考察

2020年07月20日

反出生主義に対するいくつかの異論・反論

反出生主義に対する私的疑問、異論、反論

 

初めに・いくつかの前提


 この記事では、一つの哲学的立場である、「反出生主義」に対する異論反論を唱えたい。


 なおこの記事では、生物の存在以前、及び存在以後の「無」、つまり生前と生後は「無」であるという認識は、反出生主義の立場と一致させた上で考える。

 つまり、なんらかの宗教的な立場、主張を用いて反出生主義に対する異論、反論を行うものではないとはっきり断っておく。もっとも存在以前、存在以後ははたして「無」なのかという事も証明不可能なのではあるのだが、ここではそれを一つの前提とした上で、反出生主義への異論、反論を唱えたい。


 また、もう一つ初めに前提として断っておかなければならないのは、人間は人間として、あるいは動物として存在する以上、「感情論」を排して考えることは出来ないという事である。

 何故ならば、私達が生きるにあたっての「合理的」指標とは、常に快と不快という原則に支えられているのであり、言うなればそれそのものが「感情」であるからである。ある意味では、存在の快・不快という原則を用いた立場である反出生主義もまた一種の「感情論」であるし、それに対する反論もまた、人間が人間として持つ「感情」を全く廃して議論を行うことは、不可能であるし、不毛であるし、意味がないと考える。

 したがって、「感情論」といういささか定義に困る曖昧な言葉を全く排して、人間が思考をすることは出来ないと、まず前提として述べておく。

 

反出生主義とは何か 


 極めて概略すれば、哲学的立場、道義的、倫理的立場から、人間が子供を出生させることに対する否定の論理である。生まれてくる子供が、経験するかも知れない苦痛を考えれば、道徳的に出生を行うべきではないという主張を掲げる。


 反出生主義の基礎の一つとして、「負の功利主義」、つまり一般的な正の功利主義における「最大多数の最大幸福」の原則とは真逆の「最小少数の最小苦痛」とでも言い表すべきな、快原則の真逆である、不快、苦痛を最小限、出来るならばゼロにするべきであるという立場が挙げられる。

 これを突き詰めて考えれば、人間が存在する以上苦痛はつきまとうのだから、人間は存在するより存在しないほうが良いという事になる。


 代表的反出生主義者であるヘルマン・ヴェターは、「人間は生まれてこないほうが良い」とする上で、基本的非対称性の原理を挙げている。「有に対する無」の存在的非対称性・優越性である。概略すれば、無という非存在の、有である存在に対する非対称性、存在しないことによる無の有に対する優越性というものを結論付けている。

  

異論:反出生主義という、「理性優越主義」への異論

 
 反出生主義は、理性優越主義的な思想である。

 ここで筆者が使う理性優越主義とは、人間の動物としての欲求を理性が克服する、あるいは欲求を理性によって飼いならす、あるいはそうすべきであるという考えであると定義しておく。


反出生主義においては、人間の出生という生物的本能を理性によって制限すべきであるという立場であり、人間が動物として持つ本来的な欲求に対する理性優越主義であると筆者は捉えた。


 このような理性優越、あるいは理性絶対主義的な考えは、産業革命、科学革命が起きた近代という時代を支え、発展させてきた。しかし、そのような理性の完全性の信奉、ひいては理性による完全な社会の実現可能という考えが、いくつかの全体主義的な思想を生み出した一つの要因であるという事を忘れてはならない。無論、そのような理性主義の全ての負の側面を反出生主義に適応し、それを反出生主義への反論とすることは、いささか言いがかりめいているため、適切とは言い難いが。


だが、理性優越主義的な考えにおける、人間が動物的存在を超えた理性の生き物であるという考えに対しては、筆者は同意しかねるという立場はまずはっきりさせておきたい。


つまり、この記事の反論の全ての前提ともなるが、まず人間は動物なのである。けれども、人間は確かに理性を持ち合わせた存在でもあるから、その事実を無視することは出来ないのだが、しかし、筆者の立場としては、人間は本質的には感情が理性に先立ち、言い換えるならば、理性によって感情を飼いならしている動物ではなく、実のところ理性とは感情によって飼いならされているのではないかという疑問を呈したい。つまり、本能に関わる本質的な欲求に関わる事項を人間という動物は克服する事は出来ないという事である。

 

異論:「有」存在による「負の功利主義」の実践不可能性


 我々は既に存在している。人間として、動物として、存在している以上は快・不快原則に支配される。
 苦痛を最小限にする、あるいはゼロにするという負の功利主義の実践は、欲求として快を目指す事を主にして存在する我々にとっては難しい。いうなれば、すでに存在している我々は、苦痛を最小限にするという負の功利主義よりも、一般的な功利主義、つまり正の功利主義を目指したほうが原理的に容易いという事である。

言い換えれば負の功利主義とはある種、理性的な立場であるのに対して、正の功利主義とは自然的に欲求に従順な感情的立場であるとも言えるのではないか。

 

反論:「無に対する有」の存在的優越性


  我々は生まれて、存在している。我々はすでに存在している。特にこのことを無視する事は出来ないと筆者は考える。


まず結論として筆者の立場を述べるのであれば、ヘルマン・ヴェターの「有に対する無」の優越性とはある種真逆の論理ではあるが、既に「有」として存在しているということは、非存在である「無」に対する、ある意味での一定の優越性があると筆者は考える。


無から無は生成されないが、有によって無から有は生成される。そして無は欲求を持たないが、有は欲求を持つのである。無を有にすることに対する道徳的な疑問を問うならば、有が有として持つ本来的な欲求を否定することに対する道徳的な疑問も問わなければならない。


我々は既に存在していて、存在する以上は、存在につきまとう制約、動物であるならば、動物として存在する以上は、否応なしに快・不快原則に支配され、その一環として快を目指して、欲求を満たすという行為がある。その欲求の一環として生殖行為がある訳だが、この事は、人間が人間として、あるいは動物として存在する上で免れることの出来ないジレンマのようなものであると考える。それを全く、道徳的に否定することが出来るのかという疑問である。果たして幸か不幸か我々は存在している。動物として存在している以上は、動物という存在のジレンマからは逃れられない。


たとえそれが、存在してしまっている動物が子をなして更に苦痛を繰り返す行為であるとしても、それはこの世界に生物が誕生した時点以来からの生物が生物学的に生物であるゆえの定めのようなものなのであると考える。そして、そのことに対して、人間という動物が生物的本能を理性によって克服し、いわば反出生主義における種族的自殺を行うという試みは、先の人間における理性と感情欲求との関係を前提にすれば、やはり不可能であると言わざるを得ないと筆者は考える。

 

反論:既存の人間のエゴイズムの尊重


 筆者の考える反出生主義への反論の一つに、既存在である、「今生きている人間のエゴイズムを尊重すべきである」という論理がある。

 (反出生主義的に言うのであれば)「既に存在してしまっている」人間のエゴイズムを否定することは出来ないと筆者は考える。

これは若干前述した事とも重なるのだが、まずこの文を読んでいる、我々人間は既に存在していて、生きていて、欲求を有する。その欲求は、道徳的に尊重されなければならない。


 確かに我々は、これから生まれてくる子供たちに対する全人生の保証はしかねるというか、出来ない。しかし、我々は存在して、欲求を有している。愛情に代表される感情、必要性、あるいは快楽として、子をなすという行為は、我々のような存在する「有」にとっての正の功利主義であり、幸福(快楽)を追求する行為なのである。繰り返すようであるが、無に対する道徳的尊重を行うならば、既に存在している有に対する尊重も行わなければならないと考える。

ここで一つ問わなければならないのは、反出生主義においては、子をなして、存在させ、苦痛を伴う人生に投げ込むことに対する道徳的な疑問が提唱されているのであるが、筆者としては、果たして、我々動物としての人間が純粋な本能によって行う行為に道徳的善悪を問うことは出来るのかという疑問を、質問を返すようであるが、問いたい。


子をなすことが出来る最小数の二人の男女がこの世界に「すでに存在」しているのであれば、彼らが望む事として子をなすという行為に対してそれを彼らが望んだらならば、それに否を突きつけることはできるのだろうか。出来ないと筆者は考える。なぜならば、彼らは存在しているからである。彼らが望む行為として、子をなすという自由意志を否定することは、道徳的にできないと考える。

 

終わりに


 以上が筆者の考える反出生主義に対する異論、反論である。筆者としては、あえて人生は素晴らしいものであるとか、あるいは苦痛を伴うものであるとか、反出生主義は良いか悪いかとか、そういったことに対する議論は控えた。

 ただ単純に、反出生主義という思想そのものがもつ不完全性のようなものを問いたかったのである。

 無論これらの異論反論に対するさらに異論反論もあるだろう。そのような意見はぜひコメント欄などでレスポンスしていただけると幸いである。




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2020年07月15日

【私的考察】ブラック校則を考える ~学校教育という場における「無形の権威者」~

ブラック校則はなぜ出来るのか?~ツーブロック禁止騒動から考える~


 最近話題になったニュースに「都立高校におけるツーブロック」の禁止というのがあった。それに疑問を唱えた共産党池川友一都議会議員の質問に対して、藤田裕司教育長の答弁は「外見等が原因で、事件や事故に合うケースがある」「それらから生徒を守るため」との事だった。正直な所いささか苦しい答えであると筆者は考えた。「事件や事故に合うケース」というデータも存在しないし、具体例を提示できない時点で主観的なものであると言わざるを得ない。いわば「ツーブロックは学生にふさわしくない」というモラル観という結論ありきの後付けといった所だろう。
 他の事例でも昨今においてはしばしば「ブラック校則」と言われる一般的な価値観からすればあまりにも行き過ぎで苛烈な校則が話題となることがある。頭髪や身なりに関する厳しい基準、およびそれを破った生徒に対するやり過ぎとも言える罰についてである。

 ではそもそもなぜこのような「ブラック校則」は「誰によって」作られ「何故」できあがるのだろうか?という事をこの記事では考えてみたい。

統計的データから見える校則の類型


 NHKの東海NEWSWEB WEBニュース特集「この校則って必要?」(URL下記参照)にまとめられた約300校の校則をデータ化し、統計的にみると、特に頭髪に関する校則が多かった。
 これは、そもそも制服という形で衣服の身なりが規定される学校においては、生徒一個人のファッション的な自己表現としては、残された手段として頭髪のアレンジを行うという選択肢が主に取られることに由来するだろう。制服のない高校であっても、甚だしい身なりは校則によって規制されるという形が一般だが、いずれも、身体表現という形での生徒の振る舞いを規制し、画一化する試みであると言える。
 また、校則に多い言葉として、「らしい」とか「らしく」という名詞形が挙げられる。これは「○○校の生徒らしく」とか、「高校生らしい」と言った形で校則に書かれている文言である。
 いずれも何者か他者によって規定される「らしい」「らしく」「らしさ」である。ここで筆者が気になったのは、この他者とは何者か?という事である。

校則を定めるのは「何者」か?

 校則を制定し、施行するのは学校である。場合によっては生徒委員会による学生投票という形が取られることもあるが、実際は、学校に務める教職員によって規定される。では、校則とは、教職員の個人個人の裁量や価値観によって規定されるものなのだろうか? 筆者はこれは多くの場合では異なると考える。
 もちろん中には権威ある教職員の直接的な個人的裁量に依る校則もあるかもしれないが、多くの場合、社会が考え理想とする学生像とか、教職員という人間が構成する共同体が考える生徒規範であるとか、その学校の「校風」とか、形として特定することが出来ない「共同幻想的なもの」に由来するのだろう。その中でも、昨今において価値観の多様化が進む現代社会においては、教職員の考える「社会」と、実際の「社会」との価値観にズレが生じていると考えられる。
 つまり、教職員によって形成される「かくあるべき」論という「共同幻想的なもの」が校則を形成するにあたって大きな割合を占めると言えるだろう。

 ここで「共同幻想」という言葉を使ったが、筆者の考えでは、この記事においては特に、「共同幻想的なもの」による規定とは、その共同体に属する個々人の集合が作り上げる規定であるにも関わらず、個々人自身の価値基準には必ずしも依らないばかりか、その共同体においていつの間にか個々人に「刷り込まれている」規範を指す。

 あるいは、教職員の個々人の価値観によっては、本音を言えば「不必要」であると思われる校則をも、「学校教育という場の教職員である」という身分であるということに規定され生徒に指導することもあり、つまりここでも「共同幻想的なもの」に由来する「かくあるべき」論によって、生徒ばかりか教職員の振る舞いまでもが規定されているのであると考えた。


学校という閉鎖的な「小さな社会」の構造 

 学校とは良く社会の縮図であると例えられる。筆者の考えでは、単なる縮図に留まらず、学校運営という体制における統治、政治、法などの諸々までもが縮図化され、単純化されたという意味での閉鎖的な「社会の縮図」であると捉える。

 例えば、学校という場においては、教職員が生徒を校則という法によって支配するという構図が見いだせる。しかし、校則の審議機関は、大体の場合省略化され、さらに言えば、校則に違反するという事を審議し裁く裁判所的なものも存在しない。多くの場合、教職員が校則に違反する生徒を教職員の価値観に基づき、叱り、罰する。
 ここで言う教職員の校則という法解釈の価値観とは、前述の通りやはり、教職員個々人の価値観を超えて、学校教育という場における「かくあるべき」論、あるいはその学校の「校風」であるとかに多かれ少なかれ規定されていると言える。

 ここで学校教育という場においては、校則という明確な法はあれども、法解釈は教職員によって委ねられ、さらにその教職員の価値観は、先述の通り「学校教育という場における教職員としての振る舞い」という意識に囚われているというジレンマのようなものが見いだせるのではないか。

  更に踏み込んで言えば、学校という場における支配体制をあえて分類するならば、マックス・ウェーバーが言う所の支配の三類型のうちの、「伝統的支配」に値するものだと考えられる。伝統的支配においては、昔から存在する秩序と権威の「神聖性」に正当化根拠を置く支配類型であり、同じくマックス・ウェーバーの提唱した支配類型「合法的支配」支配、形式的に正しい手続きで定められた根拠のある法に基づいた支配の体型とは学校教育という場は言えないのではないだろうか。

校則のブラック化の原因

 さて、ある意味で長い前置きを終えて、ようやく本題である「校則は何故ブラック化するのか」という事について考えてみたい。

 上記を踏まえて考えると、まず学校教育という場は、あらゆる意味において「縮図化」された社会である。そして教職員は支配者の立場であり、生徒を規定する。この構図にて、筆者は「スタンフォード監獄実験」という一種の「ミルグラム実験」と分類される心理学の実験を思い起こした。
 「スタンフォード監獄実験」について概説すると、模型刑務所を舞台に、普通の人に看守役と受刑者役を分担して担当させ、それぞれの役割を一定期間演じさせるという実験である。この実験を行った結果、時間が立つに連れて看守役はより看守らしく、受刑者役はより受刑者らしい振る舞いをみせるようになったという実験である。特に支配者である看守役は受刑者に対する過激な仕打ちを見せるようになり、実験は途中で中止されたという経緯がある。
 「スタンフォード監獄実験」の他にも、人間は閉鎖的な環境に置かれると権威者に従い、あるいは権力を与えられた権威者は権威者らしく振る舞う権威主義的パーソナリティという人間心理がいくつかの実験によって示されている。

 だが完全なる閉鎖環境で行われる実験を用いて、これを学校教育という場にそのまま適応することは無論出来ない。学校教育という場は閉鎖的でも、生徒も教職員も帰宅すれば一人の人間に戻る。つまり社会と繋がっているわけだから、閉鎖的な環境における「ミルグラム実験」の例をそのまま適応することは出来ない。
 だが、「スタンフォード監獄実験」ほど過激にはならなくとも、生徒教職員ともに一日の半分以上の時間を過ごす学校教育という場は半閉鎖的環境であり、「権威主義的パーソナリティ」的な振る舞いを部分的に見せるのではないかと筆者は考察した。

 ここで注目したいのは、権威者とは誰かということである。先に挙げた「伝統的支配」という支配類型を考えれば、昔からの伝統によって規定された権威に基づき法は作られ権威に対する義務感によって命令は行われるという構図を、単純に考えれば、権威者とは教職員であり、ここで教職員を批判してしまうことは簡単なのだが、前述の教職員までもが、「学校教育という場における教職員らしさ」に規定されるというジレンマを考えれば、学校教育の場における真の「権威者」とはある意味教職員の共同体によって構成される「共同幻想的なもの」に由来する「無形の権威者」なのではないかと筆者は考えた。教職員はその「無形の権威者」に従い、あるいは「スタンフォード監獄実験」の例を挙げれば、「無形の権威者」によって命じられた権威者として振る舞うことによって、ますます権威を強めようとしているのではないかということである。

 学校という場の半閉鎖的「社会の縮図」そして「無形の権威者」の存在によって、教職員の意識は規定され、生徒に対するますますの権力意識を強め、なおかつ「自分が秩序を保たねばならない」という意識が芽生え、生徒をより画一化する為に校則を厳しく設け、なおかつ罰も苛烈なものとなる。
 これが、苛烈で行き過ぎた、いわゆる「ブラック校則」が形成される所以なのではないかと筆者は考えた。

終わりに

 さて、先日の「盗めるアート展」に続き、トレンド記事に味をしめた筆者による「ブラック校則」の一考察である。
 念の為に断っておくが、この記事には問題がある。
 それは客観的なデータが何一つ提示されていないあくまで「筆者の一考察」である事である。そういう意味では今回の「ツーブロック騒動」の藤田裕司教育長の答弁と同じく、なんら客観的なデータを提示できないという点で、同レベルだとも言える。それゆえ、「そういう考え方もある」という程度に受け取って欲しい。
 異論反論ツッコミお叱りがあれば、コメント欄などでレスポンスしてほしい。
 
NHKの東海NEWSWEB WEBニュース特集「この校則って必要?」
https://www.nhk.or.jp/nagoya/websp/20200331_kousoku/

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2020年07月14日

「萌え」の構造 ~「萌え」の対象物と感情内容~

萌えとはなにか?「萌え」感情の構造論


「萌え」とは俗語として現代に生まれた感情の表現方法である。
 Wikipediaの「萌え」の記事の定義を見る限り、
「対象物に対する”狭くて深い”好意」という意味を含み、それよりは浅くて同種の感情を表す「好き」という言葉を使うのにふさわしくない場合に用いられる。
とある。

 筆者が考える限り、上記の定義に則るならば、「萌え」とは、「かわいい」や「好き」と言った感情よりはより具体性を伴った、類型性が見いだせる感情であると考える。
 この記事では「萌え」を構造的に分析し、一定程度の定義付けを行うことを目指したい。


対象物:「キャラクター」に対する愛情としての「萌え」


 日を追う毎にますます広い対象物に用いられるようになった「萌え」という言葉に対して、筆者なりに考えたのは、「萌え」という言葉が用いられる対象は、何らかの「キャラクター性」を伴っているという事である。
 ここで、この記事における「キャラクター性」とは何かを定義しておかなければならない。「キャラクター性」とは、擬人化、デフォルメ化、アイドル化によって見いだされた「主観的(に見いだされる)人格像」であり、「客観的非実在人格像」とも言える。

 ここで「萌え」という言葉が使われる対象についてまとめてみる。一つに、アニメまたはゲーム等の創作物に対するキャラクターという「仮想的人格」である。これは分かりやすいであろう。つまり創作物の「主観的人格像」を対象としており、「キャラクター」が包括する要素に対して「萌え」という言葉が使われる。
 第二に、実在する人物、例えばアイドルなどに代表されるのだが、そういった存在に対しても、「萌え」という言葉が使われる事がある。実在する人物の「キャラクター性」とは、「客観的非実在人格像」である。いわば「半仮想的人格」である。つまり客観的に見れば、アイドルというのは、一種の「キャラクター」であり、一応断っておくならば、もちろんアイドルファンはアイドルの「キャラクター」を超えて、いわゆる「素の人格」をも愛する事はあるのだが、全体として総括すればそこには一定の客観的な被造的、仮想的人格である「キャラクター性」が含まれているのである。
 第三に、無機物に対する「○○萌え」という用法が挙げられる。代表的な例を上げるならば「工場萌え」である。これは一定程度の対象の擬人化と対象そのものが持つ本来的な特徴とが入り混じった形の「キャラクター性」であると考えられる。対象の持つ「機能美」と「主観的人格像」が入り混じった好意であるとして捉えると分かりやすいかも知れない。

 つまりそうした「キャラクター性」を帯びた存在に対して使われる感情の表現が「萌え」なのではないかということである。付け加えるならば、「萌え」という言葉を使う側も、一定程度の認識の上でその「キャラクター性」の仮想性、「主観的人格像」性を認めており、実在する人物のそのままの人格にたいして用いる好意である「好き」とか「愛」という感情とは、また違った形の感情であることを認めた上での表現が「萌え」だということである。

 さらに言えば、「萌え」の対象である「キャラクター性」とは一定程度「デフォルメ化」されている、という点も挙げられる。デフォルメとは、意図的にある部分が誇張、強調化、または簡略化する手法であるが、多くの場合、「キャラクター」とは何らかのテーマ性を持って、強調される部分と簡略化される部分がある。
 本来「人間の人格」とは、様々な相反する要素が並立し、時には矛盾すら見られる形で構成される複雑で分かりにくいものであるが「キャラクター」の場合は、その人格に一定程度の主題性をもたせ、強調すべき所を強調し、はっきりと分かりやすいものにするということがある。そういったデフォルメされた「キャラクター性」に対する感情表現に特有なのが「萌え」なのではないかという事である。

感情内容:疑似恋愛あるいは理想主義の体現


 さて、「萌え」という言葉が使われる対象についてまとめたところで、次は「萌え」という言葉に含まれる感情について考える。これは前述の対象物のように類型化することは難しい。「かわいい」とか「好き(likeである場合もあるが概してlove)」とかあるいは純粋な好意といった感情が様々に入り混じった感情であるからである。

 あえて特徴づけるとすれば、多くの場合対象物に対する「疑似恋愛(疑似関係)性」という特徴がある。つまり、「主観的人格」を認めた相手を恋愛または自己との関係対象に見立てて、「キャラクター性」故に無差別に振りまかれる好意を受け取って自身と対象を結びつける。つまり自分と対象物を何らかの形(純粋な好意関係、恋愛感情、あるいはエロティシズム)で結びつける、あるいは結びつけたいという感情を前提として、かつその行為を「愛している」というような直球の表現を避ける奥ゆかしさが含まれた言葉として「萌える」という表現が使われるのではないか、という事である。

 もしくは、対象物に対する理想主義的な憧れをも指すのではないか。「キャラクター」は「デフォルメ化」された人格として振る舞う。それは「デフォルメ」によってテーマ付けられた人格的一貫性による、普通の人間には見出すことの出来ない、あるいは見出すことが難しい理想的人格像、「理想の体現」、「憧れ」を感じさせるものであり、対象が非実在性を伴った「キャラクター性」を帯びている事によって成立する、理想主義に基づく崇敬感情なのではないかという事である。言い換えると、「デフォルメされたキャラクター性」とは人間の人格に求める理想主義の体現と言え、それに対する「非実在だからこその理想の体現」に対して、単なる「好き」や「愛する」を超えた「萌え」なのではないかという事である。



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2020年07月13日

私版・唯物史観的「インターネット」発展段階論 ~マルキシズム的な何か~

この記事は過去に書いた筆者のインターネットの歴史に関する一考察、【インターネットの発展段階史】別世界としてのインターネットと、現実の延長としてのインターネット 【考察】の内容を大元の下敷きにして、より詳しく、インターネットの歴史をある種「歴史学」として捉え、考察をするものである。

唯物論的史観からみる「インターネットの歴史」



目次
●初めに・マルクスについて
インターネット唯物史観・発展段階論説
唯物史観・発展段階論的な視点から予測されるインターネットの今後
●終わりに(ネタバラシのようなもの)

初めに・マルクスについて


 さて、初めに断っておくがこの記事は「インターネットの利用者意識の変容」を発展段階論的な視点から、マルクス主義における唯物史観に基づいて分析するものである。
 
 「マルクス主義」、「マルクス思想」。人によってはこの言葉を聞いただけで拒否反応が出る人もいるのではないだろうか。それはやはり「社会主義」という「理想」と、数々の「マルクス主義」をもとにした社会主義国家の失敗という「現実」によるものであろう。
 ただ、断っておきたいのは、「思想家」「経済学家」としてのマルクス主義は今日においてほとんど扱われなくなったと言っても過言ではない状況であるものの、「哲学」、「歴史学」、「社会学」においては未だにマルクス主義的価値観が息づいているのだ。
 なぜならば、「社会主義の提唱者」としてのマルクスは残念ながらある種の「夢想家」というのが否めないものの、「既存の社会・資本主義の分析者、及び19世紀における資本主義の破壊者」という意味においてはマルクスというのは天才的だったと言わざるを得ないからである。

 例えばマルクスに対する評価を挙げると、マルクスの伝記を書いたE.H.カーによれば、
マルクスは破壊の天才ではあったが、建設の天才ではなかった。彼は何を取り去るべきかの認識においては、極めて見通しがきいた。その代わりに何を据えるべきかに関する彼の構想は、漠然としていて不確実だった。」
「彼の全体系の驚くべき自己矛盾が露呈せられるのはまさにこの点である」
との評価である。

 「歴史学」においてマルクス思想が息づいているというのは、まさに彼の「発展段階論」「唯物史観」的歴史観に代表されるものであり、特に日本の歴史学会にてはもちろん批判も数多くなされてはきたが、今なお色濃く根付いているのだ。

 さて、前置きがだいぶ長くなってしまったが、この記事では、インターネットの歴史を「歴史学」として捉え、唯物史観、発展段階論的な視点から考察を行っていきたい。
 なお、言い訳として一応断っておくと、筆者はマルクスに関しては少し勉強したつもりではあるが、素人である。そのため間違いなどもあるかも知れないが、その点はご容赦いただきたいと同時に、コメント欄などでレスポンスをいただけると嬉しい。


インターネット唯物史観・発展段階論説


 さて、本題であるインターネットの歴史に対する一考察を始める。
 前置きとして、この記事は、唯物史観的な視点から、「別世界」であるか、「現実の延長」であるかといったような「インターネットの利用者意識」をインターネット社会の「上部構造」として捉え、物質的、技術的なインターネットの「生産力」とも言える物理的発展を「下部構造」として考える。「上部構造」は「下部構造」によって規定される、即ちインターネットの利用者意識や使い方、インターネット社会の変遷というものは、「下部構造」である技術的な水準によって制約され、規定されるという考え方である。

 かつてインターネット黎明期から初期にかけては、チャットや匿名掲示板といった場所にて独自の文化や世界観が形成され、インターネット世界という別世界的なインターネットが展開されていた。というのも、チャットコミュニティや匿名掲示板といった場所では、現実と隔絶した振る舞いが許容され、現実ありきではなく、インターネットという場を前提としたコミュニケーション、つまり別世界としてのインターネットが展開されていたのである。
 これを「下部構造」、即ちインターネットの「生産力」という視点から捉えると、当時はまだコンピュータそのもののスペックや回線の速度といった限定から、インターネットは文字媒体としてのメディアとしての振る舞いが強かったと言える。文字を主体にするということは、読み手である利用者にある程度の想像力が問われなければならないのと同時に、この時点でこの後のインターネットの時代である「現実の延長としてのインターネット」を踏まえて言うと、この時代におけるインターネットは、現実の延長として、現実の出来事を報告するのにそもそも不向きだったということである。よって、現実とインターネット上との非リアルタイム性からネット上のみで成立しうる独特の文化が生まれ、発展する余地があったと言える。つまり「上部構造」であるインターネットの利用者意識は、発展途上のインターネットにおける文字主体時代という構造に規定されていたと言える。
 これがやがて技術発展によって徐々に変化してきた。コンピュータスペックの高性能化とインターネット回線の高速化によって、大容量のファイル、高画質な画像であるとか動画をネット上にアップロードすることが容易になってきたのである。ちょうど2000年代中盤以降の事である。ただ、この時点においては「上部構造」としてのインターネットの利用者意識が変化するにはまだしばしの時間が必要であった。

 決定的に「下部構造」が変化し、「別世界としてのインターネット」という「上部構造」に変革をもたらしたのは、恐らくはスマートフォンの登場だろう。それ以前の携帯電話と異なり、小型のコンピュータと高性能なカメラを兼ね備えたこの電子機器が技術的に実現し得る決定的な「下部構造」における「ネット生産力」の増大ととともに、「上部構造」は変化していった。付け加えるならばスマートフォンという「現実の報告」にうってつけの機器が登場したことによって初めて、SNSといったサービスが登場しうるだけの下地が整ったのだと言える。
 スマートフォンの登場と、それに伴うSNSという革命こそが「インターネットの現実の延長」化を決定的に促進した。もはや人々はありとあらゆる場所で、リアルタイム的に現実の出来事を画像、映像あらゆる形で報告することが出来るようになり、従来型の形の見えない相手との会話である匿名掲示板から、より明確に相手が見えるSNSへとネットの主体が移行していった。コミュニケーションは実体性を帯びたものとなり、多かれ少なかれ現実が想定される時代へと移り変わったのである。

  つまり唯物史観的にインターネットを捉えれば、インターネットという存在の利用者においての意識という「上部構造」が、「別世界」から「現実の延長」へと移り変わったのは、つねに電子機器の性能やネット回線というインフラに関する技術的制約という「下部構造」に規定されたと言えるのではないか。

唯物史観・発展段階論的な視点から予測されるインターネットの今後


 さて、ここまでが今日においてのインターネットの歴史的な概要である。では、今後のインターネットのあり方は、どのように変化していくのだろうか。「下部構造」としての技術的進歩において予想されうるのは、ますますの電子機器の小型化高性能化、5Gに代表される回線の高性能化、そして更に挙げるならば、「人工知能」と「ヴァーチャル」技術の進歩である。まず電子機器のスペックアップと回線の高性能化によって、「ネット生産力」とも言える「情報量」はますます膨大になっていくと考えられる。それに伴って、「ヴァーチャル」技術が実用化し普及することによって、「上部構造」には再度革命が起こる。

 即ち、「ヴァーチャル革命」による再びの「インターネットの別世界化」である。奇しくもマルキシズムにおける原始共産制から資本主義へ、資本主義の成熟から社会主義への革命へというような構図と一致してしまったが、技術的成熟によって、「インターネット」そのものの存在がさらなる変化・飛躍を遂げるということ自体は十分に考えられる事である。そこで基軸となる技術が「ヴァーチャル」であると、あくまで筆者の考えであるが、そう予想している。そして「別世界」としての「ヴァーチャル世界」の成立により、人類社会そのものが大きな変革を経験することになるだろう、と筆者は考えている。


終わりに(ネタバラシのようなもの)


 さて、筆者によるマルキシズム的な何かによるインターネットの発展段階論的歴史展開を延べた。これまでのインターネットと、そしてこれからを考えるのにあたって、「別世界的インターネット」→「現実の延長的インターネット」→「別世界のインターネット」という段階を踏むであろうということは、前述の通り、奇しくもマルキシズムにおける経済発展段階説と一致した。

 ただここで気をつけなければならないのは、「マルキシズム」がもてはやされた所以は、「何にでも当てはまる」という利便性が一因としてあるということである。「発展段階論」を適応すれば、歴史のあらゆる時代と場所に説明がつくと期待されていた時代もあった。ただし、それほど現実は単純なものではない。科学的に世界を分析できるという理性主義の時代に生まれたのが「マルキシズム」であり、その限界性は後の時代において露呈することとなった。
 そのため、インターネットの歴史というものを単純化して考えて、「発展段階論」を適応すればある程度当てはまるというのは、そもそも「マルキシズム」の性質から当たり前であると言えば当たり前であり、決してこれが安易に良く出来た分析であるなどということは筆者自身あまり思わない。少なくともインターネットの「過去について」の分析はともかく、未来における、「マルキシズム」における「社会主義」に値する「ヴァーチャル革命」がそうやすやすと、自然に行われるとは考えていない。それについては、思想が必要であり、筆者が提唱する「ヴァーチャリズム」はそのためのものである。というと、なんだか「マルクス・レーニン主義」っぽくなってしまうような気がするが。
 さて何事もなく世の中が進めば、ドラスティックな「ヴァーチャル革命」というか、少なくともヴァーチャル技術の進歩はもちろんあるだろうが、あくまで既に確立した「現実の延長としてのインターネット」とは並立して存在していくものだと筆者は考えている。
 くれぐれも「マルキシズム」の利便性に簡単に惑わされないよう注意していただきたい。


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2020年07月11日

(追記版)【考察エッセイ】「盗めるアート展」についての個人的所見 ~決まり事に担保された善悪論が崩れる時~

(2020/07/11午後8時追記):トレンド性の強い話題のためか、この記事はこのブログにしては比較的多くの方が読んでくださった。今現在特にお叱りもご批判もうけてはいないが、しかし、今現在を持って読み返すと、批判を恐れるあまり、のっぺりとした平坦な、何を言いたいのかわからない内容になってしまった事は否めないと感じた。そこで、こちらの記事は順次修正追記を行って充実させていく。
念の為、初版の記事を別途(初版につき、こちらは読まなくてもいいです)【考察エッセイ】「盗めるアート展」についての個人的所見 ~決まり事に担保された善悪論が崩れる時~で挙げておくが、前述の通り、ただのっぺりとした平坦な内容であることは否めないため、特に理由がなければこの記事をご覧になることを推奨する。

「盗めるアート展」の結果は必然的だった?



 最近「盗めるアート展」というのが話題となった。概説すると、「来場者は一人一点まで自由にものを持って帰って良い」というコンセプトに基づいた、一種のアート的、実験的試みなのだが、結果多数の人が殺到し、開始前から館内に人が雪崩込み、半ば暴徒と化したような様相を呈し、スタート前に全ての展示物が「盗まれ」、展示会は終了と相成ったという経緯である。
 この事については様々な意見が寄せられた。「盗めるアート展」という実験的試みに対して、このような結果に終わるということこそが、現代社会を反映した一連の「アート」であるという意見も筆者個人的に興味深かった。

 この記事では、「盗めるアート展」によって露呈した人々の心理、なぜこのような結果になったのか? という事を筆者個人的に「日本人の道徳観」と「群集心理」という点から思想的に論じてみたい。もちろん異論反論なども多くなるだろうし、扱う事がなにぶんトレンドの話題であるから、お叱りなどを受けることもあるかも知れないし、もちろん異論反論お叱りがあれば、それは受け入れるつもりだが、あくまでこの記事は浅学な筆者なりの拙い意見の一つとして、どうかご容赦いただいた上で読んでいただきたい。


「日本人」の道徳的規範と「群集心理」



 結論から言うと、筆者はこの現象は、「盗めるアート展」という特殊環境と、「決まり事に基づいた傾向のある日本人の道徳観」と「群集心理」との三つの結びつきによって必然的に起こったものだと考えている。

 一般に「日本人」は遵法精神の高い民族性をもった人々であると言われる。ではなぜそんな「日本人」がこのような半ば暴徒化したようなモラルのない行為行動を取ってしまうに至ったのか。

 なお、「日本人」というとても大きな主語を用いて言葉を使うのは本来、筆者の心情、理念にも反するし、もちろん例外などいくらでも挙げられるのだが、ここではその民族性という前提に立って、あえて「日本人」という大きな主語を用いて考察を進めてみたい。
 もちろん様々な異論反論などがあるだろうし、当然のことながら「あんな一部の人々を取り上げて「日本人」と一括にするな」というお叱りの声も当然あるかも知れないが、ここでは筆者なりの考え方の一つとして捉えて欲しい。

 なおこの記事で、いちいち「日本人」と括弧付きで表現しているのは、極めて大きな主語を扱っているという意味で、「日本人」という言葉の意味を、筆者自身が慎重に扱うという理念を忘れないため、また読者の皆様方がある種筆者に批判的になりながら、「大きな主語」を慎重に受け取ってほしいという意味合いを込めたものである。


 さて、「日本人」は一貫性のある「哲学」のない民族であるとよく言われる。
 例えば「丸山真男」的に言えば、様々な外来からの「宗教」であるとか「思想」によって影響を受け続けた結果による、「日本人」自身によって形成され得る思想的体系性の歴史的欠如であり、今日において「日本人」が雑多な宗教観を持ち合わせた、無宗教的な振る舞いを見せることもその一つであると言えるかも知れない。ただ、厳密に言えば「無宗教的」な振る舞いを見えるだけであって、「無宗教」ではない。人々の道徳的規範には「ご先祖さま」とか「お天道様」というような価値観が見られることもある。ただし、それが思想的に様々な価値観を取り入れた「足し算の思考」であり、体系化されていないから、「宗教的自認」が薄く、あなたは何の宗教を信じているかと外国人に問われた時に「無宗教」であると答えてしまいがちであるという話である。

 さて若干話が逸れたが、繰り返し述べると「日本人」における「思想」は不明瞭かつ不安定であり、体系性に乏しいという事である。筆者が言いたいのは、それが悪いとか劣っているとか言う話ではない世界には様々な民族の価値観があって、それはそれぞれ尊重されるべきであるし、「日本人的」な、良いものをたくさん取り入れるという「足し算の思考」というのも、多様性が重んじられる昨今の世界においては重要な理念であると筆者は考えるからである。

 ただ、今日においても「日本人」は「宗教観」であるとか「哲学」であるという「普遍的理念」を欠いて、その結果「法律」という「決まり事」によって「善悪感」が担保されている部分が大きいとも言えるのではないかと筆者は考える。つまり条文としての法律こそが、そのまま道徳的規範になっており、ここで一応断っておくが、もちろん法律というのは、日本においては主に西洋から輸入された西洋における「普遍的理念」に基づいて体系性をもった憲法、法律、民法という法学を学んだ人々によって作られ施工されており、法を学び、作り関わる側の人間というのは一定の「体系的な理念」を学んだ上で法を作って運用しているだろうし、そうであってほしいのだが、当の民衆側において、施工されている「法律」そのものの思想的、道義的意義を問うという試みは諸外国、具体的に言えばアメリカなどに特有なのだが、既存の法律そのものに対する道義的観点からの改善という社会改良行為は甚だ少ないと言える。

 つまり何が言いたいのかと言うと、私達「日本人」の善悪感はもともと「法律」という決まり事に依る所が大きいということである。「宗教的価値観」のようなものが薄く、「法律」で決まっているから盗みはいけないし、「法律」で決まっているから、人に迷惑を掛ける事は良くないという事である。法律が前提にあって、法律に決まってるから、法律を守る。なんだか鶏と卵のような話であるが、それが「日本人」に特徴的な道徳観の一つの前提なのではないか。
 もちろん、「日本人」個々人に道徳観が法律以外にないと言うのではない。個人個人は様々な事を考えて、法律に対しても様々な疑問異論を考えることもあるだろうが、ここで問題なのは、これは人類に普遍的なことなのだが、個人を超えて群衆化したときの「群集心理」は極めて不安定で衝動的で、判断力が低下し、価値観が単純化されやすいということである。
 人々の集合である群集心理において、私達の社会、社会という存在そのものが「吉本隆明」的に言えば、個々人の共同幻想的なものであると言えるが、社会という群集において、私達の道徳観はいよいよ「法律」という後ろ盾に一般化・一元化され、私達「日本人」が普遍的に持ち合わせている「法律的道徳観」こそが最後の後ろ盾になるとも言えるかも知れない。

 ここで「盗めるアート展」において、「盗んではいけない」という「法律」の前提が消えた。制限はあるとは言え、盗みが許容されたのである。すると不安定で衝動的な群集心理によって、「法律」によって規定された道徳性、後ろ盾の消えた群衆はいよいよ善悪感が薄れ、暴徒と化す。その結果が御存知の通りであるというのが、筆者による一考察である。

 ここで断っておきたいのだが、「盗んでも良い」という環境におかれれば、何も「日本人」に限らずあらゆる人類が群集心理として同じことを行うのではないかという疑問を抱く方もいるかも知れないが、「日本人」に特有なのは、「盗んでも良い」と言われて初めてこのような行為行動を行うのであって、もしもこれが「盗んでも良いけれど一応盗んではいけないアート展」というあからさまなタイトルの展示会であれば、このようなことは起こらなかったであろうというのが、筆者の考えである。というのも、「日本人」は実際、デモなどが暴徒化し、店などに押し入って略奪を行うという事例は、筆者の思う限り聞いたことがない。そういう意味では、確かに「日本人」は遵法精神が高い傾向にあると言える。
 そのため「盗めるアート展」という「法律が取り払われた特別な環境」という自体になって初めて、このように、極端に「日本人」は「暴徒化」するという傾向を述べたいのであり、そういう意味では、やはり「日本人」の道徳観は、「法律によって規定された」ものであるというのが、筆者の考えである。


終わりに・反省点(ぜひ読んでほしいです。)

 このブログでは珍しく、恐らく初めてトレンドの内容を取り上げた。筆者をして、このトレンドに乗ってみたいという下心が無かったわけではないが、それだけ今回の「盗めるアート展」という現象は興味深かったのである。もちろん、この記事の内容に関して異論反論などが、恐らくは大量にあるだろうことは予期しているし、異論反論ツッコミどころなどがあると予測しながら、急いて記事を書いてしまったのは、やはり筆者のトレンドに乗りたいという下心に依るものなのかも知れないと反省している。ただ、浅学な筆者なりの一考察として「そういう見方もある」くらいに受け取って欲しい。
 度々言い訳を重ねてしまったが、筆者は責任から逃れたいということではない。
 異論反論お叱りツッコミなどなどがあれば、このブログのコメント欄などで筆者にレスポンスして欲しいし、あまりに考え方に問題があると客観的な視点からの指摘を頂いて問題が露呈するようであれば、この記事は謝罪した上で削除させていただく。いささか臆病に過ぎるように思われるかも知れないが、それが筆者なりの、記事を書いて公開する上での一応の責任であり最低限の義務であると思っている。



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