考察
2020年07月20日
反出生主義に対するいくつかの異論・反論
反出生主義に対する私的疑問、異論、反論
初めに・いくつかの前提
この記事では、一つの哲学的立場である、「反出生主義」に対する異論反論を唱えたい。
なおこの記事では、生物の存在以前、及び存在以後の「無」、つまり生前と生後は「無」であるという認識は、反出生主義の立場と一致させた上で考える。
つまり、なんらかの宗教的な立場、主張を用いて反出生主義に対する異論、反論を行うものではないとはっきり断っておく。もっとも存在以前、存在以後ははたして「無」なのかという事も証明不可能なのではあるのだが、ここではそれを一つの前提とした上で、反出生主義への異論、反論を唱えたい。
また、もう一つ初めに前提として断っておかなければならないのは、人間は人間として、あるいは動物として存在する以上、「感情論」を排して考えることは出来ないという事である。
何故ならば、私達が生きるにあたっての「合理的」指標とは、常に快と不快という原則に支えられているのであり、言うなればそれそのものが「感情」であるからである。ある意味では、存在の快・不快という原則を用いた立場である反出生主義もまた一種の「感情論」であるし、それに対する反論もまた、人間が人間として持つ「感情」を全く廃して議論を行うことは、不可能であるし、不毛であるし、意味がないと考える。
したがって、「感情論」といういささか定義に困る曖昧な言葉を全く排して、人間が思考をすることは出来ないと、まず前提として述べておく。
反出生主義とは何か
極めて概略すれば、哲学的立場、道義的、倫理的立場から、人間が子供を出生させることに対する否定の論理である。生まれてくる子供が、経験するかも知れない苦痛を考えれば、道徳的に出生を行うべきではないという主張を掲げる。
反出生主義の基礎の一つとして、「負の功利主義」、つまり一般的な正の功利主義における「最大多数の最大幸福」の原則とは真逆の「最小少数の最小苦痛」とでも言い表すべきな、快原則の真逆である、不快、苦痛を最小限、出来るならばゼロにするべきであるという立場が挙げられる。
これを突き詰めて考えれば、人間が存在する以上苦痛はつきまとうのだから、人間は存在するより存在しないほうが良いという事になる。
代表的反出生主義者であるヘルマン・ヴェターは、「人間は生まれてこないほうが良い」とする上で、基本的非対称性の原理を挙げている。「有に対する無」の存在的非対称性・優越性である。概略すれば、無という非存在の、有である存在に対する非対称性、存在しないことによる無の有に対する優越性というものを結論付けている。
異論:反出生主義という、「理性優越主義」への異論
反出生主義においては、人間の出生という生物的本能を理性によって制限すべきであるという立場であり、人間が動物として持つ本来的な欲求に対する理性優越主義であると筆者は捉えた。
このような理性優越、あるいは理性絶対主義的な考えは、産業革命、科学革命が起きた近代という時代を支え、発展させてきた。しかし、そのような理性の完全性の信奉、ひいては理性による完全な社会の実現可能という考えが、いくつかの全体主義的な思想を生み出した一つの要因であるという事を忘れてはならない。無論、そのような理性主義の全ての負の側面を反出生主義に適応し、それを反出生主義への反論とすることは、いささか言いがかりめいているため、適切とは言い難いが。
だが、理性優越主義的な考えにおける、人間が動物的存在を超えた理性の生き物であるという考えに対しては、筆者は同意しかねるという立場はまずはっきりさせておきたい。
つまり、この記事の反論の全ての前提ともなるが、まず人間は動物なのである。けれども、人間は確かに理性を持ち合わせた存在でもあるから、その事実を無視することは出来ないのだが、しかし、筆者の立場としては、人間は本質的には感情が理性に先立ち、言い換えるならば、理性によって感情を飼いならしている動物ではなく、実のところ理性とは感情によって飼いならされているのではないかという疑問を呈したい。つまり、本能に関わる本質的な欲求に関わる事項を人間という動物は克服する事は出来ないという事である。
異論:「有」存在による「負の功利主義」の実践不可能性
言い換えれば負の功利主義とはある種、理性的な立場であるのに対して、正の功利主義とは自然的に欲求に従順な感情的立場であるとも言えるのではないか。
反論:「無に対する有」の存在的優越性
我々は生まれて、存在している。我々はすでに存在している。特にこのことを無視する事は出来ないと筆者は考える。
まず結論として筆者の立場を述べるのであれば、ヘルマン・ヴェターの「有に対する無」の優越性とはある種真逆の論理ではあるが、既に「有」として存在しているということは、非存在である「無」に対する、ある意味での一定の優越性があると筆者は考える。
無から無は生成されないが、有によって無から有は生成される。そして無は欲求を持たないが、有は欲求を持つのである。無を有にすることに対する道徳的な疑問を問うならば、有が有として持つ本来的な欲求を否定することに対する道徳的な疑問も問わなければならない。
我々は既に存在していて、存在する以上は、存在につきまとう制約、動物であるならば、動物として存在する以上は、否応なしに快・不快原則に支配され、その一環として快を目指して、欲求を満たすという行為がある。その欲求の一環として生殖行為がある訳だが、この事は、人間が人間として、あるいは動物として存在する上で免れることの出来ないジレンマのようなものであると考える。それを全く、道徳的に否定することが出来るのかという疑問である。果たして幸か不幸か我々は存在している。動物として存在している以上は、動物という存在のジレンマからは逃れられない。
たとえそれが、存在してしまっている動物が子をなして更に苦痛を繰り返す行為であるとしても、それはこの世界に生物が誕生した時点以来からの生物が生物学的に生物であるゆえの定めのようなものなのであると考える。そして、そのことに対して、人間という動物が生物的本能を理性によって克服し、いわば反出生主義における種族的自殺を行うという試みは、先の人間における理性と感情欲求との関係を前提にすれば、やはり不可能であると言わざるを得ないと筆者は考える。
反論:既存の人間のエゴイズムの尊重
これは若干前述した事とも重なるのだが、まずこの文を読んでいる、我々人間は既に存在していて、生きていて、欲求を有する。その欲求は、道徳的に尊重されなければならない。
ここで一つ問わなければならないのは、反出生主義においては、子をなして、存在させ、苦痛を伴う人生に投げ込むことに対する道徳的な疑問が提唱されているのであるが、筆者としては、果たして、我々動物としての人間が純粋な本能によって行う行為に道徳的善悪を問うことは出来るのかという疑問を、質問を返すようであるが、問いたい。
子をなすことが出来る最小数の二人の男女がこの世界に「すでに存在」しているのであれば、彼らが望む事として子をなすという行為に対してそれを彼らが望んだらならば、それに否を突きつけることはできるのだろうか。出来ないと筆者は考える。なぜならば、彼らは存在しているからである。彼らが望む行為として、子をなすという自由意志を否定することは、道徳的にできないと考える。
終わりに
以上が筆者の考える反出生主義に対する異論、反論である。筆者としては、あえて人生は素晴らしいものであるとか、あるいは苦痛を伴うものであるとか、反出生主義は良いか悪いかとか、そういったことに対する議論は控えた。
ただ単純に、反出生主義という思想そのものがもつ不完全性のようなものを問いたかったのである。
無論これらの異論反論に対するさらに異論反論もあるだろう。そのような意見はぜひコメント欄などでレスポンスしていただけると幸いである。