哲学

2020年07月08日

【デカルトの発見「我思う故に我あり」】近代哲学の基礎における意識の定義付けについて

 
「我思う故に我あり」は何が重要だったのか?

 デカルトによる「我思う故に我あり(Cogito Ergo Sum)」という有名すぎる言葉がある。より平易に表現すれば「私が思う所に、私がある」という意味であり、人間は何によって定義付けられるか? という疑問に対して、

「いささかでも疑わしいところがあると思われそうなものを総て絶対的に虚偽なものとして退けた時、結局疑う事の出来ないものが私の確信に残るかどうか、これを見届けなければならないと私は考えた」
―落合太郎訳 デカルト『方法序説』岩波文庫より抜粋

として、すべてのものを疑い、疑い得るあらゆるものを排し、疑うことの出来ないものに到達する事が出来たのならば、それが人間の基礎であり、「方法論的懐疑」とも呼ばれる思考によって、過程は省略して結果だけ述べると、すべてを疑うと、全ての事が不確かで、疑いようのあるもののように思われてきたが、「疑うという思考をする「我」」という存在は確かに存在する、という結論に達した事、この思考過程自体はご存じの方も多いのではないだろうか。ではこの事が哲学史においてどのような意味合いを持っていたのか。
 第一に人間というものを定義づけたという試みとして、近代哲学の出発点としての重要性である。「我思う故に我あり」の定義は、その後の哲学史において賛否様々あるが、ともかく人間というものを自らの思考によって定義づけたという「発明」が重要だったのである。
 第二に、従来のキリスト教的価値観からの脱却という試みが、新しかったのである。中世ヨーロッパという時代においては、あらゆる事はキリスト教的価値観、つまり聖書によって規定されていた。天動説が有名なものであろうが、人間というものは何によって定義付けられるか? という疑問に対しても、聖書に述べられた「神の被造物としての『人間』」という定義がなされ、それが人間の疑い得ない定義であった。しかし、デカルトは、このようなキリスト教的価値観とは異なる形で「我」、「人間」を定義づけた。これがまず、「我思う故に我あり」の重要性の一つである。これを「近代的自我」と呼び、神によって存在が定義されるのではなく、前述の通り、自分自身の思考によって自分が規定されるという意味で、「我思う故に我あり」は重大な発見であったのである。

「我思う故に我あり」の解釈と問題

 哲学史上の重大な転換であり発明である「我思う故に我あり」だが、問題もあった。
 それは、思考によって「私」が決定づけられるならば、思考していない時、例えば眠っているときなどには私は存在しないことになるし、思考が断絶した時、眠った前と後では、私は同じ人間であるのか?という疑問、「私」という人物的同一性を保証しかねるのである。このことに対して、哲学者ロックは「アイデンティティー」という「自己同一性」、「人格(person)」による「私」の規定を行った。ロックは、「自己同一性を人格に求めるとするならば、人格とは何かという事を考えなければならない」と考察した。ここでも難解なので過程は省略するが(その過程が重要なところなのだが)、結果的に「人格の同一性」は「意識」によって成立すると考えたのである。「思考と切り離すことのできない意識」は、「他のあらゆる思考する事物(他人)から自らを自らと呼ぶに値し区別する」とし、「意識が後方へ、過去の行為、思想へ及ぼせる限り、それだけ遠くまで人格の同一性は達する」としている。またこれと似た「我思う故に我あり』の解釈として、スピノザは「我思う故に我あり」を「我は思惟”しつつ”存在する」と言うようにしている。


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voiceofdrone at 10:15|PermalinkComments(0)