【書評】オトナになった今振り返る、小学校の図書室で読んだ児童書の怪談のあんな話こんな話の魅力【なろう系小説】「なろう系」考察論 ~「チートもの」についての物語的メカニズム考察~

2020年07月05日

【なろう系小説】現代社会における「なろう系」異世界ファンタジー論 ~「転生」の意味、現代社会からの離脱~

異世界転生というジャンルについて、社会的背景からの流行の考察


 現在、ライトノベルやアニメにおいては、「小説家になろう」サイトを舞台にして連載される「なろう系」というジャンルが人気であり、次々と書籍化、出版、映像化もされている。それらの内容には賛否あるが、流行しているという一点は否定できないことである。今回はそんな、外部から一見すると不思議な価値観すら共通している「なろう系」について、今回はとくに異世界転生ものについて、それらが何故流行したのかということについて考察したい。

異世界転生に始まる物語の共通項~現代社会からの離脱~


 なろう系における異世界ものと呼ばれるジャンルは、何らかの要因、具体的な例を上げるといわゆる「トラック衝突」というのが一つのテンプレートとなるほどに、現世において死亡し、異世界へ転生するというパターンが大きい。これを率直に受け止めるならば、現代社会の否定であり、離脱欲求であるということになる。もちろんそういった思想的背景ではなく、「なろう系」というジャンルにあたって異世界ものが多いのは、単に設定しやすい、ローファンタジーのような現実を下敷きにした物語よりも独自色が出しやすく、隅々まで自分の思うがままにできるという設定的都合もあるだろう。しかし、現世にて生存したまま異世界へ飲み込まれるとかそういったことではなく(もちろんそういった作品もあるのだが)、異世界へ転生する、転生、つまり、現世を完全に否定して、死後に迎えられる異世界へ舞台が完全に切り替わるという形式が流行したのには、一定の思想的共通項のようなものを感じずにはいられない。いずれも、現世の場面というものは冒頭の導入に過ぎず、それが死亡という強烈な形で行われるのは、今までの異世界もののように現世に「帰ってこない」事が前提であるからだろう。
 なろう系以前の古典的異世界ものというのは、現世の存在があり、異世界はあくまで夢のようなもの、いずれは夢から覚めて主人公が望むと望まざると、現世に帰ることになる。現世に帰った主人公は、異世界での経験を通じて成長している・・・というのが古典的異世界ものにおけるテンプレートなのではないか。しかし「なろう系」における異世界「転生」、転じて生を受けるという言葉通り、現実の介入する余地は少ないか存在しない。異世界そのものが主人公の活躍の場となり、主人公はあるいは初めのうちはそれに戸惑い「帰りたい」という欲求を抱きはすれども、異世界の冒険を通じて異世界に馴染む。「帰ってくる」事はほとんど想定されないのである。
 このような現世否定主義的な価値観にはなにか、単なるそういった形式を超えて異世界転生というものが当たり前になったのは、何らかの社会的背景の存在を感じずには、筆者はいられない。

「帰ってこない」異世界、現世が想定されない異世界の自由


 ここで一度、なろう系という作品群の流行ジャンルを振り返ってみたい。まず、ネトゲ系、VRMMO系作品というものがあった(今も一定数あるだろうが)。「ソードアート・オンライン」シリーズに代表され、熱狂的な人気を得たジャンルである。これらの世界では、異世界転生よりは現実的に、近未来の進化したVR装置によるヴァーチャル世界へのトリップという形で、さながら一つの異世界に旅立つかのような形の異世界ものである。ここで重要なのは、この時点では異世界へのトリップは、一時的なものであるという点である。
 そして次第に、異世界転生ものが流行り始めるのである。ネトゲ系的な、ファンタジーゲーム的な世界観は踏襲しつつも、異世界から「帰ってくること」がなくなった。現実の向こう側に理想的な異世界があるのならば、そちらに重点を置いて、「帰ってくること」を想定する必要はないということである。
 こうして振り返ってみると、まずVRMMO、ネトゲ系作品があって、次第に異世界からの帰還という要素が物語的に求められなくなっていったようにも思える。しかしまだ、作品的背景の説明にはなったが、現代の社会的背景的な考察は出来ていない。次節ではそのあたりのことを考察していく。

何かを得るということと、実利的、物質主義的な現代社会


 異世界転生ものの主人公は、ニートや引きこもり、元いじめられっこや社畜であるといったような現実からの落伍者や、現実に疲れ切っている人間であることが多い。ただこの事をそのまま、作者や読者層に適応することは安易な考えであり、間違っている。しかし、現実に対して一定の厭世観を持っているという事は共通しているのではないだろうか。なろう系の読者は様々である。中には痛烈に現実を否定したいと思う人間もいれば、単にファンタジー作品を読みたいという人間まで様々であろう。しかし問題なのは、「異世界転生」という現象が、読者の間で何ら疑問を持たれること無く、「なろう系」の普遍性として展開しているという点である。そういった社会的背景を筆者なりに考察するのであれば、やや安易な答えを出してしまえば、やはりこの現実世界での鬱屈といった経験を通じた厭世主義的な現実否定というものが考えられる。 
 現代社会という場は、日に日に競争社会化の一途をたどり、落伍者や、少しでも立ち止まってしまった人間は容赦なく置いていかれ、見放されるという構図が形成されつつある。
 そしてますます実利的、実力主義的、あるいは物質主義的であり、拝金主義的な社会が形成され、そんな中で、自己を肯定し定義づけるものを見出すことが難しい世の中に私達は生きている。そんな現世において一定の厭世観を感じるということは無理もないことなのではないだろうか。
 更に論を深めるならば、古典的異世界ものやVRMMO系ジャンルのような「帰ってくること」を前提とした作品は、帰ってくるにあたって何らかの成果、成長を得ていなければならない。しかし、異世界において得られる現実世界でも通用する価値とは一体何であろうか。異世界で何かを得たとしても、帰ってくれば物質的、実利的に価値あるものは何も残らず、ただ主人公は成長という曖昧なものだけを手に入れる。この事は現代社会においては、筆者をしても、若干物足りなさを感じるのも否めない。というかそう言った思想自体が現代社会における競争社会化、実利主義化の産物であり、そういった事を考えると泥沼化しそうであるが、重要なのは、異世界で何かを得て、異世界にてそれを得続けることが重要であるという価値観である。もっともそれは主人公の強さであるかも知れないし、仲間やヒロインなどかけがえのないものであるかもしれない。それらを捨ててまで、この実利的な実力主義社会に帰ってくる必要があるのかということでもある。
 なろう系異世界転生ものの現世否定主義について筆者の考えを概説するならば、現代社会の完全なる否定、「帰ってこない」事そのものが重要であり、異世界において自己を肯定しうるものを見つけ出し、自己を規定する。そんな価値観が共通しているのではないだろうか。

終わりに


 以上、なろう系作品の異世界転生について、それらが形成されるにあたる作品的、社会的背景を考察した。この記事では、意図的になろう系を肯定する視点に立って記事を書いてみたが、それは今日なろう系という作品群が否定的な視点で語られることも多い中、逆に、筆者なりにそれらが肯定されうるという論を立てたかったという事である。この記事ではなろう系のもう一つの要素、チート系というものについては考察していないが、それについても筆者の視点から、次回以降に論じてみたい。


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voiceofdrone at 17:45│Comments(0)エッセイ | 考察

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