2020年07月11日

(保存のための初版につき、こちらは読まなくてもいいです)【考察エッセイ】「盗めるアート展」についての個人的所見 ~決まり事に担保された善悪論が崩れる時~



追記:こちらは初版の記事をそのまま掲載したものです。追記版と比べてのっぺりとした平坦な何を言いたいのかわからない文章になってしまっているため、こちらを読むのはおすすめしません。あくまで念の為に「初版」として保存しておくためのものです。



 最近「盗めるアート展」というのが話題となった。概説すると、「来場者は一人一点まで自由にものを持って帰って良い」というコンセプトに基づいた、一種の実験的試みなのだが、結果多数の人が殺到し、開始前から館内に人が雪崩込み、半ば暴徒と化したような様相を呈し、スタート前に全ての展示物が「盗まれ」、展示会は終了と相成ったという経緯である。
 この事については様々な意見が寄せられた。「盗めるアート展」という実験的試みに対して、このような結果に終わるということこそが、現代社会を反映した一連の「アート」であるという意見も筆者個人的に興味深かった。
 この記事では、「盗めるアート展」によって露呈した人々の心理、なぜこのような結果になったのか? という事を筆者個人的に「日本人の道徳観」と「群集心理」という点から思想的に論じてみたい。もちろん異論反論なども多くなるだろうし、扱う事がなにぶんトレンドの話題であるから、お叱りなどを受けることもあるかも知れないし、もちろん異論反論お叱りがあれば、それは受け入れるつもりだが、あくまでこの記事は浅学な筆者なりの拙い意見の一つとして、どうかご容赦いただいた上で読んでいただきたい。


「日本人」の道徳的規範と「群集心理」


 一般に「日本人」は遵法精神の高い民族性をもった人々であると言われる。「日本人」というとても大きな主語を用いて言葉を使うのは本来、筆者の心情、理念にも反するし、もちろん例外などいくらでも挙げられるのだが、ここではその民族性という前提に立って、あえて「日本人」という大きな主語を用いて考察を進めてみたい。
 もちろん様々な異論反論などがあるだろうし、当然のことながら「あんな一部の人々を取り上げて「日本人」と一括にするな」というお叱りの声も当然あるかも知れないが、ここでは筆者なりの考え方の一つとして捉えて欲しい。

 なおこの記事で、いちいち「日本人」と括弧付きで表現しているのは、極めて大きな主語を扱っているという意味で、「日本人」という言葉の意味を、筆者自身が慎重に扱うという理念を忘れないため、また読者の皆様方がある種筆者に批判的になりながら、「大きな主語」を慎重に受け取ってほしいという意味合いを込めたものである。


 さて、「日本人」は一貫性のある「哲学」のない民族であるとよく言われる。
 例えば「丸山真男」的に言えば、様々な外来からの「宗教」であるとか「思想」によって影響を受け続けた結果による、「日本人」自身によって形成され得る思想的体系性の歴史的欠如であり、今日において「日本人」が雑多な宗教観を持ち合わせた、無宗教的な振る舞いを見せることもその一つであると言えるかも知れない。ただ、厳密に言えば「無宗教的」な振る舞いを見えるだけであって、「無宗教」ではない。人々の道徳的規範には「ご先祖さま」とか「お天道様」というような価値観が見られることもある。ただし、それが思想的に様々な価値観を取り入れた「足し算の思考」であり、体系化されていないから、「宗教的自認」が薄く、あなたは何の宗教を信じているかと外国人に問われた時に「無宗教」であると答えてしまいがちであるという話である。
 さて若干話が逸れたが、繰り返し述べると「日本人」における「思想」は不明瞭かつ不安定であり、体系性に乏しいという事である。筆者が言いたいのは、それが悪いとか劣っているとか言う話ではない世界には様々な民族の価値観があって、それはそれぞれ尊重されるべきであるし、「日本人的」な、良いものをたくさん取り入れるという「足し算の思考」というのも、多様性が重んじられる昨今の世界においては重要な理念であると筆者は考えるからである。

 ただ、今日においても「日本人」は「宗教観」であるとか「哲学」であるという「普遍的理念」を欠いて、その結果「法律」という「決まり事」によって「善悪感」が担保されているとも言えるのではないか。つまり条文としての法律こそが、そのまま道徳的規範になっており、ここで断っておくが、もちろん法律というのは、日本においては主に西洋から輸入された西洋における「普遍的理念」に基づいて体系性をもった憲法、法律、民法という法学を学んだ人々によって作られ施工されており、法を学び、作り関わる側の人間というのは一定の「体系的な理念」を学んだ上で法を作って運用しているだろうし、そうであってほしいのだが、当の民衆側において、施工されている「法律」そのものの思想的、道義的意義を問うという試みは甚だ少ないと言える。

 つまり何が言いたいのかと言うと、私達「日本人」の善悪感はもともと「法律」という決まり事に依る所が大きいということである。「宗教的価値観」のようなものが薄く、「法律」で決まっているから盗みはいけないし、「法律」で決まっているから、人に迷惑を掛ける事は良くないという事である。
 もちろん、「日本人」個々人に道徳観が法律以外にないと言うのではない。個人個人は様々な事を考えて、法律に対しても様々な疑問異論を考えることもあるだろうが、ここで問題なのは、これは人類に普遍的なことなのだが、個人を超えて群衆化したときの「群集心理」は極めて単純化されやすいということである。人々の集合である群集心理において、私達の道徳観はいよいよ「法律」という後ろ盾に一般化され、私達「日本人」が普遍的に持ち合わせている「法律的道徳観」こそが最後の後ろ盾になるとも言えるかも知れない。

 ここで「盗めるアート展」において、「盗んではいけない」という「法律」の前提が消えた。制限はあるとは言え、盗みが許容されたのである。すると群集心理によって、「法律」という道徳性、後ろ盾の消えた群衆はいよいよ善悪感が薄れ、暴徒と化す。その結果が御存知の通りであるというのが、筆者による一考察である。



終わりに・反省点(ぜひ読んでほしいです。)


 このブログでは珍しく、恐らく初めてトレンドの内容を取り上げた。筆者をして、このトレンドに乗ってみたいという下心が無かったわけではないが、それだけ今回の「盗めるアート展」という現象は興味深かったのである。もちろん、この記事の内容に関して異論反論などが、恐らくは大量にあるだろうことは予期しているし、異論反論ツッコミどころなどがあると予測しながら、急いて記事を書いてしまったのは、やはり筆者のトレンドに乗りたいという下心に依るものなのかも知れないと反省している。ただ、浅学な筆者なりの一考察として「そういう見方もある」くらいに受け取って欲しい。
 度々言い訳を重ねてしまったが、筆者は責任から逃れたいということではない。
 異論反論お叱りツッコミなどなどがあれば、このブログのコメント欄などで筆者にレスポンスして欲しいし、あまりに考え方に問題があると客観的な視点からの指摘を頂いて問題が露呈するようであれば、この記事は謝罪した上で削除させていただく。いささか臆病に過ぎるように思われるかも知れないが、それが筆者なりの、記事を書いて公開する上での一応の責任であり最低限の義務であると思っている。



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【エッセイ】自然の美の無遠慮で限界のない完全性 ~朝焼けの中のコントラストと初日の出の体験~


 夜が終わり朝が登ってくる瞬間、東の空がオレンジ色を帯びてきて、西の夜のブルーと混ざりあった澄んだエメラルド色にも近いオレンジとブルーのコントラストほど、美しいものはそうは無いと言える。これが見られる時間は季節によって違うのだが、概ねわずかな間であり、たまたま偶然に早くに起きて、立ち会えるという事がほとんどである。そのほんの一瞬の美が自己の中でこだまして、何度も繰り返されるのが、とてもとても長い時間のように感じられ、それが本当に美しいものを見るということの素晴らしさだと筆者は思う。

 思えば、自然というものはなんて美しいのだろう。
 いつだったか、故郷の凍てつく元旦の朝、線路脇の道路から、ずっと初日の出が見られるのを待っていた。その日は本当に冷え込んで、氷点下の早朝に、薄い外套一枚羽織り、30分以上も待っていたから、足は冷え切って、凍傷になるんじゃないかと本気で思ったほどである。しかし、その時間は無駄ではなかった。

  山間の隙間から、光が溢れた。それはまさに息を呑む美しさであった。カメラを持ってきていたが、写真を取ろうなどという気にはならなかった。そんな事をする余裕があるなら、一刻も長く、この溢れる美に目を凝らしていたいと思ったのだ。
 陽はだんだんと登って、山の輪郭からいよいよ形を表そうとする頃には、黄金色の中にあらゆる色が凝縮されたような、凄まじい閃光を放ち、真円を描こうとしていた。
 世界の地域によって太陽を表す色は違うというのもよく分かる。まさに陽の光はあらゆる色を含んでいるのだから。黄金より美しい黄金色はまさに調和と鮮烈の相反するものを伴った矛盾する美であった。このような矛盾がなし得るのは、まさに自然の業であろう。
 筆者は半ば我を忘れ、この美を心に焼き付けなければならないという使命感のもと、元旦の太陽をいつまでも見ていた。結局一時間以上も寒空の下にいたのだが、途中からは寒さなどは感じなかった。
 どんなに人類が作り出した美を揃えた大美術館に行ったとしても、このような美の体験をすることは出来ないのではないか。思うに、人間の作り出す事の出来る美にたいする称賛とは、人間が人間であるが故の限界そのものを描き出すことに対する、人間賛美の意味を込めたものではないだろうか。それ故に人間の作り出す美は美術と「美の術」と書いて、人間の理性と想像というある種の制限を伴った中での表現である。それは調和とか技術とかが整えられた美であるからして、自然の作り出す美というものとは違う。
 自然の美というのは、もっと無遠慮で、限界のない、その上で自然界の法則に基づく調和を兼ね備えた完全性である。
あの美しい初日の出という自然の人知を超えた美そのもののイデアとも言えるようなものは、今日を持ってしても、筆者の心に鮮烈に焼き付いて、この先の一生、美とは何かと問われることがあれば、真っ先にあの陽の美しさを答えるであろう。


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voiceofdrone at 07:26|PermalinkComments(0)エッセイ 

2020年07月10日

【私的アニメ論】日常系アニメはなぜ需要が高いのか ~「一過性の体験の共有」としてのコンテンツ論と日常系~

安定した需要のある日常系アニメ。アニメというコンテンツの構造からその需要を解明する。


 日常系アニメ。その作品世界での日常に流れる空気を描いている作風から「空気系」と呼ばれることもある。
 日常系アニメを定義づけたり、体系立てて、その中から類型論的なものを考えることは難しい。それほど日常系アニメというものは多様で様々だからである。例えば同じ高校生活を描くとしても、高校生活の三年間を時間の流れとともに描く作品もあれば、いわゆる「サザエさん時空」的に卒業や進級が想定されない、もしくは進級というイベントはあっても卒業はしないと言ったストーリーのものまで様々だからである。
 あえて昨今の日常系アニメの定義を定義付けると、Wikipediaの「空気系」というページからの引用になるが、「若い女の子たちのまったりとした日常を延々と描くタイプの作品」となる。若干曖昧にすぎるが、多種多様な「日常系」を総括しようと思えばこうもならざるを得ないだろう。
 さて、少々前置きが長くなったが、この記事では「日常系」というアニメが何故人気を博し、今日においてもクールごとに安定していくつかの「日常系」アニメが放映され続けているのか、コンテンツ論的な視点からの需要の理由について考察してみたい。



体験の共有ツールとしての「メディアコンテンツ論」


 昨今のコンテンツの大量生産大量消費とも言える、「コンテンツが消費」される社会においては、何もアニメに限ったことではないのだが、情報化社会によってますます、放映される映像・音楽などのメディアコンテンツは視聴者の間で一定期間の感想と体験を共有する「ツール」としての役割が色濃くなってきたと言えるであろう。
 特に深夜アニメにはこの傾向が強い。それは、いわゆる「オタク」という視聴者層がインターネットの利用率が特に高く、特に匿名掲示板上やSNS上などで見られる実況文化とはまさに「体験の共有」に他ならず、さらに言えばそのために「消費型コンテンツ」に対する需要が高いからだと言えるだろう。
 一応断っておくと、「消費」と言っても文字通りに「消費」され「忘れさられる」という意味ではなく、「一定期間における体験を共有するコミュニケーションツール」として「使い果たされる」という意味が強い。それでもいささか否定的な言い方となってしまうが、筆者は何もそれを憂いているわけではないし、批判しているわけではない。
 むしろこの情報が洪水のように溢れる時代において、放映されるワンクールごとの映像コンテンツがそのような傾向を取らざるを得ないのは、いくら多数の視聴者がいるとは言え一人の視聴者の目は二つしか無く、脳は一つしかないのだから、一度に同時に摂取できる「コンテンツのカロリー」とも言えるものは制限されざるを得ないし、特に昨今におけるアニメ業界のまさに「コンテンツの洪水と飽和」状態において供給側が利益性を担保しつつコンテンツを制作し供給するということは、「コンテンツの消費による一過性の体験の共有の提供」という視聴者にとっての日常の一部として、いわばなるだけ摂取カロリーの少ない形をとらざるを得なく、供給側がそうであるのだから消費する側においても必然的にそうならざるを得ないとも言える。
 付け加えるならば、一般的に映像コンテンツのジャンルとは「共有される体験」の種類によって規定されるともとれる。
 では、「日常系アニメ」の場合にはどのような「体験の共有」がなされるかと言えば、まさに「若い女の子たちの日常風景」という体験を視聴者はまず「作中キャラクター」と共有し、そして実況という同期的なインターネット上での視聴者同士の体験の共有を持って、視聴者は満足するという構図があると言える。注目すべきなのは、「作中キャラクターとの体験の共有」が「日常系アニメ」は日常であるがゆえにその傾向が色濃く、さらに日常という波風の立たない「摂取カロリーの少ない」ジャンルだからこそコンテンツを享受する視聴者からの需要が高いとも言えるであろう。

実利主義的社会におけるただの日常という非実利性の重要性

 さて、前節ではいささか斜に構えたコンテンツ論を展開してしまったが、繰り返し断っておくが筆者はそのことによって視聴者および供給側の在り方を否定するつもりはないとはっきり言っておく。これは情報化社会という社会背景に規定された必然的な現象であるからだ。だがしかし、「社会背景を踏まえた供給側の事情による消費的コンテンツ」に対して、これはやや矛盾したように聞こえるかも知れないが、「オタク」という視聴者層は、「消費型コンテンツ」を受け入れて求めつつ、ただやはりどこか「コンテンツを消費し続ける」事に疲れを感じるような視聴者も多いのではないだろうか。
 それを踏まえて、「日常系」の需要が高い理由を論じると、この「コンテンツの洪水」社会における実利主義的な色が濃いコンテンツそのものの在り方に対して疲れ切った視聴者にとって、「日常系」において展開される「ただ流れるほのぼのとした日常」という非実利的なジャンルが受け入れられたと捉えられるのではないだろうか。
 さらに言えば、一定のテーマとストーリー性を持った、「ヘビーカロリー」な作品に対して、いわば箸休め的な意味合いで、日常系アニメは発明され、その普遍性ゆえに今日においても安定した需要があり続けるのだと、筆者は考察する。
 若干蛇足になるかも知れないが、この論理に基づけば、いわゆる「日常系アニメ」における「突然のシリアス展開」が多くの場合否定的に取られる理由も説明がつく。何故ならば、「シリアス」という展開によって箸休め的コンテンツである「日常系」を見ていた視聴者は予期せぬ「ヘビーカロリー」を摂取することとなり、そこに需要との食い違いが発生するからと考察できる。


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voiceofdrone at 23:10|PermalinkComments(0)考察 | アニメ

【最果ての土地シリーズ③】巨大島グリーンランドの不思議な歴史と現在 ~なぜデンマーク領なのか?~

(グリーンランドの地図、Wikipediaより引用)
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 最果ての土地シリーズ第三段でお送りするのは、巨大島、グリーンランド。面積は2166088キロ平方メートルと、日本の6倍でその85%が氷床に覆われている。地球上の真水の実に7%がグリーンランドに蓄えられている。
 世界最大の島であり、大陸の定義とはグリーンランドより大きいこと、島の定義とはオーストラリア大陸よりも小さいことである。
 さて、この凍てついた北方の地がなぜデンマーク領なのか? と、気になったことがある方も多いのではないだろうか。それを知るためには、この巨大な島の凍てつく大地に隠された長い歴史を紐解かねばならない。


定住と消滅を繰り返すグリーンランドの文化の歴史


●バイキング以前史



 グリーンランドは少なくとも紀元前2500年頃からイヌイットによる人類の定住が確かめられている。「サカク文化」と呼ばれる古代文化がグリーンランド南部において紀元前2500年頃から紀元前800年頃にかけて繁栄した。またグリーンランド北部においてもインデペンデンスフィヨルドと呼ばれるフィヨルドの周辺で発展した「インデペンデンスⅠ文化」と呼ばれる古代文化が紀元前2400年頃から紀元前1300年頃まで発展していたが、気候の寒冷化とともに消滅してしまった。また、「インデペンデンスⅡ文化」と呼ばれる古代文化がグリーンランド最北部においても紀元前800年から紀元前80年頃にかけて見られた。紀元前の時代からグリーンランド北部などという考えるだけでも凍てつくような土地に人が住んでいたというのは全く驚きである。
(インデペンデンスⅠ文化及びインデペンデンスⅡ文化の分布 Wikipediaより引用)
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その後、前期ドーセット文化、及びドーセットⅠ文化と呼ばれる古代文化が紀元前700年から紀元200年にかけて見られた。ドーセット文化はドーセット人と呼ばれる人々がグリーンランド南部において定住した文化であったが、それもやがて気候の寒冷化とともに消滅してしまった。
 この前期ドーセット文化以降はしばらくグリーンランドは無人であったとされる。


●10世紀後半、バイキングの定住

 982年頃、「赤毛のエイリーク」と呼ばれる人物がグリーンランドを探索した。「グリーンランド」の名前は「赤毛のエイリーク」が名付けたとされる。この名の由来は二つの説があって、一つはグリーンランドといういかにも緑が生い茂っている土地をイメージさせることによって入植を促進しようとした説、もう一つは中世の温暖期においては本当にグリーンランド南部には緑が生い茂っていたという説の二つがある。グリーンランドの探索後、エイリークは一度アイスランドに戻ったが、985年頃にグリーンランドに多数の植民者を連れて戻り、グリーンランドに入植した。最初の定住地はグリーンランドの南西岸、現在のQassiarsukと呼ばれる地名の付近に作られた。この定住地にはピーク時には合わせて三千人から五千人ほどの人口があったとされる。
 またこの時、イヌイットの先住民が同時期にグリーンランドにおいて後期ドーセット文化及びチューレ文化と呼ばれる文化を築いており、特にチューレ文化はグリーンランドの極地での生活に適応し、現在グリーンランドに住むイヌイットの祖先であると考えられている。バイキングとチューレ人はしばしば遭遇し、交渉または衝突した形跡が見られていいる。
 1261年に、グリーンランドの住民は故郷であるノルウェー王国に忠誠を誓う事になったが、1380年にはノルウェー王国そのもがデンマーク王国の支配下に入った。1397年のデンマーク、ノルウェー、スウェーデンの三国によるカルマル同盟によってグリーンランドは同盟の領土となった。しかし、グリーンランドの開拓は気候の寒冷化などの理由から14世紀頃から衰退し始め、15世紀後半には一度消滅したものと思われている。

●デンマークによるグリーンランド植民


 15世紀後半に一度はヨーロッパ人による入植は消滅したものの、グリーンランドに対する領有権主張はデンマーク=ノルウェー二重王国によって続けられた。18世紀には再びデンマーク人がグリーンランドの植民に乗り出し、植民を行った。
 その後時代は下り、1814年のナポレオン戦争によってノルウェーはデンマークから分離独立し、この時デンマークがグリーンランドの権益を存続した。その後20世紀にグリーンランドの土地をめぐる領有権闘いがあり、1905年にスウェーデンから独立したノルウェーによるグリーンランドのデンマークに依る領有に異議申し立てをおこなったが、1933年にはデンマークの領有が認められる形で決着した。これが今日においてもグリーンランドがデンマーク領である経緯である。
 デンマークを含む北欧とスカンディナヴィアの歴史における中世からの統合と分裂によるグリーンランドにおける複雑な領有権の変遷があったこともあり、今日グリーンランドがデンマーク領であることは多かれ少なかれ偶然の産物であると言えるかも知れない。

●現在のグリーンランドにおけるデンマークからの独立志向


 現在グリーンランドはデンマークから大部分において自治を認められている。2009年には防衛と外交を除いた全ての支配権がグリーンランドに移譲され、グリーンランドは半独立状態にあると言える。さらに現在、グリーンランドでは、経済的な自立という壁があるとはいえ、地球温暖化に伴うグリーンランドの膨大な埋蔵資源の存在を背景に、デンマークからの完全なる独立を求める運動も起こっている。


グリーンランドの現在


 以外に思えるかも知れないが、グリーンランドは5万5千人もの人口がある。その大半はグリーンランドの首都、ヌークに2万人近くが集中している。少なくとも筆者はこれをグリーンランド人には失礼かもしれないが、極北のグリーンランドという地にしては、人口が多いと思った。グリーンランドに興味を持った方はぜひヌーク市のストリートビューを見てみて欲しい。大学や商業施設もあり、意外と(本当に失礼だが)都会である。
 また昨今のニュースとして記憶に新しいのは、アメリカのトランプ大統領がグリーンランドを購入する計画を興味深いと表明したことだろう。これには前述の通り、近年の地球温暖化によってデンマークの氷床が縮小し、その地下に眠っている膨大な埋蔵資源の存在が大きいと思われる。なお近年は中国企業による採掘も進められており、極北の地グリーンランドも、現在のアメリカと中国の勢力争いの一部になっているのだ。

こちらもどうぞ
「最果ての土地」シリーズタグ

参考サイトリスト
Wikipedia「グリーンランド」
Wikipedia「グリーンランドの歴史」
Wikipedia「History of Greenland」
Wikipedia「Independence Ⅰ culture」
Wikipedia「Independence Ⅱ culture」
株式会社クルーズライフ「インデペンデンスⅠ文化と先ドーセット文化」
デンマーク大使館「グリーンランドへようこそ」


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voiceofdrone at 06:25|PermalinkComments(0)地理 | 歴史

【ヴァーチャル至上主義】わかりやすいヴァーチャリズム/バーチャリズム(Virtualism)

Vtuberにおける一思想。ヴァーチャリズム/バーチャリズム(Virtualism)とはなにか?


 この記事では筆者の提唱する「ヴァーチャリズム/バーチャリズム(Virtualism)」とはなにかという事を、できるだけわかりやすく定義し、まとめたい。というのも、筆者が書いたヴァーチャリズムの記事はどれも独りよがりに難解か、空想的に過ぎるので、初めて記事を見た人を引かせてしまうだけだろうと思ったからである。この記事では筆者の定義するヴァーチャリズムというものをできるだけわかりやすくシンプルに書きたい。

●第一に、ヴァーチャリズムとは、一言で言えばヴァーチャル至上主義である。

●第二に、ヴァーチャリズムとは、ヴァーチャル・キャラクター(アニメキャラクターや特にヴァーチャルYouTuber)
を見る時に、現実というものを一切、全く完全に、想定しないという思想である。

●第三に、ヴァーチャリズムとは、第二の項目の実現のために、ヴァーチャル世界そのものの、現実からの「独立」を目指す思想である。

 この三点がヴァーチャリズムの基礎であり出発点である。要するに、

「ヴァーチャル・キャラクターを見る時に、現実のことを想定するのは興が醒めるだけだし無意味だからやめよう」

という考えが出発点にある。この事を定義立て、論理的裏付けを取るために他記事ではなんだか難解なことをつらつらと書いてしまったが、要するにたったそれだけの事を言いたいのである。

 上記のうち第三の項目だけは分かりにくいかも知れない。「ヴァーチャル世界そのものの現実からの独立って何?」と思われる方も多いだろう。
 これは要するに、私達がヴァーチャル・キャラクターを見てどうしても現実のことを想定してしまい、なおかつ現実のことを想定しないと言うと、なんだか現実逃避的に聞こえてしまうというのは、あくまで「ヴァーチャル世界」が現段階では「現実世界」に従属した、延長線上にある世界だから、その事を想定しないために、「ヴァーチャル世界」そのものを現実から精神的、物理的に完全に独立させてしまおう!という事である。


ヴァーチャリズムが実現することによる意義


 でもそれって「ただの現実逃避で何の意味もないじゃん」、って思う方も多いかも知れない。それはヴァーチャリズムが実現することによる意義を捉えられていないからだろう。

 私達は、多かれ少なかれ、インターネットを利用している。インターネットというヴァーチャル世界で、現実とは全く異なるキャラクターを演じているという人もいるのではないか。重要なのは、「ヴァーチャル世界」では「なりたい自分になれる」のである。
 そして、VR技術の発展によって、私達はアバターを利用することによっていくらでもなりたい姿になることが、現段階で既に可能である。この事をヴァーチャリズムによって肯定するということは、次のような明確な意義がある。

●なりたい姿の自分になれるということは、人は生まれながらの様々な制約から開放される

●ヴァーチャリズムにおいては、そのアバターによる現実とは違った振る舞いを、絶対的に肯定する

 人は生まれながらに様々な身体的要素によって規定されている。それを肯定的に捉えられる人もいれば、そうでない人もいるだろう。生まれながらの制約によって苦しむ人は、この世に大勢いる。
 しかしヴァーチャル世界ではアバターを使い自由に、人種、性別、あるいは人間を超えて、いくらでも、なりたい姿になれるのである。この事をヴァーチャリズムによって肯定するということは次のような意義がある。

●ヴァーチャリズムにおいては、「アバター」による「ヴァーチャル・キャラクター」としての振る舞いを、一つの独立した「人格」として、絶対的に尊重する

●ヴァーチャリズムによる「ヴァーチャル世界」の現実からの「独立」によって、真に、人々は生まれながらの身体的制約から開放される

 どうだろうか?なかなか魅力的な思想に見えてきたのではないか? そんな事ない? いやもっと目をよくこらしてだね・・・
 ともかく、筆者はヴァーチャリズムを提唱する事に上記のようなことから一定の意義があると思っているし、人間の可能性を広げる試みであると考えている。

ヴァーチャリズムについてのより詳しい記事はこちら
・筆者が初めて書いたヴァーチャリズムについての記事。ヴァーチャルが現実から完全に独立するということは、どういう世界でなければならないか、電波たっぷりに空想している。

今日において筆者の考えるヴァーチャリズムのような事に取り組んでいる方の紹介と、今現在の世界における現実的なヴァーチャリズムの実践方法

・ヴァーチャリズムにおいて考える、ヴァーチャルYouTuberの「魂」についての考察。

・現段階では、この記事は読まなくていいです。ヴァーチャリズムの哲学的な立ち位置の確認と、思想的な裏付けをとって、ヴァーチャリズムの思想としての妥当性の確保をしたかったのだけど、哲学については全くの素人なので、何を書いているのか自分でもわからなくなった。これから充実した記事にしていきたい。



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voiceofdrone at 03:46|PermalinkComments(0)バーチャリズム | Vtuber