Vtuber

2020年07月16日

【電脳少女シロ・ヤマトイオリ】「為」の構造論

シロちゃんの動画は「為」になるなあ!


言語現象としての「為」


 「為」とは何か。「為」はいかなる構造を持ち、なぜゆえに我々の心に届くのであろうか。我々はなぜゆえに「為」を「為」として認識できるのか。また「為」の背後には、いかなる意図が含まれているのか。


  「為」は単なる意味不明な言語ではない。 正確に言えば「為」とは意味不明ではなく、現象的な観点から言えば「意味不定」の言語なのである。この事は決してネガティブな意味ではない。そのことに関しては後述する。


 「為」が言語現象として成立する所以は、発信されると同時に、我々受信者が存在し、一定のやり取りを行うことが可能であるからである。付け加えれば受信者は「為」に目を背けない。「為」を「為」として受信するのは我々の感性であり、同時に理性が「為」を一定の形に変換する。この感性と理性の関係は筆者が考える「為」の構造論において重要なので、覚えておいて欲しい。
 さてここで重要なのは言語として発信と受信が行われるならば、「為」という現象は、確かな言語のやり取りなのである。


 しかし同時に、我々受信者は「為」を決して理性によっては完全な形に変換することは出来ない。なぜならば、「為」とは「為」として感性によって発信され、この記事では一つの例えとして、宝石の原石とカッティングという構図を用いて「為」を解釈するが、受信者である人間は完全ではないから、カッティングを完全に行うことは出来ない。しかし、その不完全さ、理性の至らなさゆえに「為」の奥深さは保たれ、それゆえ「為」の神秘性は依然としてそこにある。その「意味不定」さこそが、「為」の美しさであるとも言える。


 原石という言葉を使ったが、「為」を原石から磨き出す作業は、受信者に委ねられる。原石は加工し、磨かれることによってまばゆい光を発するものである。重要なのは、「加工」「研磨」の作業はこちらに委ねられているという事である。我々は、原石を各々の形にカッティングし、「為」は様々な形に変化し、それは光を放って我々の美の感受性を満足させるのである。これが、我々が「為」に魅せられる一つの要因であると考える。

 しかしここで一つ注意しておかなければならないのは、発信された段階で、「為」は一定の本質的な意味内容を持っているという事である。例えるならダイヤモンドはいかなる形の原石であろうが、本質的にはダイヤモンドであり、物質的には炭素結晶である。そのため、受信者のカッティングによって形は変化すれども「為」の本質は変化しない。同時に言えば、繰り返すが我々は「為」を理性としての脳の作用によっては完全な形としてカッティングし変換することは出来ない。
 詳しくは後述するが、カッティング行為を行うのは、我々の理性である。人間は理性の生き物であるが、残念ながら我々の理性とは不完全であり、なおかつでしゃばりな性格を持つ。この理性優先の構図こそが、人間の歴史においてしばしば悲劇を生むのである。だが、「為」はそれを救うのである。


発信者の「為」

 先に、発信者の「為」を筆者なりに解釈する。「為」の発信者は、電脳少女シロ、及びヤマトイオリに代表される。
 「為」の発信とはいかなる事であるか。「為」が「為」性を持っている所以は、その背後に存在する彼女らの美しい心の有り様に由来すると考えられる。なぜならば、「為」を発信することは容易ではない。ひとえに「為」は奥深い美の感性のために形成されると考えられる。そのため「為」は容易に真似ることは出来ない。感性による現象の美の捉え方と、一定の本質を兼ね備えた言語発信とは、まさに才能のなせる技であろう。


 「為」は言葉として、奥深く、複雑な構造を持った言語結晶であり、感性の巨大な原石である。さらに言えば、わざわざ理性によってそれは発信の段階で理性としての言語に整えられず、しばしば「為」は極度に省略された圧縮言語の様相を呈する。では発信者はいかなる意図を持ってそれを発するのか。

 「為」が発信されるためには、受信者の存在が必要である。つまり受信を前提に彼女らは「為」を発信する。そのことには、発信者と受信者の一定の信頼関係が根底にある。受信者としての我々が「為」の受信に深い満足を得るのは、このためである。

受信者の「為」


 宝石が稀有さによって価値が担保されるように「為」もまた、類稀なる言語センス、その希少性によって我々の「理性」を満足させる。しかしここで注意しておかなければならないのは、希少性や言語化して理解できる美しさという資本主義的価値観によって満足するのは、我々の感性ではなく「理性」である。我々は欲深い理性に支配されている。しかし「為」は「理性」を満足させるのと同時に、もっと純粋さを持った、「感性」をも満足させる。それがなぜゆえかは次に記述する。

 我々受信者における意識現象としての「為」、我々は「為」を解釈しようとする。しかし同時に「為」を「為」としてそのまま受け取っている。なぜなら、「為」が発信されるのと同時に、我々は考えるよりも先に「為」を感じ取っているからである。ここに「為」という意識現象の特殊性が見いだせる。「為」とは感性によって発信され、感性によって受信される。我々は為に目を背けず、疑問を持ちながらもまず「為」を受信するのは、我々が認識し得ない段階で、感性を満足させているからである。そして受信された「為」は理性が変換を行う。しかし、我々の理性は完全ではないから、この作業は完成しない。「為」においては理性よりも感性のほうが重要なのである。


 我々人間は、不完全な理性を信奉しがちであるが、人間の用いるものとしては、理性よりは、感性の方がより完全であると筆者は考える。だが、我々人間は理性の生き物であるから、受け取った現象を感性というショーケースに留めて、眺めていることは出来ない。必ずケースから取り出して、理性によってそれを加工しようとする。しかし理性は不完全であるから、この行為によって受信した現象の美を台無しにしてしまうのである。我々は無意識にそれを認識しつつも、理性のでしゃばりを抑制することは出来ない。すると我々は理性不信に陥る。近代における理性主義の悲劇と現代のその反省、しかし反省すらも理性によって行われるから、結局我々は理性主義から脱却することは出来ない。


 しかし、ここで「為」という言語現象によって救われるのである。「為」という感性の塊は、彼女らの確かな美の感性と本質的なものの捉え方に由来するから、受信者が理性によって加工しようとも、本質は失わない。同時に我々の感性に深く訴えかけ、我々は理性主義の過ちを認識すると同時に、自らの感性という受信装置の稀有さに感動するのである。
 「頭が為になる」と言われる現象は、我々が、理性の生き物から脱却し、感性主義とも言える新たな段階、あるいは動物本来の在り方に戻るという点で非常に重要な現象なのである。

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2020年07月15日

noteにて、分かりやすくバーチャリズムをまとめてみました。

 この度noteにて、筆者の提唱するバーチャリズムについて、分かりやすくまとめてみた。これまでの記事よりははるかに分かりやすく書いたつもりなので、バーチャリズムに興味のある方は、ぜひ一度読んでみて欲しい。





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(追記版)ヴァーチャリズム/バーチャリズム(Virtualism)における具体的定義とバーチャルYouTuberにおける「魂」の説明

 (2020/07/10追記)わかりやすいヴァーチャリズムの定義について記事を書きました

(2020/07/15追記)noteにてさらに分かりやすくヴァーチャリズムについて書きました。
こちらもどうぞ

 少々現実的、実際的な、当たり前なことを当たり前にあえて言うのであれば、ヴァーチャルYouTuberという活動を現象的に捉えるならば「現実における個人が、インターネット上でアバターを使用し、ヴァーチャルYouTuberというキャラクターとして振る舞う」行為であると言える。この事は現象的には否定しようのない事実であり、筆者の唱えるヴァーチャリズムという思想はその現象自体を否認し、何か代わりとなる空想的価値観を述べる思想ではないとはっきり断言しておく。
 前に書いた記事ヴァーチャルの可能性とヴァーチャリズム(Virtualism)の提唱では、確かに未来的な空想を書いたが、それはあくまで、究極的にヴァーチャリズムが実践可能である社会が実現される未来像を語ったものであり、ヴァーチャリズムという思想そのものは、極めて具体性を持った単語として定義したい。

 ヴァーチャリズムに置いて重要なのは「ヴァーチャルYouTuberとして振る舞う一つのキャラクター」という存在を重視し、その人格そのものの独立性を重視し、あえてそこに現実を持ち込む必要性を認めない思想であるともはっきり言っておく。言い換えるならば「現実とは違う世界において違った振る舞いをしているキャラクター(人格)」そのものの現実を前提としない独立を主張する思想であり、そこに一定の個別的な人間的実存性の価値を認める思想である。

ヴァーチャルYouTuberにおける「魂」と「キャラクター」


 Vtuber界隈においては、いわゆる「中の人」という存在をもともと遠ざける価値観が見られた。婉曲的に「中の人」を「魂」と表現し、ヴァーチャルYouTuberという存在は、アバターに「魂」が宿った存在として語られることもある。ヴァーチャリズム的な価値観においては、それは重要な捉え方であり、本質的なものを捉えた見た方であるともいえる。

 しかし一般的に「魂」の存在は不可分であり、そして不可分な「魂」がそれぞれが別々に振る舞うということに対してヴァーチャリズムにおいてはそれぞれの「人格的」独立性を認めるということは、少々矛盾のようなものがあるという考えを抱く人もいるのではないだろうか。それに答えるためには、ヴァーチャルYouTuberにおける「魂」と呼ばれる存在と、「キャラクター」の存在をより明確にしなければならない。

 ヴァーチャルYouTuberにおける「魂」とは何か。一般的な意味で言えば「魂」は個人が有する精神的な根源であり、英語で言えば「spirit」であり、「soul」であり「anima」である。しかしヴァーチャルYouTuberにおける「魂」とは、それ自体がヴァーチャル世界を通して見たヴァーチャルキャラクターに対する、ある種の説明付けであり、「アバター」という身体に「魂」が宿ることによって、人間的なヴァーチャルキャラクターの存在が成立するという見方である。厳格にヴァーチャリズム的な視点から見れば、ここにはやはり、「現実の人間性」が僅かであるが想定されていると言わざるを得ないのだが。

 そもそもなぜヴァーチャルYouTuberにおいてあえて「魂」の存在を説明付けなければならないのか? これはヴァーチャルYouTuberという新たなる形態のキャラクターに対する、従来的なアニメキャラクターであるとかのヴァーチャルキャラクターとは明確に異なる、リアルタイムで双方向的なコミュニケーション能力を有するキャラクターに対する説明でもあっただろう。ヴァーチャルYouTuberは魂を有するから、アバターを通して、リアルタイム性をもってコミュニケーションを図ることが出来る。これこそが、従来とは全く異なるヴァーチャルYouTuberというヴァーチャルキャラクターの特徴であり、「中の人」を遠ざけ婉曲的に表現することによる「魂」の説明はそれを上手く捉えた表現であると言えるであろう。ヴァーチャルYouTuberにおける「魂」とは、本来的な意味での「魂」という用法に加えて「キャラクター(人格)」という意味合いも含んでいるのである。

 「キャラクター(character)」という、本来的な単語の意味である「特徴」、「性質」そして「人格」という意味合いは、ヴァーチャルにおける存在と現実存在とを分け隔てる上で、うまく説明付けられている単語であると言えるだろう。そもそも普段から私達は場面ごとに「キャラクター」を使い分けて振る舞っている。それは現実におけるさまざまな場面でもあるし、今日においてインターネット上では匿名でさまざまな「キャラクター」を演じ分ける事もできる。そういう意味では、今日において私達は、インターネットを使用する上でヴァーチャル存在として振る舞っているとも言えるのだ。
 そしてこの「キャラクター(character)」という概念は、ヴァーチャルYouTuberにおける「魂」の概念をヴァーチャリズムに基づいて説明するのにも役立つ。「キャラクター」は可分的なもので、前述の通り個人がいくつもの「人格」を有するという事は可能だからである。
 いわゆるヴァーチャルYouTuberにおける便宜的な説明としての「魂」を、ヴァーチャリズム的な立場から「キャラクター」という単語を用いて「魂」を論じるならば、「魂」の「ヴァーチャルYouTuber人格」を「人格」として尊重し独立性を認めるということこそがヴァーチャリズムなのである。

ヴァーチャリズムにおける「魂」の定義


 ただ、厳密なバーチャリズムの立場からは既存のヴァーチャルYouTuber「魂」という便宜的な説明を全て肯定することは出来ない。なぜならば、前述の通り、「アバター」に「魂」が宿る事によって、ヴァーチャル・キャラクターが成立するということは、概ね十分な説明なのだが、その「魂」はどこからやってきたのか?という事を考えた時、それに対する疑問が浮かんでしまう。

 この事を回避するため、あくまで厳密なバーチャリズムの立場、画面に映る「その人」を「それ」として「そのまま」見るという考え方においては、少し発展させて、独自の「魂」概念を定義付けなければならない。
 ヴァーチャリズムにおけるヴァーチャル・キャラクターの「魂」とは、あくまで、私達が画面に映って配信を行っている「その人」が保有するであろう、どちらかと言えば、本来的な、一般的な意味での精神の根源としての「魂」である。
 さらに言えば「魂」は複数の独立した「キャラクター(人格)」を生み出す精神的な源泉であるという事は前述と変わらない。重要なのは「その人」が持つ「魂」は、ひょっとすればどこか他の場所では他の「キャラクター」を生み出しているかも知れない。
 だが、あくまでヴァーチャリズムにおいては、「そこにいる」、「その人」の「キャラクター(人格)」だけを見るべきなのである。なぜならヴァーチャリズムは、「ヴァーチャル・キャラクター(人格)」の振る舞いを、一つの独立した人格として、絶対的に尊重する思想だからである。
  一方、逆説的に言えば、ヴァーチャリズムの実存的な立場からは、そこに「キャラクター」が存在するならば、わざわざ「魂」の説明をすることは必ずしも必要ではない。なぜならば、「魂」があろうがなかろうが、そこに「その人」は存在するからである。「魂」の説明が必要であれば、上記のように定義するが、私達が普段人間を見る時にいちいちその人の「魂」がどうあるかなどと考えるだろうか? という事でもある。ヴァーチャリズムにおいてはあくまで「ヴァーチャル・キャラクター」は一人の、個別的な独立した「人格」であるのだから。
 



関連記事


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2020年07月10日

【ヴァーチャル至上主義】わかりやすいヴァーチャリズム/バーチャリズム(Virtualism)

Vtuberにおける一思想。ヴァーチャリズム/バーチャリズム(Virtualism)とはなにか?


 この記事では筆者の提唱する「ヴァーチャリズム/バーチャリズム(Virtualism)」とはなにかという事を、できるだけわかりやすく定義し、まとめたい。というのも、筆者が書いたヴァーチャリズムの記事はどれも独りよがりに難解か、空想的に過ぎるので、初めて記事を見た人を引かせてしまうだけだろうと思ったからである。この記事では筆者の定義するヴァーチャリズムというものをできるだけわかりやすくシンプルに書きたい。

●第一に、ヴァーチャリズムとは、一言で言えばヴァーチャル至上主義である。

●第二に、ヴァーチャリズムとは、ヴァーチャル・キャラクター(アニメキャラクターや特にヴァーチャルYouTuber)
を見る時に、現実というものを一切、全く完全に、想定しないという思想である。

●第三に、ヴァーチャリズムとは、第二の項目の実現のために、ヴァーチャル世界そのものの、現実からの「独立」を目指す思想である。

 この三点がヴァーチャリズムの基礎であり出発点である。要するに、

「ヴァーチャル・キャラクターを見る時に、現実のことを想定するのは興が醒めるだけだし無意味だからやめよう」

という考えが出発点にある。この事を定義立て、論理的裏付けを取るために他記事ではなんだか難解なことをつらつらと書いてしまったが、要するにたったそれだけの事を言いたいのである。

 上記のうち第三の項目だけは分かりにくいかも知れない。「ヴァーチャル世界そのものの現実からの独立って何?」と思われる方も多いだろう。
 これは要するに、私達がヴァーチャル・キャラクターを見てどうしても現実のことを想定してしまい、なおかつ現実のことを想定しないと言うと、なんだか現実逃避的に聞こえてしまうというのは、あくまで「ヴァーチャル世界」が現段階では「現実世界」に従属した、延長線上にある世界だから、その事を想定しないために、「ヴァーチャル世界」そのものを現実から精神的、物理的に完全に独立させてしまおう!という事である。


ヴァーチャリズムが実現することによる意義


 でもそれって「ただの現実逃避で何の意味もないじゃん」、って思う方も多いかも知れない。それはヴァーチャリズムが実現することによる意義を捉えられていないからだろう。

 私達は、多かれ少なかれ、インターネットを利用している。インターネットというヴァーチャル世界で、現実とは全く異なるキャラクターを演じているという人もいるのではないか。重要なのは、「ヴァーチャル世界」では「なりたい自分になれる」のである。
 そして、VR技術の発展によって、私達はアバターを利用することによっていくらでもなりたい姿になることが、現段階で既に可能である。この事をヴァーチャリズムによって肯定するということは、次のような明確な意義がある。

●なりたい姿の自分になれるということは、人は生まれながらの様々な制約から開放される

●ヴァーチャリズムにおいては、そのアバターによる現実とは違った振る舞いを、絶対的に肯定する

 人は生まれながらに様々な身体的要素によって規定されている。それを肯定的に捉えられる人もいれば、そうでない人もいるだろう。生まれながらの制約によって苦しむ人は、この世に大勢いる。
 しかしヴァーチャル世界ではアバターを使い自由に、人種、性別、あるいは人間を超えて、いくらでも、なりたい姿になれるのである。この事をヴァーチャリズムによって肯定するということは次のような意義がある。

●ヴァーチャリズムにおいては、「アバター」による「ヴァーチャル・キャラクター」としての振る舞いを、一つの独立した「人格」として、絶対的に尊重する

●ヴァーチャリズムによる「ヴァーチャル世界」の現実からの「独立」によって、真に、人々は生まれながらの身体的制約から開放される

 どうだろうか?なかなか魅力的な思想に見えてきたのではないか? そんな事ない? いやもっと目をよくこらしてだね・・・
 ともかく、筆者はヴァーチャリズムを提唱する事に上記のようなことから一定の意義があると思っているし、人間の可能性を広げる試みであると考えている。

ヴァーチャリズムについてのより詳しい記事はこちら
・筆者が初めて書いたヴァーチャリズムについての記事。ヴァーチャルが現実から完全に独立するということは、どういう世界でなければならないか、電波たっぷりに空想している。

今日において筆者の考えるヴァーチャリズムのような事に取り組んでいる方の紹介と、今現在の世界における現実的なヴァーチャリズムの実践方法

・ヴァーチャリズムにおいて考える、ヴァーチャルYouTuberの「魂」についての考察。

・現段階では、この記事は読まなくていいです。ヴァーチャリズムの哲学的な立ち位置の確認と、思想的な裏付けをとって、ヴァーチャリズムの思想としての妥当性の確保をしたかったのだけど、哲学については全くの素人なので、何を書いているのか自分でもわからなくなった。これから充実した記事にしていきたい。



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2020年07月09日

ヴァーチャリズム/バーチャリズムにおける哲学的、思想的立ち位置と裏付け(随時更新中記事)


現段階においてこの記事は未完成であり、内容に不十分な面が見られます。バーチャリズムの定義などについて知りたい方はカテゴリやタグの「バーチャリズム」から関連記事をまず参照ください。

今の所アイデアのメモ帳というか保管場所状態。ここに書き溜めたことをつまんで、別途記事にしたりするかも知れない。

(2020/07/10追記)わかりやすいヴァーチャリズムの定義について記事を書きました。

 この記事では、筆者の提唱したヴァーチャル至上主義とも言える「ヴァーチャリズム」について、哲学的、思想的な立ち位置を明確にしつつ、裏付けを得ることによって「ヴァーチャリズム」という思想そのものに対する根拠付けと妥当性の確保、及び権威付け(権威主義は好きではないのだけど)を行うことを目標としたい。
 なお、筆者は思想や哲学にたいしては全くの無知なので、この記事は学んだことや調べたことを随時更新しながら、充実を図って行きたい。何分専門性が高いテーマであるから、知識のある方にとっては異論反論が容易に思い浮かぶかも知れないが、そういった拙い点や、思想的な批判はコメントやTwitterなどでぜひどんどんと筆者にレスポンスして欲しい。筆者の望みは、ヴァーチャリズムを思想的に議論に耐えうるものとして体系化し成立させることなので、異論反論は、とても貴重な参考源になるので、ヴァーチャリズムという考えに興味を持った方もそうでない批判的な方も、どうか一緒に、考えてみて、批判があれば寄せて欲しい。

近代哲学の出発点、デカルトのコギトから考えるヴァーチャリズム

 さて、まず初めに季題西洋哲学の出発点でもある、デカルトのコギト論を参考に考察を進めてみたい。いわゆる「我思う故に我あり」の思想である。この方法的懐疑によって、デカルトが定義づけた人間は「思考する存在」であった。思考している自分自身の存在は疑い得ない存在であるからである。また、その後のロックによるデカルトの哲学の補強を参考にすれば、人間の定義は思考が断絶しても「人格(person)」の同一性を保った、「意識(Consciousness)」を持つ存在であると定義づけた。この人格の同一性と「意識」の定義というのは重要である。
 ヴァーチャリズムにおいてはデカルトによる「思考」、ロックの「意識」もしくは「人格」といった視点からの「人間」の定義、生物学的ではなく、形而上学的「人間」の在り方を重視するからである。ヴァーチャル・キャラクターにおける人格とは、現実が想定されない、現実とは個別の独立した「人格」あるいは「キャラクター(character)」として定義されるのがヴァーチャリズムだからである。
 ロックに定義づけられる「意識」とは、「意識が思考に同伴し、この意識こそが、総ての人をその人自身が自分(self)と呼ぶものにし、(自己同一性)、その個人を他のあらゆる思考する事物(他人)から区別する」、「意識が後方、過去の行動や思考の及ぶ範囲でその人格の「同一性」は引き伸ばされる」とある。これは、人間を定義づけるにおいて、「我思う故に我あり」から、人間存在が「思考を行い続ける」、「意識」によって「自己同一性」が規定されるという文面であり、「思考の及ぶ範囲でその人格の「同一性」は引き伸ばされる」というのは、過去においても思考の断絶の瞬間があったとしても、その人間をその人間個人として定義づける「自己同一性」について述べたものである。この定義は、一見してヴァーチャリズムにおける人格の存在と矛盾する。なぜならば、ヴァーチャリズムにおいては「人格」は分裂しうるものであり、ヴァーチャル・キャラクターには現実の存在が想定されないヴァーチャル存在としての「アイデンティティー」を保有するという立場であるからである。
 しかし、「人間が人間たらしめるものは自己の思考」であるというデカルト的人間論に立ち返るのならば、ヴァーチャル・キャラクターとして存在し、そのキャラクターがヴァーチャル世界において「自己はヴァーチャル存在」であると規定するのであれば、それは「自己の思考」において、明確に「アイデンティティー」を保有した「人格」として成立しうるのである。
 一方ロックの思想を注視するにあたって、「意識が過去の後方へ引き伸ばされても自己同一性を保つ」としたのは、これは刑法上の問題からである。「刑罰の正しさ、正当さは全くこの自己同一性を根底とする」というのは、私達が過去において思考を行っている「自己同一性」を定義しなければ、「過去において行われた犯罪」が「その人格」として行われたのか定義できなくなり、「今この瞬間に存在する」人格に対して刑罰を執行することの妥当性が失われてしまうからである。
 実際これは、ヴァーチャリズムを考えるにあたって重大な問題である。昨今のニュースとしてもあったが、「過去の現実における「中の人」」が犯罪行為を行った場合、「ヴァーチャル・キャラクター」をも「中の人(アクター)」の存在がある限り、「現実人格とヴァーチャル人格は別々であるから」と言い逃れることは現在の価値観からして出来ないし、またこれを認めることはヴァーチャリズムにおいても倫理的問題が生じてしまう。
 はたして複数の独立した「自己」を個人が「保有」しうる権利は認められるのか、あるいは、現実に置いて問題が起こった際に「ヴァーチャル・キャラクター」の存在をも揺るがすということは、これはヴァーチャリズムにおける「ヴァーチャル人格」の独立という問題を論じるにあたって避けて通れない議題である。筆者の考えを述べるならば、思想的な絶対性を優先するならば、複数の自己を保有する法的権利は認められるべきで、あくまで現実とヴァーチャルという双方の世界において「問題」が起こった時には、双方どちらかにおいて処理されるべきであるという立場を取りたいが、前者はともかく、後者は容認しかねる行為である。しかも、何も「問題」は「犯罪行為や反倫理的行為」といったものに留まらず、「現実存在であるアクターの引退、あるいは死」によってヴァーチャル存在をも強制的に死に至らしめるという重大な問題がある。
 ここで定義しなければならないのは、現実とヴァーチャルは両方とも一つの「魂」を有していて、(ここでいう「魂」とは一般的な意味で使われる「魂」の用法とは違う)、この「魂」は可変可能な複数の「人格」を精製し、有する事ができる精神の根源であると定義するならば、「魂」に伴う倫理的問題は「魂」に問われ、「現実存在とヴァーチャル存在双方に問われるべき問題」として定義づけられるべきであり、また「引退、または死」によってヴァーチャル存在が強制的に人格を喪失するということは、「引退」においては「ヴァーチャル人格」の死であるし、「死そのもの」は「魂の死」であるから、これもやはり「ヴァーチャル人格」の「死」であると現在のところは定義しなければならない。これは普遍的倫理性でもあるし、ヴァーチャリズムにおける限界でもある。もっともこの点においては、議論の余地があるものとして、結論は現時点では保留しておきたい。

実存主義とヴァーチャリズム

(執筆中)

現実世界の相対化の試み

 この節では、翻って現実世界そのものの存在を疑うことによって、現実の相対化を行い、ヴァーチャル世界の現実と並立する独立というヴァーチャリズムの思想を、現実そのものの構成を疑うことによる相対的な現実世界の価値の低下という形で理論付けてみたい。

●共同幻想としての現実社会
 吉本隆明の「共同幻想論」を用いた現実における社会そのものの共同幻想としての定義付けを行ってみたい。
 (執筆中)


ルッキズム(外見至上主義)とヴァーチャリズム

(執筆中)



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