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2020年07月07日

ヴァーチャリズム/バーチャリズム(Virtualism)の今日における思想的実践



(2020/07/10追記)わかりやすいヴァーチャリズムの定義について記事を書きました

もくじ
1.ヴァーチャリズムとはなにか
2.ヴァーチャリズムの今日のおける状況と実践
3.ヴァーチャリズムは実践可能であるか?
4.思想的側面からのヴァーチャル生活実践の補強
5.終わりに(本音をぶちまけるコーナー)←せめてここだけでも読んでください・・・筆者は思想的にヤバい人ではないので・・・

ヴァーチャリズムとはなにか

 ヴァーチャリズムとは今日、既存の用語として、美術的分野の意味をもつ言葉としても用いられているが、このブログで提唱するヴァーチャリズムとは筆者独自の考えである。その定義用法については【考察】ヴァーチャルの可能性とヴァーチャリズムの提唱の記事に詳しく書いた。この記事においても手短に説明するならば、ヴァーチャリズムとは現実を前提としないヴァーチャル世界の展開、ヴァーチャル世界それ自体の独立を目指す思想である。言い換えるならば、ヴァーチャル世界に現実が想定されない世界の実現である。現実世界と同程度かそれ以上の価値をもってヴァーチャル世界という存在が確立され、世界というものが複数並立可能であるという可能性を前提とした思想だとも言える。
いささか筆者の誇大妄想的なものでもあるが、昨今のヴァーチャル技術の発展にたいして思想的な面からの補強を行うという試みには何らかの意味があると信じている。前回の記事では、今後の技術発展を見込んだ未来に実現する世界観としてヴァーチャリズムを展開したが、この記事では現在におけるヴァーチャリズムの状況と実践について扱いたい。



ヴァーチャリズムの今日における状況と実践

 筆者の定義するヴァーチャリズムという思想は、今日、主にバーチャルユーチューバー界隈において一部では一定の形で実践を目指されているとも言える。Twitterの自己紹介文を参考にさせていただくと、バーチャルユーチューバーであるPhio(フィオ)氏はバーチャルで生きていける世界を目指した技術的な取り組みを行っており、またPhio氏の取り組むバーチャル世界の実現の試みをざっと見させていただいたが、極めて興味深い。
 また、メディアアーティストであり技術者の坪倉輝明氏もまた、Twitterの紹介欄にて、「テクノロジーを駆使して現実とデジタルの境のない世界」を目指していることを述べられており、ホームページのプロフィールにおいても、「現実とデジタルの境を曖昧にさせるような中間的な体験を創っている」といった事を書かれている。これも筆者の考えるヴァーチャリズムに近いとも言える。
 また、バーチャルユーチューバーでありポエムコアアーティストのミソシタ氏もまた、「ヴァーチャルで生きる」事をテーマにした楽曲を作成されており、代表曲の一つである「地下二階のレジスタンス」では、「リアルとヴァーチャル どっちも自分 結局魂は一つってこと」といった歌詞など、ヴァーチャリズムという観点からも極めて興味深い世界観が展開されている。また「革命前夜」の歌詞における、「Realじゃないが Fakeでもない 俺らはVirtual」と言った歌詞も、筆者の考えるヴァーチャリズムの理念と極めて近い。
 またVRプラットフォームである「VRChat」におけるヴァーチャル世界の様々なワールドにおいて交流を行い、バーチャル空間を生活の場として実践する試みも、ヴァーチャリズムの実践と言えるものであり、筆者もとても注目している。
 また、筆者が最も注目しているものとして、「バーチャル美少女受肉おじさん」こと「バ美肉」おじさんの存在が挙げられる。彼女ら(彼ら)はおじさんでありながら、おじさんであることを表明しつつ、ボイスチェンジャーやあるいは生声で、少女の姿のアバターを使って活動する方々である。現実にとらわれない、なりたいものになれる試み、まさにヴァーチャルの、ヴァーチャリズムの真骨頂ではないか。彼女らの存在を思想的に裏付けるために私はヴァーチャリズムを考えだしたと言っても過言ではない。
 以上僅かであるが、今日において筆者の考えるヴァーチャリズムに近いと言える試みをされている人々についての状況と実践について述べさせて頂いた。改めて色々な人々を見ると、筆者の想像以上に筆者の考えるヴァーチャリズムに近い行為の実践を既になされている人は多いという事に驚くと同時に感動を覚えた。

ヴァーチャリズムは実践可能であるか?

 さて、筆者の考えるヴァーチャリズムというものが、本当に実践可能なのかということについて今一度考えてみたいが、とても非現実的ではあるが、ヴァーチャリズムという考えがもしも全人類に浸透し理解されたならば、それは今日からでも全人類にとって実践可能であると考える。
 技術的に未だ未熟な部分があるとは言え、ヴァーチャリズムの本質は先に述べた通り、ヴァーチャルにおいて現実が想定されない事によって、ヴァーチャル世界が世界として成立し、独立することである。より平易に述べるのであるならば、ヴァーチャル世界は現実から独立したものであると考える事が出来たのならば、いささか極論すれば、その時点でその個人にとってはヴァーチャリズムは成立するのだ。つまり、技術的進歩に先立ってヴァーチャリズムがもしも思想として一つの立場を築く事が出来たのならば、ヴァーチャリズムを掲げる人々の間では、ヴァーチャリズムとして、ヴァーチャル世界を現実から独立させるという事は可能なのである。それがヴァーチャリズムが思想であるがゆえの強さであり、思想とは人々にとっての世界の認識を変化させ、規定するものであるからして、実践可能なのである。世界の認識について持論を述べさせていただくならば、世界とは決して絶対的にそこに横たわるものではなく、人々の認識によって変貌し、変化可能なものである。グローバル化やインターネットの普及によって、世界のあり方は大きく変化したように、重要なのは、人々の認識の問題なのである。



思想的側面からのヴァーチャル生活実践の補強

 ヴァーチャリズムをヴァーチャリズムとして定義づける事に今日においてどのような意味があるのか? 前文に少し書いたが、筆者としては、技術的な進歩によるヴァーチャル世界の発展に思想的な補強を加える事によって、可能である、あるいは可能になりつつある世界の実現に対して、理想的な姿を筆者なりに思想的に定義づける事によって、ヴァーチャル世界の発展を願うものである。思想的な側面からのヴァーチャルへのアプローチは、今日においても無いではないが、少ないと感じた筆者は、何か少しでもヴァーチャルの発展に寄与したいと思い、ヴァーチャリズムという思想を提唱することで、他人任せになってしまうが、この記事などを見た誰かがこの思想に感化される事を願っている。もちろん、思想的な側面からのアプローチというのは、あくまでヴァーチャルの発展ということに対しては二次的三次的な行為であって、最も尊ばれるべき行為は、日々行われている技術者の方々の努力や、バーチャルユーチューバーとして日々活動されている方の努力に他ならない。
 また、筆者なりに定義したヴァーチャリズムにおける理想的なヴァーチャル世界像に対して、もしこの記事などを読んでくださった方にとっては様々な異論反論を持つであろうことも想定されるが、それは筆者としても願っている限りである事であるので、なにか意見がある方はぜひメッセージを送って欲しい。筆者が真に願うのは、様々な意見の止揚によって、未だ不明確な側面の多いヴァーチャリズムというものが、より実践可能であり魅力的な、説得力を持つ思想として確立されるという事である。


終わりに(本音をぶちまけるコーナー)

 なんだかますます危ない思想というか宗教めいてきちゃったぞオイ!と思うところである。筆者としては、ヴァーチャルに現実を持ち込むのは夢とロマンをなくすし興を削ぐだけだからやめようねと言いたいだけなのだが、それに思想的裏付けをなんとかして与えたいと考えた結果がこれである。バーチャルの発展への寄与どころか、まかり間違えば見た人をドン引きさせかねないようなものになってきてしまってきて、本当に申し訳ない限りである。そういった点において、お叱りやご批判があれば、どうか送っていただきたい。


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voiceofdrone at 23:49│Comments(0)Vtuber | バーチャリズム

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