的であり、拝金主義的な社会が形成され、そんな中で、自己を肯定し定義づけるものを見出すことが難しい世の中に私達は生きている。そんな現世において一定の厭世観を感じるということは無理もないことなのではないだろうか。
 更に論を深めるならば、古典的異世界ものやVRMMO系ジャンルのような「帰ってくること」を前提とした作品は、帰ってくるにあたって何らかの成果、成長を得ていなければならない。しかし、異世界において得られる現実世界でも通用する価値とは一体何であろうか。異世界で何かを得たとしても、帰ってくれば物質的、実利的に価値あるものは何も残らず、ただ主人公は成長という曖昧なものだけを手に入れる。この事は現代社会においては、筆者をしても、若干物足りなさを感じるのも否めない。というかそう言った思想自体が現代社会における競争社会化、実利主義化の産物であり、そういった事を考えると泥沼化しそうであるが、重要なのは、異世界で何かを得て、異世界にてそれを得続けることが重要であるという価値観である。もっともそれは主人公の強さであるかも知れないし、仲間やヒロインなどかけがえのないものであるかもしれない。それらを捨ててまで、この実利的な実力主義社会に帰ってくる必要があるのかということでもある。
 なろう系異世界転生ものの現世否定主義について筆者の考えを概説するならば、現代社会の完全なる否定、「帰ってこない」事そのものが重要であり、異世界において自己を肯定しうるものを見つけ出し、自己を規定する。そんな価値観が共通しているのではないだろうか。

終わりに


 以上、なろう系作品の異世界転生について、それらが形成されるにあたる作品的、社会的背景を考察した。この記事では、意図的になろう系を肯定する視点に立って記事を書いてみたが、それは今日なろう系という作品群が否定的な視点で語られることも多い中、逆に、筆者なりにそれらが肯定されうるという論を立てたかったという事である。この記事ではなろう系のもう一つの要素、チート系というものについては考察していないが、それについても筆者の視点から、次回以降に論じてみたい。


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