2020年07月13日

【報告】とらじぇでぃさんという方によってバーチャリズムを紹介して頂けました!/バーチャルYouTuberについての筆者の告白


 この度、とらじぇでぃ@tragedy_phさんの記事
にて、筆者が提唱した「ヴァーチャリズム」についてわかりやすく取り上げてくださった。とても嬉しい限りであり、ありがたい事である。
 またはてなブログに上げられていた方の記事、
 も興味深い内容であったので、ぜひ見ていただきたい。

 余接さんという方や様々な方々の書かれた「Vtuber」の在り方の論考について、様々なアプローチから考える試みがなされていた。筆者も、ヴァーチャリズムという思想を一人で考え続けていたことにより、ある種凝り固まってしまっていた考えを、今一度見直し、再考してみようという、新鮮な気持ちになれた。

 ただそれ以上に重要なことにも、今一度気付かせてくれた。活動される様々なバーチャルYouTuberの方々の提供されるエンターテイメントを、素直な気持ちで楽しむ事こそが最も重要なことであるという、当たり前ではあるが、筆者のように、類型、構造という観点からバーチャルYoutuberを論理立てて考えている内に、知らず知らずのうちに思想にばかり凝り固まって、最も重要な、ヴァーチャルを楽しむという、そもそも筆者がかつてバーチャルYouTuberを初めて見た時の新鮮な気持ちを忘れていたのではないかと、反省させられた。さて、ここまでが、とらじぇでぃさんの記事についての感想である。

「バーチャリズム」とはなんぞや?という人のための関連記事一覧
多分一番ヴァーチャリズムについてわかり易い記事。初めての方はまずこちらからどうぞ。

・筆者が初めて書いたヴァーチャリズムについての記事。ヴァーチャリズムを徹底するために、ヴァーチャルが現実から完全に独立するということは、どういう世界でなければならないか、電波たっぷりに空想している。

今日において筆者の考えるヴァーチャリズムのような事に取り組んでいる方の紹介と、今現在の世界における現実的なヴァーチャリズムの実践方法

・ヴァーチャリズムにおいて考える、ヴァーチャルYouTuberの「魂」についての考察。

・現段階では、この記事は読まなくていいです。
 ヴァーチャリズムの哲学的な立ち位置の確認と、思想的な裏付けをとって、ヴァーチャリズムの思想としての妥当性の確保をしたかったのだけど、哲学については全くの素人なので、何を書いているのか自分でもわからなくなった。これから充実した記事にしていきたい。


 そして以下は、この度において告白することを決意した、筆者自身のことについてである。
 とはいえなにか重要なことを言っているわけでもなく、極めて私的なことを語っているだけであり、もしかしたら人によっては不快な内容であるかも知れないので、興味のない方はここでページを閉じて欲しい。





 さて、告白とは何か。それは筆者がこのブログを始め、「のらくら」として活動してからずっと、吐いていた嘘についてである。
 筆者はTwitterなどで、バーチャルYouTuberについては最近ハマった、初心者であると何度かツイートをしたが、これは半分は卑怯な嘘であり、初心者という体を装うことによる便宜なのであると同時に、もう半分は、もう一度、素直な気持ちでバーチャルYouTuberを見たいという、筆者の素直な気持ちの現れでもある。
 どういう事なのかというと、筆者は一度、バーチャルYouTuber界隈から一度完全に離れていたのである。

 筆者は確か2018年前半の頃の、バーチャルYouTuberブームの最中、この界隈を知った。筆者にとっては、驚くべき界隈だった。数々の個性豊かなバーチャルYouTuberの面白さにハマったのはもちろん、筆者が子供の頃から憧れていたヴァーチャルという物が、一定の形で実現しているということに感動したのである。そこにはヴァーチャルという形で、一つの世界が成立しているという驚きに、筆者は熱狂した。個人勢、にじさんじ、アイドル部、ホロライブなど、例を挙げればきりがないが、夢中になって、いわゆる「複窓」をして、時間さえあれば昼夜見漁っていた。
 
 ただ、そんな中で、ある疑問、不満点も抱いていた。いわゆる「中の人」とか「前世」とかについて詮索する人間がいることについてである。せっかくバーチャルYouTuberが一つのキャラクターとしてそこにあるのに、どうして現実に引き戻すような行為をするのだろうか? とずっと、疑問を抱いていた。筆者にとって気になったのは、悪意を持って特定行為をする人間ももちろんいるものの、中にはいわゆるアニメキャラクターの「声優」を見るような感覚で、「中の人」を詮索する人間もいるということだった。それは昨今において、「声優」そのものを売り出し、アイドル活動を行う文化があるという事は知っていたが、その価値観をバーチャルYouTuber界隈に持ち込まれることは、はっきり言って筆者にとっては不快であった。

 バーチャルYouTuberバーチャルYouTuberとしてただそこにいる。それだけで十分だし、それ以上を求める意味が分からなかった。今思えば、これは筆者の理想であるバーチャリズムの根源だったのだろうが、筆者はいささか狂信的なまでに、現実の想定を嫌っていた。ただ「そこ」にいて「それ」を見る。それだけで何故満足できないのかと、筆者は思っていた。

 やがてバーチャルYouTuberというブームにおいて、光に満ち溢れていた界隈にも一定の期間が経つことで暗い影が差すようになってきた。スキャンダル、炎上、特定、企業の不祥事、そして引退。考えてみれば、2017年中盤からのバーチャルYouTuber大ブームにおいては、視聴者も、あえて言うなら運営側も、夢を見ていたように思える。しかし、夢はいつまでも夢ではない。嫌でも現実との折り合い、衝突が起こり、特にそれは狂信的なまでに幻想を見ていた、見ていたかった筆者に嫌でも現実が突きつけられる事となった。なにか事件がある度に、もともとメンタルの強くない筆者は強いショックを覚え、それが一度や二度ではなかった。そのうち筆者は恐ろしくなった。数々の事件にしてもそうだが、こうまで狂信的にバーチャルYouTuberに夢を見続けている自分が、である。

 その事に気づいた時、筆者はバーチャルYouTuber界隈から、なから無理矢理に距離を取って、やがて完全に離れた。そうすることで、自分を保っていたかったのだ。

 しかし、やはり一度は心の底から楽しませてもらった界隈をそう簡単に忘れることは出来なかった。けれども、界隈に戻れば、またなにか事件が起こるのではないかという不安があった。実際離れている間にも、遠くからちらほらとあれやこれやの事件についてが聞こえてきて、その度筆者は耳をふさいだものである。

 そんな事を繰り返していたが、最近になって、このブログを初め、Twitterを始め、考え方が変わった。それは筆者の精神状態が今においてある程度良好であることも関係するのだが、一番は、新しいことを始め、それに伴って、昔見ていた夢を、もう一度見てみたいということであった。そして、界隈に戻るにあたって、もう一度新鮮な気持ちで、初心者として、一からバーチャルYouTuberを好きになりたいと思ったのである。
 そして、筆者は、界隈にいた時も、離れている間にもつらつらと考え続けていた、「バーチャリズム」という思想をブログに綴った。正直に言えば、かなり自分では空想的な、やや恥ずべき産物でもあると感じていたのだが、他者、とらじぇでぃさんによって肯定されることで考えが変わった。これからは、自分の考えを、あくまで人の迷惑にならない限りで人々に知ってもらいたいと思ったのである。そして今回、とらじぇでぃさんの記事によって、改めて、バーチャルを楽しむという素直な気持ちを思いださせてもらった。最近若干思想的に凝り固まっていた筆者であるが、改めて、自分を見つめ直したいと思う所存である。


 以上が、今日までの筆者の思いと、そして現在の思いである。いささか長く語ってしまったが、もしも最後までつきあって読んでくれた方がいたら、心からの感謝を述べたい。



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voiceofdrone at 21:27|PermalinkComments(0)バーチャリズム 

私版・唯物史観的「インターネット」発展段階論 ~マルキシズム的な何か~

この記事は過去に書いた筆者のインターネットの歴史に関する一考察、【インターネットの発展段階史】別世界としてのインターネットと、現実の延長としてのインターネット 【考察】の内容を大元の下敷きにして、より詳しく、インターネットの歴史をある種「歴史学」として捉え、考察をするものである。

唯物論的史観からみる「インターネットの歴史」



目次
●初めに・マルクスについて
インターネット唯物史観・発展段階論説
唯物史観・発展段階論的な視点から予測されるインターネットの今後
●終わりに(ネタバラシのようなもの)

初めに・マルクスについて


 さて、初めに断っておくがこの記事は「インターネットの利用者意識の変容」を発展段階論的な視点から、マルクス主義における唯物史観に基づいて分析するものである。
 
 「マルクス主義」、「マルクス思想」。人によってはこの言葉を聞いただけで拒否反応が出る人もいるのではないだろうか。それはやはり「社会主義」という「理想」と、数々の「マルクス主義」をもとにした社会主義国家の失敗という「現実」によるものであろう。
 ただ、断っておきたいのは、「思想家」「経済学家」としてのマルクス主義は今日においてほとんど扱われなくなったと言っても過言ではない状況であるものの、「哲学」、「歴史学」、「社会学」においては未だにマルクス主義的価値観が息づいているのだ。
 なぜならば、「社会主義の提唱者」としてのマルクスは残念ながらある種の「夢想家」というのが否めないものの、「既存の社会・資本主義の分析者、及び19世紀における資本主義の破壊者」という意味においてはマルクスというのは天才的だったと言わざるを得ないからである。

 例えばマルクスに対する評価を挙げると、マルクスの伝記を書いたE.H.カーによれば、
マルクスは破壊の天才ではあったが、建設の天才ではなかった。彼は何を取り去るべきかの認識においては、極めて見通しがきいた。その代わりに何を据えるべきかに関する彼の構想は、漠然としていて不確実だった。」
「彼の全体系の驚くべき自己矛盾が露呈せられるのはまさにこの点である」
との評価である。

 「歴史学」においてマルクス思想が息づいているというのは、まさに彼の「発展段階論」「唯物史観」的歴史観に代表されるものであり、特に日本の歴史学会にてはもちろん批判も数多くなされてはきたが、今なお色濃く根付いているのだ。

 さて、前置きがだいぶ長くなってしまったが、この記事では、インターネットの歴史を「歴史学」として捉え、唯物史観、発展段階論的な視点から考察を行っていきたい。
 なお、言い訳として一応断っておくと、筆者はマルクスに関しては少し勉強したつもりではあるが、素人である。そのため間違いなどもあるかも知れないが、その点はご容赦いただきたいと同時に、コメント欄などでレスポンスをいただけると嬉しい。


インターネット唯物史観・発展段階論説


 さて、本題であるインターネットの歴史に対する一考察を始める。
 前置きとして、この記事は、唯物史観的な視点から、「別世界」であるか、「現実の延長」であるかといったような「インターネットの利用者意識」をインターネット社会の「上部構造」として捉え、物質的、技術的なインターネットの「生産力」とも言える物理的発展を「下部構造」として考える。「上部構造」は「下部構造」によって規定される、即ちインターネットの利用者意識や使い方、インターネット社会の変遷というものは、「下部構造」である技術的な水準によって制約され、規定されるという考え方である。

 かつてインターネット黎明期から初期にかけては、チャットや匿名掲示板といった場所にて独自の文化や世界観が形成され、インターネット世界という別世界的なインターネットが展開されていた。というのも、チャットコミュニティや匿名掲示板といった場所では、現実と隔絶した振る舞いが許容され、現実ありきではなく、インターネットという場を前提としたコミュニケーション、つまり別世界としてのインターネットが展開されていたのである。
 これを「下部構造」、即ちインターネットの「生産力」という視点から捉えると、当時はまだコンピュータそのもののスペックや回線の速度といった限定から、インターネットは文字媒体としてのメディアとしての振る舞いが強かったと言える。文字を主体にするということは、読み手である利用者にある程度の想像力が問われなければならないのと同時に、この時点でこの後のインターネットの時代である「現実の延長としてのインターネット」を踏まえて言うと、この時代におけるインターネットは、現実の延長として、現実の出来事を報告するのにそもそも不向きだったということである。よって、現実とインターネット上との非リアルタイム性からネット上のみで成立しうる独特の文化が生まれ、発展する余地があったと言える。つまり「上部構造」であるインターネットの利用者意識は、発展途上のインターネットにおける文字主体時代という構造に規定されていたと言える。
 これがやがて技術発展によって徐々に変化してきた。コンピュータスペックの高性能化とインターネット回線の高速化によって、大容量のファイル、高画質な画像であるとか動画をネット上にアップロードすることが容易になってきたのである。ちょうど2000年代中盤以降の事である。ただ、この時点においては「上部構造」としてのインターネットの利用者意識が変化するにはまだしばしの時間が必要であった。

 決定的に「下部構造」が変化し、「別世界としてのインターネット」という「上部構造」に変革をもたらしたのは、恐らくはスマートフォンの登場だろう。それ以前の携帯電話と異なり、小型のコンピュータと高性能なカメラを兼ね備えたこの電子機器が技術的に実現し得る決定的な「下部構造」における「ネット生産力」の増大ととともに、「上部構造」は変化していった。付け加えるならばスマートフォンという「現実の報告」にうってつけの機器が登場したことによって初めて、SNSといったサービスが登場しうるだけの下地が整ったのだと言える。
 スマートフォンの登場と、それに伴うSNSという革命こそが「インターネットの現実の延長」化を決定的に促進した。もはや人々はありとあらゆる場所で、リアルタイム的に現実の出来事を画像、映像あらゆる形で報告することが出来るようになり、従来型の形の見えない相手との会話である匿名掲示板から、より明確に相手が見えるSNSへとネットの主体が移行していった。コミュニケーションは実体性を帯びたものとなり、多かれ少なかれ現実が想定される時代へと移り変わったのである。

  つまり唯物史観的にインターネットを捉えれば、インターネットという存在の利用者においての意識という「上部構造」が、「別世界」から「現実の延長」へと移り変わったのは、つねに電子機器の性能やネット回線というインフラに関する技術的制約という「下部構造」に規定されたと言えるのではないか。

唯物史観・発展段階論的な視点から予測されるインターネットの今後


 さて、ここまでが今日においてのインターネットの歴史的な概要である。では、今後のインターネットのあり方は、どのように変化していくのだろうか。「下部構造」としての技術的進歩において予想されうるのは、ますますの電子機器の小型化高性能化、5Gに代表される回線の高性能化、そして更に挙げるならば、「人工知能」と「ヴァーチャル」技術の進歩である。まず電子機器のスペックアップと回線の高性能化によって、「ネット生産力」とも言える「情報量」はますます膨大になっていくと考えられる。それに伴って、「ヴァーチャル」技術が実用化し普及することによって、「上部構造」には再度革命が起こる。

 即ち、「ヴァーチャル革命」による再びの「インターネットの別世界化」である。奇しくもマルキシズムにおける原始共産制から資本主義へ、資本主義の成熟から社会主義への革命へというような構図と一致してしまったが、技術的成熟によって、「インターネット」そのものの存在がさらなる変化・飛躍を遂げるということ自体は十分に考えられる事である。そこで基軸となる技術が「ヴァーチャル」であると、あくまで筆者の考えであるが、そう予想している。そして「別世界」としての「ヴァーチャル世界」の成立により、人類社会そのものが大きな変革を経験することになるだろう、と筆者は考えている。


終わりに(ネタバラシのようなもの)


 さて、筆者によるマルキシズム的な何かによるインターネットの発展段階論的歴史展開を延べた。これまでのインターネットと、そしてこれからを考えるのにあたって、「別世界的インターネット」→「現実の延長的インターネット」→「別世界のインターネット」という段階を踏むであろうということは、前述の通り、奇しくもマルキシズムにおける経済発展段階説と一致した。

 ただここで気をつけなければならないのは、「マルキシズム」がもてはやされた所以は、「何にでも当てはまる」という利便性が一因としてあるということである。「発展段階論」を適応すれば、歴史のあらゆる時代と場所に説明がつくと期待されていた時代もあった。ただし、それほど現実は単純なものではない。科学的に世界を分析できるという理性主義の時代に生まれたのが「マルキシズム」であり、その限界性は後の時代において露呈することとなった。
 そのため、インターネットの歴史というものを単純化して考えて、「発展段階論」を適応すればある程度当てはまるというのは、そもそも「マルキシズム」の性質から当たり前であると言えば当たり前であり、決してこれが安易に良く出来た分析であるなどということは筆者自身あまり思わない。少なくともインターネットの「過去について」の分析はともかく、未来における、「マルキシズム」における「社会主義」に値する「ヴァーチャル革命」がそうやすやすと、自然に行われるとは考えていない。それについては、思想が必要であり、筆者が提唱する「ヴァーチャリズム」はそのためのものである。というと、なんだか「マルクス・レーニン主義」っぽくなってしまうような気がするが。
 さて何事もなく世の中が進めば、ドラスティックな「ヴァーチャル革命」というか、少なくともヴァーチャル技術の進歩はもちろんあるだろうが、あくまで既に確立した「現実の延長としてのインターネット」とは並立して存在していくものだと筆者は考えている。
 くれぐれも「マルキシズム」の利便性に簡単に惑わされないよう注意していただきたい。


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voiceofdrone at 01:57|PermalinkComments(0)インターネット | 考察

2020年07月12日

サイコパス(Psychopath)という言葉についての歴史 ~和訳すると「精神病質」?~

サイコパス(psychopath)、訳して「精神病質者」


 概してカタカナ語というのは、気軽な使いやすさがあり、昨今において様々な言葉を英単語のカタカナ読みで使用するというのは、その傾向が現れているのかもしれないが、一方で漢字というのは一定の堅苦しさと専門性を兼ね備えた言葉に聞こえるのではないか。同じ意味の言葉あるいは類義語を取っても、言語として使用される上では、様々な意味合いやニュアンスの違いがあるわけである。
 さて、この記事の本題に入るが、昨今においてはすっかり一般的に定着した言葉として「サイコパス」という単語がある。著名なアニメにそのものずばり「PSYCHO-PASS」というのがあるし(タイトルの意味は綴りが違うように正確には「サイコパス(psychopath)」ではないのだが)、最近はサイコパスの自己診断サイトやまたは他者診断なども人気である。あるいは他人を形容して、「あの人サイコパスっぽい」といった使い方もされる。

 だがこの「サイコパス」という言葉、日本語に訳すると「精神病質」となり、精神医学において暗い歴史がある言葉であることをご存知だろうか? 付け加えるならば、カタカナ語として半ば意味が独り歩きしている「サイコパス」を用いて、例えば気軽に「あの人サイコパスっぽい」と言う事はできても、「あの人精神病質者っぽい」と言ったら、ちょっと冗談や洒落にはならないような意味合いに成るのではないか。実際「精神病質」という言葉には、洒落にならない歴史があるのだ。今回の記事においてはそんな「精神病質(サイコパス)」の歴史を解説したい。

 なお一応断っておくが、この記事ではかなり批判的に「かつての精神医学」について書いた内容が散見されるが、現在は必ずしもそうではないと言っておく。まあ、一応「必ずしも」、なのだが、現在における精神医学は、かつての精神医学とは全く異なると言っていいものであり、なにより筆者自身うつ病であるから、精神医学の発展にお世話になっている身で、病院でも医師に親身になってよく話を聞いてもらっているという実体験をあらかじめ断っておく上で、これから語るのは「かつての精神医学」の「現実」である。
 「かつて」と「現在」を混同しないように、くれぐれも注意していただきたい。


 さて本題に戻るが、「精神病質」とはかつて精神医学にて使われていた言葉である。使われていたという事は、今は使われていない。日本においては昭和30年代から40年代頃にかけて広く使用されたそうである。
 さて、この「精神病質」という用語が何を表すのかと言えば、実際の所その定義ははっきりしない。ざっくり言えば、「反社会的人格」、詳しく言えば「反社会的性質をもった、正常から逸脱した、社会の迷惑になる人」の事である。反社会的とは何か、正常とは何かと筆者は問いたいけれども、それを考え出すと長くなるので割愛するが、ただやはり用語そのものがはっきりしない定義であるということは確かである。
 宗内敦氏の『精神病質人格の精神病理と精神動力(1972年脱稿)』(URL下記参照)という論文から引用させていただくと、
「いわゆる、”精神病質人格”psychopatic personality の概念は今日なお極めて曖昧で、精神医学の”くず籠”的概念として用いられている」
「あいまいな精神病質人格という診断用語が、非行と犯罪の臨床の中で、比較的安易に用いられ、そのため、人権上あるいは臨床上・行刑上に極めて大きな問題が生じている」
というようにあり、また宗内敦氏のブログの「サイコパス(精神病質者)などと言うなかれ―佐世保女子高校悲哀事件にちなんで―」(URL下記参照)では治療困難な患者に対するある種の「レッテル貼り」であり、安易なラベリング行為であるとも延べられている。

 さて、「反社会的性質」、「社会の迷惑になる」というのは、どの程度のものなのだろうか?
 かつてこのサイトでも「面白いサイト紹介」と題して紹介した「サイコドクターあばれ旅」というサイト様の、「私家版・精神医学用語辞典」というページの、「精神病質(サイコパス)」に実際の症例が載せられているので一つ割愛して紹介させていただくと(URLは下記に記す)、
 
 20歳男性、学校生活で教えられる道徳と実社会との矛盾に悩むようになり、やがてちょっとしたことがきっかけで腹が立つようになり、親に暴力を振るったり、ものを壊すようになる。両親はこの事をきっかけに、彼を精神病院に入院させる。昭和26年、1951年のことである。4ヶ月間入院したが、恐らくはストレスから益々症状は酷くなり、親への暴行と入院を繰り返す。

 ここで注釈を加えておくと、かつての精神病院というのは、今の常識では考えられないほど劣悪な環境であった。1970年代における精神病院の実態を潜入取材して暴露した、大熊一夫氏の『ルポ・精神病棟』という本に詳しいのだが、患者を劣悪な環境に置き、あるいは暴力めいた行為、(実際暴力やリンチであることもある、例を挙げれば、1983年の宇都宮病院患者死亡事件など)で患者を「しつけ」、それでも反抗的な患者には電気ショック療法(今現在行われている安全性が担保されたものとは全く異なるものである。かつてのものは激しい痛み、ショックを感じ全身痙攣を起こす療法である)や、終いにはロボトミー手術、前頭葉の一部を切除するという不可逆的でかつ不確かな手術まで行うと脅すか、実際に行ってしまうような状況である。映画で例を上げるならばアメリカの話であるが『カッコーの巣の上で』などに詳しいだろうか。なお日本においてロボトミー手術が完全に過去のものとなったのは1975年の事である。

 参考サイト様には他にも多数の「症例」が載せられているが、どれも似たり寄ったりで、概して他人に暴力を振るうとか、そういう行為をまとめて「精神病質」と名付け、劣悪な環境に置き、ひどい場合にはロボトミー手術を受けさせてしまうのだから、犯罪者として刑務所に入れられる方がまだましと言えるような状況である。そもそも極めて曖昧な性質をまとめて「精神病質」と括っているのだから、それに対する治療法などあったものではない。あるとすれば頭に穴を開け、脳の一部を切除する「ロボトミー手術」だったのである。
 「精神病質」という言葉の曖昧さの上に、かつては精神科医の権限が極めて強い環境であったから、容易に「措置入院」が行われ、ひどい場合にはロボトミー手術という不可逆的な手術をしてしまう… そんな状況が批判されたのは昭和40年代頃からであり、昭和50年代以降は「精神病質」という言葉は精神医学において殆ど使われなくなった。これが「精神病質」の歴史である。
 
 精神医学という分野はまだ新しいものであり、かつての精神医学は「手に負えない精神病、精神病質者」をいかにして「社会の迷惑にならないようにするか」という点が強かったと言える。精神医学において、副作用の少ない安全性の高い薬が普及し、療法においても患者に対する安全性や人権への配慮とかが図られるようになったのは、ようやくここ3,40年の最近になってからなのである。

 さて、最後に筆者の考えを述べさせていただくならば、筆者としてはこのような暗い歴史をふまえた「精神病質」即ち「サイコパス」という言葉を決して安易に使ってほしくはない。
 今日においては「サイコパス(psychopath)」という単語も、異常心理学や犯罪心理学においてより詳しく定義され、分析の対象となっているとはいえども、半ば意味合いが独り歩きしつつ、一般に単語として使われる「サイコパス」という言葉は、対象者に対して何らの根拠もなく、または精神医学的にも心理学的にも甚だ根拠が薄く、安易に「あの人はサイコパス」であるというレッテル貼りをすることは、まさしくかつて「精神病質」という用語において行われた曖昧な「反社会的性質」を一括にし、治療上の分類においても実際的な精神病棟の環境においても「”くず籠”に放り込んでおく」のと全く同じ行為であると言わざるを得ない。
 参考サイトの「サイコドクターあばれ旅」のサイト主様、風野春樹様とまったく同じ意見になるのだが、「サイコパス」という言葉を使うのであれば、少なくともこのような暗い歴史を経たという事実や、今現在は精神医学において使われていない言葉であるという事は前提として知っておいて欲しい、というのが筆者の願いである。


参照元・参考サイト
サイコドクターあばれ旅 私家版・精神医学用語辞典 「精神病質(サイコパス)」
http://psychodoc.eek.jp/abare/pathy.html(最終閲覧日2020/07/12)

二言、三言、世迷い言 「サイコパス(精神病質者)などと言うなかれ―佐世保女子高校悲哀事件にちなんで―
http://shoshisaikou.blog10.fc2.com/blog-entry-65.html(最終閲覧日2020/07/12)

宗内敦『精神病質人格の精神病理と精神動力』(1972)
http://shoshisaikou.art.coocan.jp/paper/psychopathology%20and%20psychodynamics%20of%20psychopathic%20personality.html(最終閲覧日2020/07/12)




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voiceofdrone at 08:27|PermalinkComments(0)精神 

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2020年07月11日

(追記版)【考察エッセイ】「盗めるアート展」についての個人的所見 ~決まり事に担保された善悪論が崩れる時~

(2020/07/11午後8時追記):トレンド性の強い話題のためか、この記事はこのブログにしては比較的多くの方が読んでくださった。今現在特にお叱りもご批判もうけてはいないが、しかし、今現在を持って読み返すと、批判を恐れるあまり、のっぺりとした平坦な、何を言いたいのかわからない内容になってしまった事は否めないと感じた。そこで、こちらの記事は順次修正追記を行って充実させていく。
念の為、初版の記事を別途(初版につき、こちらは読まなくてもいいです)【考察エッセイ】「盗めるアート展」についての個人的所見 ~決まり事に担保された善悪論が崩れる時~で挙げておくが、前述の通り、ただのっぺりとした平坦な内容であることは否めないため、特に理由がなければこの記事をご覧になることを推奨する。

「盗めるアート展」の結果は必然的だった?



 最近「盗めるアート展」というのが話題となった。概説すると、「来場者は一人一点まで自由にものを持って帰って良い」というコンセプトに基づいた、一種のアート的、実験的試みなのだが、結果多数の人が殺到し、開始前から館内に人が雪崩込み、半ば暴徒と化したような様相を呈し、スタート前に全ての展示物が「盗まれ」、展示会は終了と相成ったという経緯である。
 この事については様々な意見が寄せられた。「盗めるアート展」という実験的試みに対して、このような結果に終わるということこそが、現代社会を反映した一連の「アート」であるという意見も筆者個人的に興味深かった。

 この記事では、「盗めるアート展」によって露呈した人々の心理、なぜこのような結果になったのか? という事を筆者個人的に「日本人の道徳観」と「群集心理」という点から思想的に論じてみたい。もちろん異論反論なども多くなるだろうし、扱う事がなにぶんトレンドの話題であるから、お叱りなどを受けることもあるかも知れないし、もちろん異論反論お叱りがあれば、それは受け入れるつもりだが、あくまでこの記事は浅学な筆者なりの拙い意見の一つとして、どうかご容赦いただいた上で読んでいただきたい。


「日本人」の道徳的規範と「群集心理」



 結論から言うと、筆者はこの現象は、「盗めるアート展」という特殊環境と、「決まり事に基づいた傾向のある日本人の道徳観」と「群集心理」との三つの結びつきによって必然的に起こったものだと考えている。

 一般に「日本人」は遵法精神の高い民族性をもった人々であると言われる。ではなぜそんな「日本人」がこのような半ば暴徒化したようなモラルのない行為行動を取ってしまうに至ったのか。

 なお、「日本人」というとても大きな主語を用いて言葉を使うのは本来、筆者の心情、理念にも反するし、もちろん例外などいくらでも挙げられるのだが、ここではその民族性という前提に立って、あえて「日本人」という大きな主語を用いて考察を進めてみたい。
 もちろん様々な異論反論などがあるだろうし、当然のことながら「あんな一部の人々を取り上げて「日本人」と一括にするな」というお叱りの声も当然あるかも知れないが、ここでは筆者なりの考え方の一つとして捉えて欲しい。

 なおこの記事で、いちいち「日本人」と括弧付きで表現しているのは、極めて大きな主語を扱っているという意味で、「日本人」という言葉の意味を、筆者自身が慎重に扱うという理念を忘れないため、また読者の皆様方がある種筆者に批判的になりながら、「大きな主語」を慎重に受け取ってほしいという意味合いを込めたものである。


 さて、「日本人」は一貫性のある「哲学」のない民族であるとよく言われる。
 例えば「丸山真男」的に言えば、様々な外来からの「宗教」であるとか「思想」によって影響を受け続けた結果による、「日本人」自身によって形成され得る思想的体系性の歴史的欠如であり、今日において「日本人」が雑多な宗教観を持ち合わせた、無宗教的な振る舞いを見せることもその一つであると言えるかも知れない。ただ、厳密に言えば「無宗教的」な振る舞いを見えるだけであって、「無宗教」ではない。人々の道徳的規範には「ご先祖さま」とか「お天道様」というような価値観が見られることもある。ただし、それが思想的に様々な価値観を取り入れた「足し算の思考」であり、体系化されていないから、「宗教的自認」が薄く、あなたは何の宗教を信じているかと外国人に問われた時に「無宗教」であると答えてしまいがちであるという話である。

 さて若干話が逸れたが、繰り返し述べると「日本人」における「思想」は不明瞭かつ不安定であり、体系性に乏しいという事である。筆者が言いたいのは、それが悪いとか劣っているとか言う話ではない世界には様々な民族の価値観があって、それはそれぞれ尊重されるべきであるし、「日本人的」な、良いものをたくさん取り入れるという「足し算の思考」というのも、多様性が重んじられる昨今の世界においては重要な理念であると筆者は考えるからである。

 ただ、今日においても「日本人」は「宗教観」であるとか「哲学」であるという「普遍的理念」を欠いて、その結果「法律」という「決まり事」によって「善悪感」が担保されている部分が大きいとも言えるのではないかと筆者は考える。つまり条文としての法律こそが、そのまま道徳的規範になっており、ここで一応断っておくが、もちろん法律というのは、日本においては主に西洋から輸入された西洋における「普遍的理念」に基づいて体系性をもった憲法、法律、民法という法学を学んだ人々によって作られ施工されており、法を学び、作り関わる側の人間というのは一定の「体系的な理念」を学んだ上で法を作って運用しているだろうし、そうであってほしいのだが、当の民衆側において、施工されている「法律」そのものの思想的、道義的意義を問うという試みは諸外国、具体的に言えばアメリカなどに特有なのだが、既存の法律そのものに対する道義的観点からの改善という社会改良行為は甚だ少ないと言える。

 つまり何が言いたいのかと言うと、私達「日本人」の善悪感はもともと「法律」という決まり事に依る所が大きいということである。「宗教的価値観」のようなものが薄く、「法律」で決まっているから盗みはいけないし、「法律」で決まっているから、人に迷惑を掛ける事は良くないという事である。法律が前提にあって、法律に決まってるから、法律を守る。なんだか鶏と卵のような話であるが、それが「日本人」に特徴的な道徳観の一つの前提なのではないか。
 もちろん、「日本人」個々人に道徳観が法律以外にないと言うのではない。個人個人は様々な事を考えて、法律に対しても様々な疑問異論を考えることもあるだろうが、ここで問題なのは、これは人類に普遍的なことなのだが、個人を超えて群衆化したときの「群集心理」は極めて不安定で衝動的で、判断力が低下し、価値観が単純化されやすいということである。
 人々の集合である群集心理において、私達の社会、社会という存在そのものが「吉本隆明」的に言えば、個々人の共同幻想的なものであると言えるが、社会という群集において、私達の道徳観はいよいよ「法律」という後ろ盾に一般化・一元化され、私達「日本人」が普遍的に持ち合わせている「法律的道徳観」こそが最後の後ろ盾になるとも言えるかも知れない。

 ここで「盗めるアート展」において、「盗んではいけない」という「法律」の前提が消えた。制限はあるとは言え、盗みが許容されたのである。すると不安定で衝動的な群集心理によって、「法律」によって規定された道徳性、後ろ盾の消えた群衆はいよいよ善悪感が薄れ、暴徒と化す。その結果が御存知の通りであるというのが、筆者による一考察である。

 ここで断っておきたいのだが、「盗んでも良い」という環境におかれれば、何も「日本人」に限らずあらゆる人類が群集心理として同じことを行うのではないかという疑問を抱く方もいるかも知れないが、「日本人」に特有なのは、「盗んでも良い」と言われて初めてこのような行為行動を行うのであって、もしもこれが「盗んでも良いけれど一応盗んではいけないアート展」というあからさまなタイトルの展示会であれば、このようなことは起こらなかったであろうというのが、筆者の考えである。というのも、「日本人」は実際、デモなどが暴徒化し、店などに押し入って略奪を行うという事例は、筆者の思う限り聞いたことがない。そういう意味では、確かに「日本人」は遵法精神が高い傾向にあると言える。
 そのため「盗めるアート展」という「法律が取り払われた特別な環境」という自体になって初めて、このように、極端に「日本人」は「暴徒化」するという傾向を述べたいのであり、そういう意味では、やはり「日本人」の道徳観は、「法律によって規定された」ものであるというのが、筆者の考えである。


終わりに・反省点(ぜひ読んでほしいです。)

 このブログでは珍しく、恐らく初めてトレンドの内容を取り上げた。筆者をして、このトレンドに乗ってみたいという下心が無かったわけではないが、それだけ今回の「盗めるアート展」という現象は興味深かったのである。もちろん、この記事の内容に関して異論反論などが、恐らくは大量にあるだろうことは予期しているし、異論反論ツッコミどころなどがあると予測しながら、急いて記事を書いてしまったのは、やはり筆者のトレンドに乗りたいという下心に依るものなのかも知れないと反省している。ただ、浅学な筆者なりの一考察として「そういう見方もある」くらいに受け取って欲しい。
 度々言い訳を重ねてしまったが、筆者は責任から逃れたいということではない。
 異論反論お叱りツッコミなどなどがあれば、このブログのコメント欄などで筆者にレスポンスして欲しいし、あまりに考え方に問題があると客観的な視点からの指摘を頂いて問題が露呈するようであれば、この記事は謝罪した上で削除させていただく。いささか臆病に過ぎるように思われるかも知れないが、それが筆者なりの、記事を書いて公開する上での一応の責任であり最低限の義務であると思っている。



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voiceofdrone at 20:42|PermalinkComments(0)考察 | エッセイ