2020年07月16日

【祝!ブログ総閲覧者数300人突破!&企画、過去記事個人的傑作選紹介】見て下さっている全ての皆さんに深く感謝申し上げます!

 今朝起きたらブログの累計訪問者数が300人を突破していました!300人!すごい数です!テルモピュライの戦いのスパルタ軍と同じくらいですよ!(細かすぎて伝わらない例え)
 拙い考察と屁理屈にまみれた当ブログですが、読んで下さる方がこんなにも多いというのは本当にありがたい限りです!
 さて、300人突破に際して、企画と言えるほどのものでもないのですが、当ブログの過去記事の中の個人的自信作を紹介させていただきます!よろしければ読んでみてください!あるいは初めて来てくださった方は、当ブログの紹介としてこんな記事があるんだな~という参考にしつつ、目についたものがあればぜひ読んでみてください!

アニメ論

・サブカルチャーにおける「セカイ系」とは何か?という考察記事。上の記事では、「セカイ系」の私的定義と構造論、そして下の記事では「セカイ系」が流行した背景について考察する。

・「エンドレスエイト」という壮大な実験。筆者が全8回の「エンドレスエイト」をぶっ通して見た事が無駄でなかったことの証のために!あえて述べたかった!「エンドレスエイト」肯定論を!

・昨今のメディアコンテンツの「大量生産大量消費」という構造を考えた上で、なぜ日常系アニメは安定した需要があるのだろうか?そんな事を考察した記事。


・私的「なろう系」考察記事。否定的に捉えられることも多い「なろう系」作品に顕著な「異世界転生」、「チート」を、客観的視点から、それらが流行した社会背景や物語の構造そのものについて考えた記事。

バーチャルYouTuber・ヴァーチャリズム


・筆者「のらくら」が提唱するバーチャルYouTuberに関する独自思想「バーチャリズム」。一言で言えば「バーチャル至上主義」。その分かりやすい解説。

・久々に「電脳少女シロ」ことシロちゃんの動画を見返して、頭が為になった筆者が書いた怪文書。Vtuberに関してわからない人には全くわからないし、わかる人にも全くわからないであろう謎の記事。

レビュー記事

・筆者の人生に最も影響した小説『NHKにようこそ!』を愛を込めてレビュー。なぜこの小説は名作なのか?ということについても考察した。作者の滝本竜彦先生からもご好評を頂けた自信作レビュー。

・アメリカン・ニューシネマの金字塔「イージー・ライダー」は放映当時のアメリカ人にとって一体何が衝撃的だったのか?という事を考察した映画レビュー。「イージー・ライダー」を見たけどよく分からなかったという方は是非どうぞ。

・同じくアメリカン・ニューシネマに分類される「タクシー・ドライバー」を考察を交えつつその魅力をレビュー。刺さる人にはものすごく刺さり、刺さらない人には全く刺さらないこの映画、なぜそんな違いが出るのかという事についての私的考察。

・東方Project大好きな筆者が、そのなかでもトップクラスにお気に入りなアルバム「蓬莱人形」の魅力を徹底解説。一曲ごとに曲のイメージをレビュー。

・ジョン・レノンの名曲「イマジン」は単なる夢想主義、理想主義の曲なのか?という記事。結論を言えば、非常に現実的な側面も持ち合わせた曲なのだ。

考察

・インターネットの歴史をマルキシズム「唯物史観」と「発展段階論」から捉えた一考察。なお、筆者はマルキシズムについては素人なので、あくまでマルキシズム的な何かという事で。

・「普遍性」を伴った作品は再評価される。そのなかでも「社会的普遍性」はしばしば忘却され再発見される。「普遍性」を三つに大別し、そのなかでも「社会的普遍性」の重要性を考えた。わかりにくいかもしれないが、個人的には良く書けた記事だと思っている。

・「反出生主義」という思想に対して、純粋に不完全ではないかと感じた点を指摘した記事。なお筆者は積極的にこの思想を肯定する立場でも否定する立場でもない。正直に言うと「反論が難しい」と言われる「反出生主義』に対して好奇心から異論反論を唱えてみたかった。

うつ病・精神

・うつ病患者である筆者が筆者なりに考えたうつ病療養法。モヤモヤとした考えを文に起こすことの重要性を解説。

・うつ病は何が辛く苦しいのか?何が厄介なのか?そんな事を、当事者である筆者が筆者なりに考えて解説した記事。うつ病をよく知らない方にこそ読んでもらいたい記事。

・最近ではすっかり意味が独り歩きし、気軽に使われる「サイコパス」という言葉。実は精神医学においては「サイコパス」という言葉には暗い歴史があるのだ。今だからこそ知っておいて欲しい知識。

エッセイ
・硬めから柔めまで、いろんな事を書いたエッセイ集。エッセイに関しては解説するものでもないと思うので、タイトルを見て気になったものをどうぞ。








シリーズ「最果ての土地」紹介
・僻地マニアの筆者が、最果ての土地の歴史や現在などを解説するシリーズ。世界地図で見る最果ての土地。そこには何があるのか気になる方も多いのではないか。そんな疑問に答えられればと思い書いたシリーズ。


小説
筆者の書いた小説。短編なので、興味があったら、お暇な際などにどうぞ。


おもしろサイト紹介

私的おすすめサイトを紹介したカテゴリー。







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voiceofdrone at 07:37|PermalinkComments(0)ブログについて 

2020年07月15日

【私的考察】ブラック校則を考える ~学校教育という場における「無形の権威者」~

ブラック校則はなぜ出来るのか?~ツーブロック禁止騒動から考える~


 最近話題になったニュースに「都立高校におけるツーブロック」の禁止というのがあった。それに疑問を唱えた共産党池川友一都議会議員の質問に対して、藤田裕司教育長の答弁は「外見等が原因で、事件や事故に合うケースがある」「それらから生徒を守るため」との事だった。正直な所いささか苦しい答えであると筆者は考えた。「事件や事故に合うケース」というデータも存在しないし、具体例を提示できない時点で主観的なものであると言わざるを得ない。いわば「ツーブロックは学生にふさわしくない」というモラル観という結論ありきの後付けといった所だろう。
 他の事例でも昨今においてはしばしば「ブラック校則」と言われる一般的な価値観からすればあまりにも行き過ぎで苛烈な校則が話題となることがある。頭髪や身なりに関する厳しい基準、およびそれを破った生徒に対するやり過ぎとも言える罰についてである。

 ではそもそもなぜこのような「ブラック校則」は「誰によって」作られ「何故」できあがるのだろうか?という事をこの記事では考えてみたい。

統計的データから見える校則の類型


 NHKの東海NEWSWEB WEBニュース特集「この校則って必要?」(URL下記参照)にまとめられた約300校の校則をデータ化し、統計的にみると、特に頭髪に関する校則が多かった。
 これは、そもそも制服という形で衣服の身なりが規定される学校においては、生徒一個人のファッション的な自己表現としては、残された手段として頭髪のアレンジを行うという選択肢が主に取られることに由来するだろう。制服のない高校であっても、甚だしい身なりは校則によって規制されるという形が一般だが、いずれも、身体表現という形での生徒の振る舞いを規制し、画一化する試みであると言える。
 また、校則に多い言葉として、「らしい」とか「らしく」という名詞形が挙げられる。これは「○○校の生徒らしく」とか、「高校生らしい」と言った形で校則に書かれている文言である。
 いずれも何者か他者によって規定される「らしい」「らしく」「らしさ」である。ここで筆者が気になったのは、この他者とは何者か?という事である。

校則を定めるのは「何者」か?

 校則を制定し、施行するのは学校である。場合によっては生徒委員会による学生投票という形が取られることもあるが、実際は、学校に務める教職員によって規定される。では、校則とは、教職員の個人個人の裁量や価値観によって規定されるものなのだろうか? 筆者はこれは多くの場合では異なると考える。
 もちろん中には権威ある教職員の直接的な個人的裁量に依る校則もあるかもしれないが、多くの場合、社会が考え理想とする学生像とか、教職員という人間が構成する共同体が考える生徒規範であるとか、その学校の「校風」とか、形として特定することが出来ない「共同幻想的なもの」に由来するのだろう。その中でも、昨今において価値観の多様化が進む現代社会においては、教職員の考える「社会」と、実際の「社会」との価値観にズレが生じていると考えられる。
 つまり、教職員によって形成される「かくあるべき」論という「共同幻想的なもの」が校則を形成するにあたって大きな割合を占めると言えるだろう。

 ここで「共同幻想」という言葉を使ったが、筆者の考えでは、この記事においては特に、「共同幻想的なもの」による規定とは、その共同体に属する個々人の集合が作り上げる規定であるにも関わらず、個々人自身の価値基準には必ずしも依らないばかりか、その共同体においていつの間にか個々人に「刷り込まれている」規範を指す。

 あるいは、教職員の個々人の価値観によっては、本音を言えば「不必要」であると思われる校則をも、「学校教育という場の教職員である」という身分であるということに規定され生徒に指導することもあり、つまりここでも「共同幻想的なもの」に由来する「かくあるべき」論によって、生徒ばかりか教職員の振る舞いまでもが規定されているのであると考えた。


学校という閉鎖的な「小さな社会」の構造 

 学校とは良く社会の縮図であると例えられる。筆者の考えでは、単なる縮図に留まらず、学校運営という体制における統治、政治、法などの諸々までもが縮図化され、単純化されたという意味での閉鎖的な「社会の縮図」であると捉える。

 例えば、学校という場においては、教職員が生徒を校則という法によって支配するという構図が見いだせる。しかし、校則の審議機関は、大体の場合省略化され、さらに言えば、校則に違反するという事を審議し裁く裁判所的なものも存在しない。多くの場合、教職員が校則に違反する生徒を教職員の価値観に基づき、叱り、罰する。
 ここで言う教職員の校則という法解釈の価値観とは、前述の通りやはり、教職員個々人の価値観を超えて、学校教育という場における「かくあるべき」論、あるいはその学校の「校風」であるとかに多かれ少なかれ規定されていると言える。

 ここで学校教育という場においては、校則という明確な法はあれども、法解釈は教職員によって委ねられ、さらにその教職員の価値観は、先述の通り「学校教育という場における教職員としての振る舞い」という意識に囚われているというジレンマのようなものが見いだせるのではないか。

  更に踏み込んで言えば、学校という場における支配体制をあえて分類するならば、マックス・ウェーバーが言う所の支配の三類型のうちの、「伝統的支配」に値するものだと考えられる。伝統的支配においては、昔から存在する秩序と権威の「神聖性」に正当化根拠を置く支配類型であり、同じくマックス・ウェーバーの提唱した支配類型「合法的支配」支配、形式的に正しい手続きで定められた根拠のある法に基づいた支配の体型とは学校教育という場は言えないのではないだろうか。

校則のブラック化の原因

 さて、ある意味で長い前置きを終えて、ようやく本題である「校則は何故ブラック化するのか」という事について考えてみたい。

 上記を踏まえて考えると、まず学校教育という場は、あらゆる意味において「縮図化」された社会である。そして教職員は支配者の立場であり、生徒を規定する。この構図にて、筆者は「スタンフォード監獄実験」という一種の「ミルグラム実験」と分類される心理学の実験を思い起こした。
 「スタンフォード監獄実験」について概説すると、模型刑務所を舞台に、普通の人に看守役と受刑者役を分担して担当させ、それぞれの役割を一定期間演じさせるという実験である。この実験を行った結果、時間が立つに連れて看守役はより看守らしく、受刑者役はより受刑者らしい振る舞いをみせるようになったという実験である。特に支配者である看守役は受刑者に対する過激な仕打ちを見せるようになり、実験は途中で中止されたという経緯がある。
 「スタンフォード監獄実験」の他にも、人間は閉鎖的な環境に置かれると権威者に従い、あるいは権力を与えられた権威者は権威者らしく振る舞う権威主義的パーソナリティという人間心理がいくつかの実験によって示されている。

 だが完全なる閉鎖環境で行われる実験を用いて、これを学校教育という場にそのまま適応することは無論出来ない。学校教育という場は閉鎖的でも、生徒も教職員も帰宅すれば一人の人間に戻る。つまり社会と繋がっているわけだから、閉鎖的な環境における「ミルグラム実験」の例をそのまま適応することは出来ない。
 だが、「スタンフォード監獄実験」ほど過激にはならなくとも、生徒教職員ともに一日の半分以上の時間を過ごす学校教育という場は半閉鎖的環境であり、「権威主義的パーソナリティ」的な振る舞いを部分的に見せるのではないかと筆者は考察した。

 ここで注目したいのは、権威者とは誰かということである。先に挙げた「伝統的支配」という支配類型を考えれば、昔からの伝統によって規定された権威に基づき法は作られ権威に対する義務感によって命令は行われるという構図を、単純に考えれば、権威者とは教職員であり、ここで教職員を批判してしまうことは簡単なのだが、前述の教職員までもが、「学校教育という場における教職員らしさ」に規定されるというジレンマを考えれば、学校教育の場における真の「権威者」とはある意味教職員の共同体によって構成される「共同幻想的なもの」に由来する「無形の権威者」なのではないかと筆者は考えた。教職員はその「無形の権威者」に従い、あるいは「スタンフォード監獄実験」の例を挙げれば、「無形の権威者」によって命じられた権威者として振る舞うことによって、ますます権威を強めようとしているのではないかということである。

 学校という場の半閉鎖的「社会の縮図」そして「無形の権威者」の存在によって、教職員の意識は規定され、生徒に対するますますの権力意識を強め、なおかつ「自分が秩序を保たねばならない」という意識が芽生え、生徒をより画一化する為に校則を厳しく設け、なおかつ罰も苛烈なものとなる。
 これが、苛烈で行き過ぎた、いわゆる「ブラック校則」が形成される所以なのではないかと筆者は考えた。

終わりに

 さて、先日の「盗めるアート展」に続き、トレンド記事に味をしめた筆者による「ブラック校則」の一考察である。
 念の為に断っておくが、この記事には問題がある。
 それは客観的なデータが何一つ提示されていないあくまで「筆者の一考察」である事である。そういう意味では今回の「ツーブロック騒動」の藤田裕司教育長の答弁と同じく、なんら客観的なデータを提示できないという点で、同レベルだとも言える。それゆえ、「そういう考え方もある」という程度に受け取って欲しい。
 異論反論ツッコミお叱りがあれば、コメント欄などでレスポンスしてほしい。
 
NHKの東海NEWSWEB WEBニュース特集「この校則って必要?」
https://www.nhk.or.jp/nagoya/websp/20200331_kousoku/

関連トレンド記事


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voiceofdrone at 15:36|PermalinkComments(0)考察 

noteにて、分かりやすくバーチャリズムをまとめてみました。

 この度noteにて、筆者の提唱するバーチャリズムについて、分かりやすくまとめてみた。これまでの記事よりははるかに分かりやすく書いたつもりなので、バーチャリズムに興味のある方は、ぜひ一度読んでみて欲しい。





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voiceofdrone at 11:42|PermalinkComments(0)バーチャリズム | Vtuber

(追記版)ヴァーチャリズム/バーチャリズム(Virtualism)における具体的定義とバーチャルYouTuberにおける「魂」の説明

 (2020/07/10追記)わかりやすいヴァーチャリズムの定義について記事を書きました

(2020/07/15追記)noteにてさらに分かりやすくヴァーチャリズムについて書きました。
こちらもどうぞ

 少々現実的、実際的な、当たり前なことを当たり前にあえて言うのであれば、ヴァーチャルYouTuberという活動を現象的に捉えるならば「現実における個人が、インターネット上でアバターを使用し、ヴァーチャルYouTuberというキャラクターとして振る舞う」行為であると言える。この事は現象的には否定しようのない事実であり、筆者の唱えるヴァーチャリズムという思想はその現象自体を否認し、何か代わりとなる空想的価値観を述べる思想ではないとはっきり断言しておく。
 前に書いた記事ヴァーチャルの可能性とヴァーチャリズム(Virtualism)の提唱では、確かに未来的な空想を書いたが、それはあくまで、究極的にヴァーチャリズムが実践可能である社会が実現される未来像を語ったものであり、ヴァーチャリズムという思想そのものは、極めて具体性を持った単語として定義したい。

 ヴァーチャリズムに置いて重要なのは「ヴァーチャルYouTuberとして振る舞う一つのキャラクター」という存在を重視し、その人格そのものの独立性を重視し、あえてそこに現実を持ち込む必要性を認めない思想であるともはっきり言っておく。言い換えるならば「現実とは違う世界において違った振る舞いをしているキャラクター(人格)」そのものの現実を前提としない独立を主張する思想であり、そこに一定の個別的な人間的実存性の価値を認める思想である。

ヴァーチャルYouTuberにおける「魂」と「キャラクター」


 Vtuber界隈においては、いわゆる「中の人」という存在をもともと遠ざける価値観が見られた。婉曲的に「中の人」を「魂」と表現し、ヴァーチャルYouTuberという存在は、アバターに「魂」が宿った存在として語られることもある。ヴァーチャリズム的な価値観においては、それは重要な捉え方であり、本質的なものを捉えた見た方であるともいえる。

 しかし一般的に「魂」の存在は不可分であり、そして不可分な「魂」がそれぞれが別々に振る舞うということに対してヴァーチャリズムにおいてはそれぞれの「人格的」独立性を認めるということは、少々矛盾のようなものがあるという考えを抱く人もいるのではないだろうか。それに答えるためには、ヴァーチャルYouTuberにおける「魂」と呼ばれる存在と、「キャラクター」の存在をより明確にしなければならない。

 ヴァーチャルYouTuberにおける「魂」とは何か。一般的な意味で言えば「魂」は個人が有する精神的な根源であり、英語で言えば「spirit」であり、「soul」であり「anima」である。しかしヴァーチャルYouTuberにおける「魂」とは、それ自体がヴァーチャル世界を通して見たヴァーチャルキャラクターに対する、ある種の説明付けであり、「アバター」という身体に「魂」が宿ることによって、人間的なヴァーチャルキャラクターの存在が成立するという見方である。厳格にヴァーチャリズム的な視点から見れば、ここにはやはり、「現実の人間性」が僅かであるが想定されていると言わざるを得ないのだが。

 そもそもなぜヴァーチャルYouTuberにおいてあえて「魂」の存在を説明付けなければならないのか? これはヴァーチャルYouTuberという新たなる形態のキャラクターに対する、従来的なアニメキャラクターであるとかのヴァーチャルキャラクターとは明確に異なる、リアルタイムで双方向的なコミュニケーション能力を有するキャラクターに対する説明でもあっただろう。ヴァーチャルYouTuberは魂を有するから、アバターを通して、リアルタイム性をもってコミュニケーションを図ることが出来る。これこそが、従来とは全く異なるヴァーチャルYouTuberというヴァーチャルキャラクターの特徴であり、「中の人」を遠ざけ婉曲的に表現することによる「魂」の説明はそれを上手く捉えた表現であると言えるであろう。ヴァーチャルYouTuberにおける「魂」とは、本来的な意味での「魂」という用法に加えて「キャラクター(人格)」という意味合いも含んでいるのである。

 「キャラクター(character)」という、本来的な単語の意味である「特徴」、「性質」そして「人格」という意味合いは、ヴァーチャルにおける存在と現実存在とを分け隔てる上で、うまく説明付けられている単語であると言えるだろう。そもそも普段から私達は場面ごとに「キャラクター」を使い分けて振る舞っている。それは現実におけるさまざまな場面でもあるし、今日においてインターネット上では匿名でさまざまな「キャラクター」を演じ分ける事もできる。そういう意味では、今日において私達は、インターネットを使用する上でヴァーチャル存在として振る舞っているとも言えるのだ。
 そしてこの「キャラクター(character)」という概念は、ヴァーチャルYouTuberにおける「魂」の概念をヴァーチャリズムに基づいて説明するのにも役立つ。「キャラクター」は可分的なもので、前述の通り個人がいくつもの「人格」を有するという事は可能だからである。
 いわゆるヴァーチャルYouTuberにおける便宜的な説明としての「魂」を、ヴァーチャリズム的な立場から「キャラクター」という単語を用いて「魂」を論じるならば、「魂」の「ヴァーチャルYouTuber人格」を「人格」として尊重し独立性を認めるということこそがヴァーチャリズムなのである。

ヴァーチャリズムにおける「魂」の定義


 ただ、厳密なバーチャリズムの立場からは既存のヴァーチャルYouTuber「魂」という便宜的な説明を全て肯定することは出来ない。なぜならば、前述の通り、「アバター」に「魂」が宿る事によって、ヴァーチャル・キャラクターが成立するということは、概ね十分な説明なのだが、その「魂」はどこからやってきたのか?という事を考えた時、それに対する疑問が浮かんでしまう。

 この事を回避するため、あくまで厳密なバーチャリズムの立場、画面に映る「その人」を「それ」として「そのまま」見るという考え方においては、少し発展させて、独自の「魂」概念を定義付けなければならない。
 ヴァーチャリズムにおけるヴァーチャル・キャラクターの「魂」とは、あくまで、私達が画面に映って配信を行っている「その人」が保有するであろう、どちらかと言えば、本来的な、一般的な意味での精神の根源としての「魂」である。
 さらに言えば「魂」は複数の独立した「キャラクター(人格)」を生み出す精神的な源泉であるという事は前述と変わらない。重要なのは「その人」が持つ「魂」は、ひょっとすればどこか他の場所では他の「キャラクター」を生み出しているかも知れない。
 だが、あくまでヴァーチャリズムにおいては、「そこにいる」、「その人」の「キャラクター(人格)」だけを見るべきなのである。なぜならヴァーチャリズムは、「ヴァーチャル・キャラクター(人格)」の振る舞いを、一つの独立した人格として、絶対的に尊重する思想だからである。
  一方、逆説的に言えば、ヴァーチャリズムの実存的な立場からは、そこに「キャラクター」が存在するならば、わざわざ「魂」の説明をすることは必ずしも必要ではない。なぜならば、「魂」があろうがなかろうが、そこに「その人」は存在するからである。「魂」の説明が必要であれば、上記のように定義するが、私達が普段人間を見る時にいちいちその人の「魂」がどうあるかなどと考えるだろうか? という事でもある。ヴァーチャリズムにおいてはあくまで「ヴァーチャル・キャラクター」は一人の、個別的な独立した「人格」であるのだから。
 



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voiceofdrone at 02:10|PermalinkComments(0)バーチャリズム | Vtuber

2020年07月14日

「萌え」の構造 ~「萌え」の対象物と感情内容~

萌えとはなにか?「萌え」感情の構造論


「萌え」とは俗語として現代に生まれた感情の表現方法である。
 Wikipediaの「萌え」の記事の定義を見る限り、
「対象物に対する”狭くて深い”好意」という意味を含み、それよりは浅くて同種の感情を表す「好き」という言葉を使うのにふさわしくない場合に用いられる。
とある。

 筆者が考える限り、上記の定義に則るならば、「萌え」とは、「かわいい」や「好き」と言った感情よりはより具体性を伴った、類型性が見いだせる感情であると考える。
 この記事では「萌え」を構造的に分析し、一定程度の定義付けを行うことを目指したい。


対象物:「キャラクター」に対する愛情としての「萌え」


 日を追う毎にますます広い対象物に用いられるようになった「萌え」という言葉に対して、筆者なりに考えたのは、「萌え」という言葉が用いられる対象は、何らかの「キャラクター性」を伴っているという事である。
 ここで、この記事における「キャラクター性」とは何かを定義しておかなければならない。「キャラクター性」とは、擬人化、デフォルメ化、アイドル化によって見いだされた「主観的(に見いだされる)人格像」であり、「客観的非実在人格像」とも言える。

 ここで「萌え」という言葉が使われる対象についてまとめてみる。一つに、アニメまたはゲーム等の創作物に対するキャラクターという「仮想的人格」である。これは分かりやすいであろう。つまり創作物の「主観的人格像」を対象としており、「キャラクター」が包括する要素に対して「萌え」という言葉が使われる。
 第二に、実在する人物、例えばアイドルなどに代表されるのだが、そういった存在に対しても、「萌え」という言葉が使われる事がある。実在する人物の「キャラクター性」とは、「客観的非実在人格像」である。いわば「半仮想的人格」である。つまり客観的に見れば、アイドルというのは、一種の「キャラクター」であり、一応断っておくならば、もちろんアイドルファンはアイドルの「キャラクター」を超えて、いわゆる「素の人格」をも愛する事はあるのだが、全体として総括すればそこには一定の客観的な被造的、仮想的人格である「キャラクター性」が含まれているのである。
 第三に、無機物に対する「○○萌え」という用法が挙げられる。代表的な例を上げるならば「工場萌え」である。これは一定程度の対象の擬人化と対象そのものが持つ本来的な特徴とが入り混じった形の「キャラクター性」であると考えられる。対象の持つ「機能美」と「主観的人格像」が入り混じった好意であるとして捉えると分かりやすいかも知れない。

 つまりそうした「キャラクター性」を帯びた存在に対して使われる感情の表現が「萌え」なのではないかということである。付け加えるならば、「萌え」という言葉を使う側も、一定程度の認識の上でその「キャラクター性」の仮想性、「主観的人格像」性を認めており、実在する人物のそのままの人格にたいして用いる好意である「好き」とか「愛」という感情とは、また違った形の感情であることを認めた上での表現が「萌え」だということである。

 さらに言えば、「萌え」の対象である「キャラクター性」とは一定程度「デフォルメ化」されている、という点も挙げられる。デフォルメとは、意図的にある部分が誇張、強調化、または簡略化する手法であるが、多くの場合、「キャラクター」とは何らかのテーマ性を持って、強調される部分と簡略化される部分がある。
 本来「人間の人格」とは、様々な相反する要素が並立し、時には矛盾すら見られる形で構成される複雑で分かりにくいものであるが「キャラクター」の場合は、その人格に一定程度の主題性をもたせ、強調すべき所を強調し、はっきりと分かりやすいものにするということがある。そういったデフォルメされた「キャラクター性」に対する感情表現に特有なのが「萌え」なのではないかという事である。

感情内容:疑似恋愛あるいは理想主義の体現


 さて、「萌え」という言葉が使われる対象についてまとめたところで、次は「萌え」という言葉に含まれる感情について考える。これは前述の対象物のように類型化することは難しい。「かわいい」とか「好き(likeである場合もあるが概してlove)」とかあるいは純粋な好意といった感情が様々に入り混じった感情であるからである。

 あえて特徴づけるとすれば、多くの場合対象物に対する「疑似恋愛(疑似関係)性」という特徴がある。つまり、「主観的人格」を認めた相手を恋愛または自己との関係対象に見立てて、「キャラクター性」故に無差別に振りまかれる好意を受け取って自身と対象を結びつける。つまり自分と対象物を何らかの形(純粋な好意関係、恋愛感情、あるいはエロティシズム)で結びつける、あるいは結びつけたいという感情を前提として、かつその行為を「愛している」というような直球の表現を避ける奥ゆかしさが含まれた言葉として「萌える」という表現が使われるのではないか、という事である。

 もしくは、対象物に対する理想主義的な憧れをも指すのではないか。「キャラクター」は「デフォルメ化」された人格として振る舞う。それは「デフォルメ」によってテーマ付けられた人格的一貫性による、普通の人間には見出すことの出来ない、あるいは見出すことが難しい理想的人格像、「理想の体現」、「憧れ」を感じさせるものであり、対象が非実在性を伴った「キャラクター性」を帯びている事によって成立する、理想主義に基づく崇敬感情なのではないかという事である。言い換えると、「デフォルメされたキャラクター性」とは人間の人格に求める理想主義の体現と言え、それに対する「非実在だからこその理想の体現」に対して、単なる「好き」や「愛する」を超えた「萌え」なのではないかという事である。



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