エッセイ

2020年07月22日

予のない世の中 ~とある「予言者」の死に寄せて~

 今日の天気予報はまるで当たらなかった。アプリの天気予報は雨だと言い張っているが、空は晴れていた。天気予報は当てにならない。天気予報に限らない。予報、予測、予知、予言、みな「予」は外れることが多い。

 例えば昨今のコロナウイルス。ある日突然現れたウイルスが、世界中を混乱させ、私達の日常の在り方そのものを変えてしまうなどと一体誰が予想できただろうか。あるいは、曖昧な「大変動」あるいは、「世界の終わり」を唱える人にとっては、これこそが予言の的中だと言い張るかも知れないが、予言はいつだって曖昧で、少なくとも「ウイルス」が、そして「いつ」といった事を言うことが出来た予言などあるのかという疑問とともに、筆者が思うのは、恐らくコロナで世界は終わらない。大打撃、大変動こそ経験するだろうが、世界はそう簡単に終わらない。そういう意味では、やはり未来を予知できた人間などいなかった。

 先日とある「予言者」が亡くなった。その人の名は「五島勉」である。著書『ノストラダムスの大予言』にて、「1999年7月」に人類が滅亡するという解釈を行った人物だ。さてここで、五島勉氏は「解釈者」であって、「予言者」ではないのでは?と思われるかも知れないが、私的な意見を述べると、ノストラダムス当の人は「世紀末の滅亡」などとは、恐らくだが言っていない。

 筆者がノストラダムスという人を知る限りでは、彼は献身的な医者で、作家で、そして確かに予言者である。けれども、彼が生きた中世という時代においては、占星術が学問として扱われ、未来を予知する事はきっと普通の範疇であった。なお、彼の予言というのは、中世フランスの当時をして「曖昧すぎて何を言っているのかわからない」と言われたようなものである。個人的な印象としては、ノストラダムスという人は、当時流行したペストと戦い、予言書や医療書によって地位をなしたベストセラー作家、けれどもきっと普通の範疇に収まる、良い人であった。
 そのノストラダムスを、「世紀末の滅亡の予言者」と捉え、解釈として発表し、オカルトブームの火付け役となった「ノストラダムス時代」を現代に作り上げたのは五島勉その人である。そういう意味では、筆者は彼こそ「世紀末の予言者」であったと考える。

 五島勉の『ノストラダムスの大予言』の影響が実際の社会にて如何ほどのものだったかは、1999年当時物心がついたかついていないか曖昧であった時分の筆者には真には分かりかねる。あるいは、「ノストラダムス時代」以降に生まれた、もしくは物心ついた世代にとっては、生きている現在、予言は当たっていないのだから、なんて馬鹿馬鹿しいこともあったのだと、そう思うかも知れない。

 しかし筆者は筆者なりに想像する限り、そうは思わない。世紀末、西暦の長いミレニアルが終わり、2000年がやって来る。「だけれども、本当にそうだろうか?」という不安もあったのではないだろうか。それまでの時代を筆者なりに想像するにあたって、かつては西暦というのは1000の代というのが当たり前で、まさか2000年がやって来るとは、分かってはいるけど、分からないというのが感覚としてあったのではないか。筆者の想像する限り、そんなミレニアルの終わりという感覚は、もう1000年経って3000年になってみないとわからないだろう。そんな歴史の節目であった。
 2000年など、それ以前の多くの漫画やアニメにおいて、遠い未来の話で、それが実際にやってこようとはという感情。ちょうど五島勉氏が火付け役となった「オカルトブーム」においても、この世にないもの、わからないもの、そんな物が取り沙汰され、ある種の世情不安を呼んだ。
 そんな不安の一例が、コンピュータにおける「2000年問題」などにも現れたのだろう。そしてそこに、ちょうど1999年で人類は滅亡するという「予言」があった。それは、一定の真実味があったのではないだろうか。歴史の節目、2000年。冷戦も終結し、太平無事になったように思われる世の中。しかし、2000年、2000年である。人類の歴史の中で、紀元後たった二回しかない1000の節目。末法思想にも近い。そんな特別な歴史の節目に何かがあると、思った、思いたかった人も多かったのではないか。
 付け加えれば、当時はまだまだインターネットというものは普及しておらず、テレビや本といったメディアの力は今よりもずっと強かった。そんなメディアが、視聴率のため、あるいは面白がって、こぞって「大予言」を取り上げる日々。世情不安定な1990年代。そして迫る1999年。多かれ少なかれ、不安はあっただろう。

 Twitterの大槻ケンヂ氏のツイートにて、氏は「1999年7月にて、人類は滅亡する言う前提で、少年時代を生きてきた」、「結局(1999年には)滅亡しなかった、以降ははおまけの人生を生きているボンヤリ感が今もある」というツイートを見て、改めて考えさせられた。

 かつて確かに「ノストラダムス時代」はあったのだ。「1999年の終末」を信じて、どうせ滅亡するのだからと、財産を使い果たしてしまった人という話も聞いたことがある。そこまで極端に行かずとも、当時の日本人の多くは、なんとなくぼんやりと「終わるかもしれない」あるいは「終わらずとも何らかの節目」として捉えていたのではないだろうか。そして、終わらなかった今、「ノストラダムス時代」を生きた人間にとって、やはりぼんやりと「1999年7月」は節目として、人生を指し図る一つの基点として、記憶にあるのではないだろうか。

 2012年にも、「マヤ文明の予言」として、世界の終末が予言されたという騒動があった。結局それも外れたのだが、1999年の「大予言」への熱意は、2012年の比ではなかっただろう。
 日本人の多くが「終末」の存在を、程度の差はあれども想った。それは一体どんな気持ちでどんな時代だったのだろうか。筆者には、やはり真には分からないけれども、そういう時代があったという事を、真剣に考えてみたい。そんな事を思った。

 今日も空は晴れている。予報は外れた。世界は終わらない。予言は外れた。だが、しかしいつかは?
 明日のことは、良くも悪くも、人間には分からないのである。


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2020年07月21日

【エッセイ】ど~でもい~であろう筆者の小説裏舞台話/ブンガク的な性癖ぶっちゃけ話

この記事では筆者のネットに投稿した作品のネタバレが含まれています。一応ご注意を。あと筆者の小説を呼んだ上で読むとより面白いかも知れません。(宣伝)


 
 筆者はいくつか小説を書いている。発表していない作品、ネットではない場所で発表した作品、ネットで発表した作品、全部合わせても十とちょっとほどで、何らかの実績があるわけでもないのだが、まあアマチュア小説家の端くれの端くれくらいは名乗っても良いんじゃないかと思っている。

 最近はカクヨムにて『落日の幻想帝国』というお話を書いた。とある帝国が滅びる時に、人は何を思うのか、国が滅びるということは、国とはなにか的なテーマで書いたお話である。今読み返すと、いささかテーマにこだわるあまり、小説としてのまとまりが薄くなってしまったような感もあるのだが、ともかく完結させることが出来て良かった。

 さてここからが本題のようなものなのだが、題して「恐らく多くの人にとってど~でもい~であろう筆者小説の裏舞台」である。要するに小説を書く筆者は何を考えて小説を書いていたりするのかという事を、裏舞台として暴露してみたい。

 まず筆者の小説、プロット段階では必ずと言っていいほど人が死ぬ。特に主人公が死ぬ。なんでだろう。筆者にもわからない。筆者自身構想を練る時「人が死ぬ話しか書けんのかおどれは!?」と自身にツッコミを入れたくなるほどである。

 例えば最新の作品である『落日の幻想帝国』、主人公はだいたい20代前半あたりの女性をイメージしていたのだが、プロット段階では筆者は思った。帝国の滅亡という設定、そして若い女主人公。これはもう最後は主人公を火の中に放り込んで自死させなければならぬ!と(何故?)。
 幸いなことに、主人公は書いている内に筆者の気が変わった、あるいは物語の都合上で、死ななくても良いことになった。めでたしめでたしというエンディングではないのだが、ちょっとだけスッキリする希望がある終わり方にになった(なってしまった)。そして未だにどうにかして火の中に投げ込みたかったという危ない未練もないではない。だってさあ、うら若き乙女が帝国の滅亡とともに自ら火に飛び込むってそれもう芸術でしょう・・・。どうにかして実現させたかった。いずれ懲りずに何処かで使い回すかも知れない。

 その前に書いた『お月さま』の女主人公(十五の少女)は、ズバリ死なせるつもりで書き、実際死んだ。しかもラストシーンは同じく十五歳の少女の死体の山が発見されるというオチである。なんだか筆者は今まで書いた小説、プロット段階では「かしら言葉」を使うような乙女な女の子が主人公で、しかも最後にそれを死なせるというのだから、筆者は何だ、危ない猟奇趣味者か何かなのかと思ってしまう。

 しかし筆者は思うのである。うら若き儚い乙女がなんだかんだあって死ぬ。これはもう文学であると!

 やっぱり危ねえやつだな!と思われないように断っておくが、文学作品にも実際そういう作品は多いし、大体文豪と呼ばれる方々は、失礼を承知で言うと大体変態である。だから筆者も立派な小説家を目指して性癖をさらけ出すのである。あーこれは仕方ないことだ。

 なお、どうして筆者が「うら若き乙女」にこだわるのかというと、もちろん真面目な性癖上の問題もあるのだが、「うら若き乙女」は筆者自身に対して恐らく人間という存在の中で対極に位置するであろう存在だからである。おなじ人間という存在でありながら、対極の遠い場所にあり、だからこそ筆者にとって一定の神秘性をもって輝いている。つまり美しい存在であり、美しい存在だからこそ、蝶のように舞い、美しさを振りまいて、そして死んでほしいのである。滅びの美学である。これは文学的な真面目な話である。

 一応断っておくと、無論筆者は現実で人を傷つけるつもりは一切ない。小説であるから、あるいは小説だからこそ、自らが作り上げる世界の中で、性癖を発揮したいのである。
 付け加えれば筆者は人を傷つけたいというよりは、むしろ「うら若き乙女」側に自己投影したある種のマゾヒズムをも含んだオートガイネフィリアとオートアサシノフィリアが入り混じりった性的興奮というよりは精神的満足感、充実感を得る性癖が・・・これ以上書くと流石にドン引きでは済まされ無さそうなので止めておく。

 なんだか途中から暴走して筆者の性癖暴露になってしまって恥ずかしい限りであるが、あえて隠すこと無くそれを記事にしたい。
 というのもかつて確か三島由紀夫が、「小説家というのはみな精神的露出狂である」というようなことを言っていたが、実際面白いと思われるような作品を書くには、やはり作者の精神的な性癖なりをありありと見せつけないとならないのではないかと、小説家の端くれの端くれの筆者としても思うところである。だから『お月さま』書いている時にちょっと興奮してましたとかぶっちゃけても、それは小説家として問題ないのである(人間的には大いにあるよ)。


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2020年07月18日

【変な夢エッセイ】シュワちゃん刑事に逮捕され、「I'll be back!」、そして冤罪判明!なんじゃそりゃ!

  大変奇妙な夢を見た。
 大抵の場合、変な夢を見たと言ってそれを人に話しても、他人のとりとめのない夢の話などされてもナンノコッチャとあまりウケがよろしくない。
 しかしこの度筆者が、たった今見た夢はなかなかに複雑怪奇で、ツッコミどころ満載の面白さがあると思うので、書いてみる。

 夢の中。ショッピングモールの古書店を訪ねていた。すると、なんと我が敬愛する御大、H・P・ラヴクラフトの作品が載った本物のパルプ雑誌が置いてあるではないか。しかしお金がない。なので筆者は、どうやらそれを盗んだらしい。万引きである。らしいというのは、過程をすっ飛ばしていつの間にかそういう事になっていたからである。夢ってそういうものである。

 うーんなかなかリアリティのある犯行動機である。ラヴクラフトマニアの方にはその価値が分かると思うのだが、要するにマニア垂涎のものなのである。一応断っておくが、現実では筆者は天地神明に誓って、一度も盗みなど働いたことはない。

 続く、盗みを行った筆者は、いつの間にかシュワちゃん刑事に捕まっていた!なんじゃそりゃ!
 
 筋骨隆々、ターミネーター2の服装をしたシュワちゃん刑事に肩を組まれ、徒歩で警察署まで連行される筆者。警察署はなんだかとてもこじんまりとしていた。

 そしてこの夢一番の名シーンである。
 警察署の長い廊下を歩きながら、シュワちゃん刑事に肩を組まれた。シュワちゃん刑事は言った。「I'll be back!」筆者は答える。「戻ってきます!」
シュワちゃん刑事「I'll be back!」筆者「戻ってきます!」・・・「I'll be back!」「戻ってきます!」、
「I'll be back!」「戻ってきます!」というやり取りはいつまでも続き、筆者は泣きながら更生を誓うのであった。なんじゃそりゃ。

 ちなみに筆者の盗みというのはどうやら冤罪であったらしい。なんじゃそりゃ。



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2020年07月17日

【エッセイ】わざとやってんじゃないか・・・?論

 Twitterには実に色々な人がいる。個人の自己表現は自由であるし、また特に、精神的な問題を抱えている人のアカウントなどに、ぎょっとするような事が書いてあったとしても、筆者もうつ病患者として気分が落ち込むと、不安定になって心配をかけるようなツイートをしてしまうこともある。不安定な精神状態の時のツイートは、筆者自身後から見てちょっとぎょっとする。でもその時はそういう精神状態なのだから仕方がないのだ。そのあたりの理解は、一つの精神病を患っている筆者なりに少しは深いと思っている。だから、仕方がないことではあるのだが・・・

 先に断っておくと、精神病というものは、自分は型にはまっていない、世間一般から逸脱したという自覚があったとしても、あんちきしょう、憎いDSM-Ⅴ(「精神障害の診断と統計マニュアル」の事、Ⅴは第五版という意味)は、我々の苦しい苦しい思考から生み出された産物を枠に固めて、型にはめてあの病気です、この病気ですと診断してしまう。実際、ある程度病気としての類型性は見られるし、精神病という曖昧さを含むものを診断するにあたっては、型にはめて診断するというのは仕方がないのだが・・・

 少し話がそれるが、統合失調症の患者の妄想主題というものは、時代によって変遷している。大昔は「狐に憑かれた」、明治期になると「電気」になり、あるいはテレビが普及する時代になると「テレビ」「光線」などといった内容になり、現代では「電波」とか、あるいは「インターネット」「思考盗聴」とかになる訳だ。人間の想像力というものは、逸脱した精神状態にあっても、やっぱり底は知れているというか、やはりある程度の類型性と時代による「ブーム」がある訳である。

 そういう意味では、異口同音に皆「電波」を語ったとしても、決してわざとやってるわけじゃあない。精神病と言えども、あるいはただの病気である。人間を超えたり逸脱する訳ではない。そういう意味では、「人間」であることは変わらないとして、精神病患者の人権を擁護したいという立場にもなるのだが。

 それにしたって、キミ、わざとやってんじゃないか・・・?と思うような、そんな人もいらっしゃる。宇宙人にさらわれた、UFOがどうだ、電波が、思考犯罪が、ケムトレイルが、陰謀が・・・、キミ、それわざとやってんじゃないか・・・? 大変失礼ながらも、そういう事を思わざるを得ないこともある。
 精神病患者とまで行かなくても、陰謀論がお好きな方、気象兵器、人工地震、本人はきっと大真面目なのだろう。だけれども、客観的な視点から見ると、わざとやってんじゃないか・・・?とすら思ってしまうのだ。

 何も精神病患者だけではない。少々胡散臭い方々、情報商材を売りつけたり、やたらと元気で、師匠がいたり、何かに挫折してたり、まあ、みんなわざとやってんじゃないか・・・?ってくらい胡散臭い。

 Twitter歴の浅い筆者であるが、数多くのDMを頂いた。だいたい、フォローした直ぐ、あるいはこちらがフォローしなくとも、向こうから「フォローさせていただきました!」とDMがやってくる。お人好しなので、一応対応はするのだが、さてまあ、見てると面白いほどパターンが同じなのである。挨拶もほどほどに、ご趣味は?お仕事は?などと聞いて、そしてブログの状況を聞いて、「収益化」「アクセス数アップ」の話を持ち出してくる。ここであえて興味を見せる素振りをすると、何かのホームページやLINEのページやらを貼り付けて「さあどうぞ」と言うわけである。彼らがこのブログなど読んでるかはわからないが、一応断っておく。
言いたいことはわかってるよ、お断りします

 それにしても、あの胡散臭さ、本当に、わざとやってんじゃないか・・・?と疑いたくなるほどである。

 もっとも、人間はなかなか自分を客観視出来る生き物ではない。筆者自身だって、フォロワーのみなさんからはどう思われているのやらと、たまに心配になるが、このまえTwitterのアンケート機能を使った所、どうやら「普通の人」だったようである。果たして怪しい独自思想、独自考察を唱えているこの筆者がヤバい人じゃないのかという事は、筆者自身甚だ疑問なのだが、客観視すれば、まあ「普通」の範疇なのかも知れない。ただ、ある意味では、筆者自身、誰に「キミわざとやってんじゃないか・・・?」とか思われているかわからないと、自省しておく。

 


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2020年07月11日

(追記版)【考察エッセイ】「盗めるアート展」についての個人的所見 ~決まり事に担保された善悪論が崩れる時~

(2020/07/11午後8時追記):トレンド性の強い話題のためか、この記事はこのブログにしては比較的多くの方が読んでくださった。今現在特にお叱りもご批判もうけてはいないが、しかし、今現在を持って読み返すと、批判を恐れるあまり、のっぺりとした平坦な、何を言いたいのかわからない内容になってしまった事は否めないと感じた。そこで、こちらの記事は順次修正追記を行って充実させていく。
念の為、初版の記事を別途(初版につき、こちらは読まなくてもいいです)【考察エッセイ】「盗めるアート展」についての個人的所見 ~決まり事に担保された善悪論が崩れる時~で挙げておくが、前述の通り、ただのっぺりとした平坦な内容であることは否めないため、特に理由がなければこの記事をご覧になることを推奨する。

「盗めるアート展」の結果は必然的だった?



 最近「盗めるアート展」というのが話題となった。概説すると、「来場者は一人一点まで自由にものを持って帰って良い」というコンセプトに基づいた、一種のアート的、実験的試みなのだが、結果多数の人が殺到し、開始前から館内に人が雪崩込み、半ば暴徒と化したような様相を呈し、スタート前に全ての展示物が「盗まれ」、展示会は終了と相成ったという経緯である。
 この事については様々な意見が寄せられた。「盗めるアート展」という実験的試みに対して、このような結果に終わるということこそが、現代社会を反映した一連の「アート」であるという意見も筆者個人的に興味深かった。

 この記事では、「盗めるアート展」によって露呈した人々の心理、なぜこのような結果になったのか? という事を筆者個人的に「日本人の道徳観」と「群集心理」という点から思想的に論じてみたい。もちろん異論反論なども多くなるだろうし、扱う事がなにぶんトレンドの話題であるから、お叱りなどを受けることもあるかも知れないし、もちろん異論反論お叱りがあれば、それは受け入れるつもりだが、あくまでこの記事は浅学な筆者なりの拙い意見の一つとして、どうかご容赦いただいた上で読んでいただきたい。


「日本人」の道徳的規範と「群集心理」



 結論から言うと、筆者はこの現象は、「盗めるアート展」という特殊環境と、「決まり事に基づいた傾向のある日本人の道徳観」と「群集心理」との三つの結びつきによって必然的に起こったものだと考えている。

 一般に「日本人」は遵法精神の高い民族性をもった人々であると言われる。ではなぜそんな「日本人」がこのような半ば暴徒化したようなモラルのない行為行動を取ってしまうに至ったのか。

 なお、「日本人」というとても大きな主語を用いて言葉を使うのは本来、筆者の心情、理念にも反するし、もちろん例外などいくらでも挙げられるのだが、ここではその民族性という前提に立って、あえて「日本人」という大きな主語を用いて考察を進めてみたい。
 もちろん様々な異論反論などがあるだろうし、当然のことながら「あんな一部の人々を取り上げて「日本人」と一括にするな」というお叱りの声も当然あるかも知れないが、ここでは筆者なりの考え方の一つとして捉えて欲しい。

 なおこの記事で、いちいち「日本人」と括弧付きで表現しているのは、極めて大きな主語を扱っているという意味で、「日本人」という言葉の意味を、筆者自身が慎重に扱うという理念を忘れないため、また読者の皆様方がある種筆者に批判的になりながら、「大きな主語」を慎重に受け取ってほしいという意味合いを込めたものである。


 さて、「日本人」は一貫性のある「哲学」のない民族であるとよく言われる。
 例えば「丸山真男」的に言えば、様々な外来からの「宗教」であるとか「思想」によって影響を受け続けた結果による、「日本人」自身によって形成され得る思想的体系性の歴史的欠如であり、今日において「日本人」が雑多な宗教観を持ち合わせた、無宗教的な振る舞いを見せることもその一つであると言えるかも知れない。ただ、厳密に言えば「無宗教的」な振る舞いを見えるだけであって、「無宗教」ではない。人々の道徳的規範には「ご先祖さま」とか「お天道様」というような価値観が見られることもある。ただし、それが思想的に様々な価値観を取り入れた「足し算の思考」であり、体系化されていないから、「宗教的自認」が薄く、あなたは何の宗教を信じているかと外国人に問われた時に「無宗教」であると答えてしまいがちであるという話である。

 さて若干話が逸れたが、繰り返し述べると「日本人」における「思想」は不明瞭かつ不安定であり、体系性に乏しいという事である。筆者が言いたいのは、それが悪いとか劣っているとか言う話ではない世界には様々な民族の価値観があって、それはそれぞれ尊重されるべきであるし、「日本人的」な、良いものをたくさん取り入れるという「足し算の思考」というのも、多様性が重んじられる昨今の世界においては重要な理念であると筆者は考えるからである。

 ただ、今日においても「日本人」は「宗教観」であるとか「哲学」であるという「普遍的理念」を欠いて、その結果「法律」という「決まり事」によって「善悪感」が担保されている部分が大きいとも言えるのではないかと筆者は考える。つまり条文としての法律こそが、そのまま道徳的規範になっており、ここで一応断っておくが、もちろん法律というのは、日本においては主に西洋から輸入された西洋における「普遍的理念」に基づいて体系性をもった憲法、法律、民法という法学を学んだ人々によって作られ施工されており、法を学び、作り関わる側の人間というのは一定の「体系的な理念」を学んだ上で法を作って運用しているだろうし、そうであってほしいのだが、当の民衆側において、施工されている「法律」そのものの思想的、道義的意義を問うという試みは諸外国、具体的に言えばアメリカなどに特有なのだが、既存の法律そのものに対する道義的観点からの改善という社会改良行為は甚だ少ないと言える。

 つまり何が言いたいのかと言うと、私達「日本人」の善悪感はもともと「法律」という決まり事に依る所が大きいということである。「宗教的価値観」のようなものが薄く、「法律」で決まっているから盗みはいけないし、「法律」で決まっているから、人に迷惑を掛ける事は良くないという事である。法律が前提にあって、法律に決まってるから、法律を守る。なんだか鶏と卵のような話であるが、それが「日本人」に特徴的な道徳観の一つの前提なのではないか。
 もちろん、「日本人」個々人に道徳観が法律以外にないと言うのではない。個人個人は様々な事を考えて、法律に対しても様々な疑問異論を考えることもあるだろうが、ここで問題なのは、これは人類に普遍的なことなのだが、個人を超えて群衆化したときの「群集心理」は極めて不安定で衝動的で、判断力が低下し、価値観が単純化されやすいということである。
 人々の集合である群集心理において、私達の社会、社会という存在そのものが「吉本隆明」的に言えば、個々人の共同幻想的なものであると言えるが、社会という群集において、私達の道徳観はいよいよ「法律」という後ろ盾に一般化・一元化され、私達「日本人」が普遍的に持ち合わせている「法律的道徳観」こそが最後の後ろ盾になるとも言えるかも知れない。

 ここで「盗めるアート展」において、「盗んではいけない」という「法律」の前提が消えた。制限はあるとは言え、盗みが許容されたのである。すると不安定で衝動的な群集心理によって、「法律」によって規定された道徳性、後ろ盾の消えた群衆はいよいよ善悪感が薄れ、暴徒と化す。その結果が御存知の通りであるというのが、筆者による一考察である。

 ここで断っておきたいのだが、「盗んでも良い」という環境におかれれば、何も「日本人」に限らずあらゆる人類が群集心理として同じことを行うのではないかという疑問を抱く方もいるかも知れないが、「日本人」に特有なのは、「盗んでも良い」と言われて初めてこのような行為行動を行うのであって、もしもこれが「盗んでも良いけれど一応盗んではいけないアート展」というあからさまなタイトルの展示会であれば、このようなことは起こらなかったであろうというのが、筆者の考えである。というのも、「日本人」は実際、デモなどが暴徒化し、店などに押し入って略奪を行うという事例は、筆者の思う限り聞いたことがない。そういう意味では、確かに「日本人」は遵法精神が高い傾向にあると言える。
 そのため「盗めるアート展」という「法律が取り払われた特別な環境」という自体になって初めて、このように、極端に「日本人」は「暴徒化」するという傾向を述べたいのであり、そういう意味では、やはり「日本人」の道徳観は、「法律によって規定された」ものであるというのが、筆者の考えである。


終わりに・反省点(ぜひ読んでほしいです。)

 このブログでは珍しく、恐らく初めてトレンドの内容を取り上げた。筆者をして、このトレンドに乗ってみたいという下心が無かったわけではないが、それだけ今回の「盗めるアート展」という現象は興味深かったのである。もちろん、この記事の内容に関して異論反論などが、恐らくは大量にあるだろうことは予期しているし、異論反論ツッコミどころなどがあると予測しながら、急いて記事を書いてしまったのは、やはり筆者のトレンドに乗りたいという下心に依るものなのかも知れないと反省している。ただ、浅学な筆者なりの一考察として「そういう見方もある」くらいに受け取って欲しい。
 度々言い訳を重ねてしまったが、筆者は責任から逃れたいということではない。
 異論反論お叱りツッコミなどなどがあれば、このブログのコメント欄などで筆者にレスポンスして欲しいし、あまりに考え方に問題があると客観的な視点からの指摘を頂いて問題が露呈するようであれば、この記事は謝罪した上で削除させていただく。いささか臆病に過ぎるように思われるかも知れないが、それが筆者なりの、記事を書いて公開する上での一応の責任であり最低限の義務であると思っている。



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