【歴史エッセイ】「ここではないどこか」にあるユートピアを目指して ~理想郷の人類史~【セカイ系考察】「セカイ系」は何故流行したのか、社会的背景からの一考察 ~冷戦終結とグローバル化、変貌する私達の「セカイ」~

2020年07月07日

【セカイ系考察】「セカイ系」とはなんだったのか ~セカイ系作品の普遍性と「世界」と「セカイ」の違い~

「セカイ系」とはなんぞや?「セカイ」についての一考察



 「セカイ系」、1995年放送の「新世紀エヴァンゲリオン」に代表され、2000年代初頭のライトノベルやアニメ作品群においてしばしば定義されたジャンル名である。セカイ系という言葉の定義は難しいのだが、概説すると当初はいわゆる「エヴァっぽい」作品を総称した言葉として誕生したとされる。
 そこから様々に発展してより具体的となった「セカイ系」と定義される作品の共通性を挙げるのであれば、「ボクとキミ」の関係を重視し、かつそこに隣接する形で「世界の行く末」が決定される、その中間項の描写は存在しないか、ごく限られているという、言い換えればストーリー自体は「主人公」+「ヒロイン」という極めて狭い範囲で物語が展開されるのにも関わらず、登場人物の行為行動は世界全体の危機に直接関係し、世界の行く末を決めるという形式のストーリーと分析されている。
 「主人公」は作中の中枢に関わる重大なバックグラウンドを知らず知らずのうちに抱えているという場合もあるが、主人公自身はその事に無自覚であったり、もしくは本当に突然巻き込まれた一般人である場合もあるが、多くの場合ある日突然世界の危機の中心に巻き込まれるという形で物語はスタートする。主人公に関わる「ヒロイン」達は、皆世界そのものに影響を及ぼしかねないような重大な役目を担っているというケースが多い。そうでなくともヒロイン達は、何か宿命づけられた役目を担っていて、ただ巻き込まれただけの「主人公」の環境と対比されるという構図も多く見られる。


思春期的「ボク」とセカイ


 セカイ系という定義を概観するのであれば、これは極めて思春期的な価値観を持つと言えるであろう。実際、セカイ系とされる作品において、主人公とヒロインは中学生から高校生あたりと設定された、同年代の少年少女とされる事が多い。
 多感な「思春期」、「疾風怒濤の時代」とも表現される時期にある「ボク」は、世界においてどのように位置づけられるのかという問いが一つの普遍的思春期意識として掲げられる。そんな世界に対して疑問を持つ「ボク」の前に、もしもある種世界に対する重大な解を備えた、あるいは世界の意味そのものをも表現する「キミ」が現れたら… セカイ系のストーリーとは、もしもそんな多感な時期の「ボク」の前に「キミ」という存在がいたら、そんな風な前提があると解釈することが出来るのではないか。そして「キミとボク」の存在によって「ボク」の抱える世界への疑問が解消され、展開されるセカイにおいて、「ボク」の存在価値が決定されていく。(それは必ずしも肯定的価値であるとは限らないのだが)セカイ系のストーリーとは、そんな風に捉えることも出来るのではないだろうか。
 セカイ系における一件近視眼的とも思われる閉鎖的「セカイ」の存在は、究極的には「ボクとキミ」のためのもの、もっと現実的な言い方をするのであれば、読み手の代弁者でもある「ボク」の世界に対する疑問を解消するための「キミ」の存在であり、「セカイ」なのである。

「世界」と「セカイ」の違い

 ここで少なくともこの記事において筆者が考えている、言葉の定義をはっきりとさせておかなければならない。セカイ系作品において展開される「セカイ」と、一般に言われる「世界」とはどのような違いがあると筆者は考えているか。「世界」とは、自分がいてもいなくても成立する、個人的視点に依らない実際的な全世界である。例えて言うならば、「ボク」がいてもいなくても世界は何ら変わらずに回っていく。
 一方でセカイ系作品においてまさにそれが「世界」ではなく「セカイ」とカタカナで表記される、あるいは揶揄されるような形で表現される「セカイ」とは一体どのような違いがあるが故なのだろうか。
 「セカイ」とは、あくまで主人公である「ボク」の存在が前提となった、人間原理的世界である。「セカイ」の範囲は様々で、細々とした事は抜きにしても一応は広く全世界を舞台とした「セカイ」もあれば、「ボク」の生活に関係する、視界に収まる範囲である場合でもある。ただいずれにせよ、「セカイ」の存在は、「ボク」の自意識において定義される。「ボク」の存在無しには「セカイ」は存在し得ない。いやむしろ「ボク」がいないのであれば「セカイ」が存在していたところで意味がない、「ボク」が観測可能であるという意味で「セカイ」は成り立つのである。
 ただここで筆者の意見を差し挟ませていただくならば、私達人間個人個人が現実に見ている「世界」もまた「セカイ」的であるという点である。ある個人にとって普段語られる世界とはあくまで自らに身近な、近視眼的な「セカイ」である場合も多い。前述の通り、無論「世界」は私達が、自分自身がいてもいなくても成立する。実際的な意味を込めて言うならば、今日も私達の見ず知らずの人々が世界中で生活しており、世界中で世界は周っていく。
 そのような意味における「実際的世界」はあるいは「世界」ではなく単に「地球」と表現するべきであろうか。実際「世界」という言葉の意味はしばしば限定されるし、歴史的にも「世界」の範囲は時代によって変遷してきた。近代以降において、交通機関や情報の普及網といったインフラが全地球を覆い尽くし、全地球そのものが「世界」として、物理的に繋がれる前の前近代においては、東アジア世界、ヨーロッパ世界、中東世界といった様々な世界が並立して地球上に存在していた。そういう意味では「世界」という単語を「セカイ」と区別して定義するまでもなく「世界」という言葉には、世界を観察する自分自身とその周辺という、私達の自己認識を前提とした、近視眼的意味合いが含まれていると言ってもよいだろう。
 話が少々それてしまったが、何が言いたいかと言うと、普段私達が生活して見ている世界も、自己認識を前提とした前述にて定義した「セカイ」的なものであるという存在であるという事である。


セカイ系作品の普遍性

 セカイ系作品に存在する普遍性、それは「主人公」、「ボク」の前に横たわる「セカイ」にはどんな意味が存在するのかという事を解き明かすという点にあると考えられる。セカイの意味を解き明かす、その結果出た答えが肯定的なものであるか、否定的なものであるかはさておいて、ともかく作中で、「セカイ」の存在は定義される。その結果導き出されたセカイの在り方が広く一般的な意味であるか、言い換えれば普遍的であるかということではなく、答えを出そうという試みそのものに普遍性があるのだと筆者は考える。
 もっとも、ここで注意しておかなければならないのは、セカイ系作品においては、「セカイ」の「答えを探そうという試み」は行われるけれども、前述した通り、そのセカイが必ずしも、現実的な全地球という意味での範囲の世界であるか、あくまで主人公の視界の範囲にのみ横たわる狭い世界なのかという事、あるいは導き出された「答え」が明確であるか、はたまたそもそも「答え」などあるのかという事は作品ごとにまちまちであり、はっきりとしないという点である。

終わりに

 今回は筆者の視点から、セカイ系作品とはなんだったのか、セカイ系作品とはどのような普遍性があるがゆえに流行したのか、という事についてまとめてみた。もっとも、セカイ系という言葉の定義は今日をして、まだ不明確な点も多い。その点で言えばこの記事におけるセカイ系と筆者が定義したものについても、異論反論があるかも知れないが、ご容赦願いたい。
 さて、次回の記事では、もっと現実的世相的な視点から、1995年の「新世紀エヴァンゲリオン」放映以降のセカイ系作品の流行という点を社会的な側面から考察する試みや、セカイ系ブームが終焉に向かった原因についても、またいずれ機会があれば考察してみたい。

(追記)【エッセイ】「セカイ系」は何故流行したのか、社会的背景からの一考察 ~冷戦終結とグローバル化、変貌する私達の「セカイ」~において、現実世界の社会的背景から、セカイ系作品を考察する記事を書いたので、よろしければこちらも是非。


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voiceofdrone at 16:40│Comments(0)アニメ | 考察

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