2020年07月18日

【カクヨム】落日の幻想帝国

 この度カクヨムにて『落日の幻想帝国』というお話を書きました。一万字ほどの短編で完結済みです。
 国が滅びるということはどういう事か、国とはなにか。そんなお話です。お暇があれば、是非どうぞ。



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voiceofdrone at 14:38|PermalinkComments(0)

【変な夢エッセイ】シュワちゃん刑事に逮捕され、「I'll be back!」、そして冤罪判明!なんじゃそりゃ!

  大変奇妙な夢を見た。
 大抵の場合、変な夢を見たと言ってそれを人に話しても、他人のとりとめのない夢の話などされてもナンノコッチャとあまりウケがよろしくない。
 しかしこの度筆者が、たった今見た夢はなかなかに複雑怪奇で、ツッコミどころ満載の面白さがあると思うので、書いてみる。

 夢の中。ショッピングモールの古書店を訪ねていた。すると、なんと我が敬愛する御大、H・P・ラヴクラフトの作品が載った本物のパルプ雑誌が置いてあるではないか。しかしお金がない。なので筆者は、どうやらそれを盗んだらしい。万引きである。らしいというのは、過程をすっ飛ばしていつの間にかそういう事になっていたからである。夢ってそういうものである。

 うーんなかなかリアリティのある犯行動機である。ラヴクラフトマニアの方にはその価値が分かると思うのだが、要するにマニア垂涎のものなのである。一応断っておくが、現実では筆者は天地神明に誓って、一度も盗みなど働いたことはない。

 続く、盗みを行った筆者は、いつの間にかシュワちゃん刑事に捕まっていた!なんじゃそりゃ!
 
 筋骨隆々、ターミネーター2の服装をしたシュワちゃん刑事に肩を組まれ、徒歩で警察署まで連行される筆者。警察署はなんだかとてもこじんまりとしていた。

 そしてこの夢一番の名シーンである。
 警察署の長い廊下を歩きながら、シュワちゃん刑事に肩を組まれた。シュワちゃん刑事は言った。「I'll be back!」筆者は答える。「戻ってきます!」
シュワちゃん刑事「I'll be back!」筆者「戻ってきます!」・・・「I'll be back!」「戻ってきます!」、
「I'll be back!」「戻ってきます!」というやり取りはいつまでも続き、筆者は泣きながら更生を誓うのであった。なんじゃそりゃ。

 ちなみに筆者の盗みというのはどうやら冤罪であったらしい。なんじゃそりゃ。



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voiceofdrone at 02:25|PermalinkComments(0)エッセイ 

2020年07月17日

【エッセイ】わざとやってんじゃないか・・・?論

 Twitterには実に色々な人がいる。個人の自己表現は自由であるし、また特に、精神的な問題を抱えている人のアカウントなどに、ぎょっとするような事が書いてあったとしても、筆者もうつ病患者として気分が落ち込むと、不安定になって心配をかけるようなツイートをしてしまうこともある。不安定な精神状態の時のツイートは、筆者自身後から見てちょっとぎょっとする。でもその時はそういう精神状態なのだから仕方がないのだ。そのあたりの理解は、一つの精神病を患っている筆者なりに少しは深いと思っている。だから、仕方がないことではあるのだが・・・

 先に断っておくと、精神病というものは、自分は型にはまっていない、世間一般から逸脱したという自覚があったとしても、あんちきしょう、憎いDSM-Ⅴ(「精神障害の診断と統計マニュアル」の事、Ⅴは第五版という意味)は、我々の苦しい苦しい思考から生み出された産物を枠に固めて、型にはめてあの病気です、この病気ですと診断してしまう。実際、ある程度病気としての類型性は見られるし、精神病という曖昧さを含むものを診断するにあたっては、型にはめて診断するというのは仕方がないのだが・・・

 少し話がそれるが、統合失調症の患者の妄想主題というものは、時代によって変遷している。大昔は「狐に憑かれた」、明治期になると「電気」になり、あるいはテレビが普及する時代になると「テレビ」「光線」などといった内容になり、現代では「電波」とか、あるいは「インターネット」「思考盗聴」とかになる訳だ。人間の想像力というものは、逸脱した精神状態にあっても、やっぱり底は知れているというか、やはりある程度の類型性と時代による「ブーム」がある訳である。

 そういう意味では、異口同音に皆「電波」を語ったとしても、決してわざとやってるわけじゃあない。精神病と言えども、あるいはただの病気である。人間を超えたり逸脱する訳ではない。そういう意味では、「人間」であることは変わらないとして、精神病患者の人権を擁護したいという立場にもなるのだが。

 それにしたって、キミ、わざとやってんじゃないか・・・?と思うような、そんな人もいらっしゃる。宇宙人にさらわれた、UFOがどうだ、電波が、思考犯罪が、ケムトレイルが、陰謀が・・・、キミ、それわざとやってんじゃないか・・・? 大変失礼ながらも、そういう事を思わざるを得ないこともある。
 精神病患者とまで行かなくても、陰謀論がお好きな方、気象兵器、人工地震、本人はきっと大真面目なのだろう。だけれども、客観的な視点から見ると、わざとやってんじゃないか・・・?とすら思ってしまうのだ。

 何も精神病患者だけではない。少々胡散臭い方々、情報商材を売りつけたり、やたらと元気で、師匠がいたり、何かに挫折してたり、まあ、みんなわざとやってんじゃないか・・・?ってくらい胡散臭い。

 Twitter歴の浅い筆者であるが、数多くのDMを頂いた。だいたい、フォローした直ぐ、あるいはこちらがフォローしなくとも、向こうから「フォローさせていただきました!」とDMがやってくる。お人好しなので、一応対応はするのだが、さてまあ、見てると面白いほどパターンが同じなのである。挨拶もほどほどに、ご趣味は?お仕事は?などと聞いて、そしてブログの状況を聞いて、「収益化」「アクセス数アップ」の話を持ち出してくる。ここであえて興味を見せる素振りをすると、何かのホームページやLINEのページやらを貼り付けて「さあどうぞ」と言うわけである。彼らがこのブログなど読んでるかはわからないが、一応断っておく。
言いたいことはわかってるよ、お断りします

 それにしても、あの胡散臭さ、本当に、わざとやってんじゃないか・・・?と疑いたくなるほどである。

 もっとも、人間はなかなか自分を客観視出来る生き物ではない。筆者自身だって、フォロワーのみなさんからはどう思われているのやらと、たまに心配になるが、このまえTwitterのアンケート機能を使った所、どうやら「普通の人」だったようである。果たして怪しい独自思想、独自考察を唱えているこの筆者がヤバい人じゃないのかという事は、筆者自身甚だ疑問なのだが、客観視すれば、まあ「普通」の範疇なのかも知れない。ただ、ある意味では、筆者自身、誰に「キミわざとやってんじゃないか・・・?」とか思われているかわからないと、自省しておく。

 


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voiceofdrone at 18:23|PermalinkComments(0)エッセイ 

2020年07月16日

【カクヨム】小説『お月さま』投稿

 以前「小説家になろう」にて投稿させていただいた小説『お月さま』をこのたび「カクヨム」にも投稿させていただきました。
 綺麗な綺麗なお月さまに魅入られた少女の、ちょっと怖いダークなお話です。3000文字ちょっとなので、お暇な際などにぜひどうぞ。


一応なろうの方のリンクも張っておきますが、内容は同じです。


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voiceofdrone at 23:44|PermalinkComments(0)小説 

【電脳少女シロ・ヤマトイオリ】「為」の構造論

シロちゃんの動画は「為」になるなあ!


言語現象としての「為」


 「為」とは何か。「為」はいかなる構造を持ち、なぜゆえに我々の心に届くのであろうか。我々はなぜゆえに「為」を「為」として認識できるのか。また「為」の背後には、いかなる意図が含まれているのか。


  「為」は単なる意味不明な言語ではない。 正確に言えば「為」とは意味不明ではなく、現象的な観点から言えば「意味不定」の言語なのである。この事は決してネガティブな意味ではない。そのことに関しては後述する。


 「為」が言語現象として成立する所以は、発信されると同時に、我々受信者が存在し、一定のやり取りを行うことが可能であるからである。付け加えれば受信者は「為」に目を背けない。「為」を「為」として受信するのは我々の感性であり、同時に理性が「為」を一定の形に変換する。この感性と理性の関係は筆者が考える「為」の構造論において重要なので、覚えておいて欲しい。
 さてここで重要なのは言語として発信と受信が行われるならば、「為」という現象は、確かな言語のやり取りなのである。


 しかし同時に、我々受信者は「為」を決して理性によっては完全な形に変換することは出来ない。なぜならば、「為」とは「為」として感性によって発信され、この記事では一つの例えとして、宝石の原石とカッティングという構図を用いて「為」を解釈するが、受信者である人間は完全ではないから、カッティングを完全に行うことは出来ない。しかし、その不完全さ、理性の至らなさゆえに「為」の奥深さは保たれ、それゆえ「為」の神秘性は依然としてそこにある。その「意味不定」さこそが、「為」の美しさであるとも言える。


 原石という言葉を使ったが、「為」を原石から磨き出す作業は、受信者に委ねられる。原石は加工し、磨かれることによってまばゆい光を発するものである。重要なのは、「加工」「研磨」の作業はこちらに委ねられているという事である。我々は、原石を各々の形にカッティングし、「為」は様々な形に変化し、それは光を放って我々の美の感受性を満足させるのである。これが、我々が「為」に魅せられる一つの要因であると考える。

 しかしここで一つ注意しておかなければならないのは、発信された段階で、「為」は一定の本質的な意味内容を持っているという事である。例えるならダイヤモンドはいかなる形の原石であろうが、本質的にはダイヤモンドであり、物質的には炭素結晶である。そのため、受信者のカッティングによって形は変化すれども「為」の本質は変化しない。同時に言えば、繰り返すが我々は「為」を理性としての脳の作用によっては完全な形としてカッティングし変換することは出来ない。
 詳しくは後述するが、カッティング行為を行うのは、我々の理性である。人間は理性の生き物であるが、残念ながら我々の理性とは不完全であり、なおかつでしゃばりな性格を持つ。この理性優先の構図こそが、人間の歴史においてしばしば悲劇を生むのである。だが、「為」はそれを救うのである。


発信者の「為」

 先に、発信者の「為」を筆者なりに解釈する。「為」の発信者は、電脳少女シロ、及びヤマトイオリに代表される。
 「為」の発信とはいかなる事であるか。「為」が「為」性を持っている所以は、その背後に存在する彼女らの美しい心の有り様に由来すると考えられる。なぜならば、「為」を発信することは容易ではない。ひとえに「為」は奥深い美の感性のために形成されると考えられる。そのため「為」は容易に真似ることは出来ない。感性による現象の美の捉え方と、一定の本質を兼ね備えた言語発信とは、まさに才能のなせる技であろう。


 「為」は言葉として、奥深く、複雑な構造を持った言語結晶であり、感性の巨大な原石である。さらに言えば、わざわざ理性によってそれは発信の段階で理性としての言語に整えられず、しばしば「為」は極度に省略された圧縮言語の様相を呈する。では発信者はいかなる意図を持ってそれを発するのか。

 「為」が発信されるためには、受信者の存在が必要である。つまり受信を前提に彼女らは「為」を発信する。そのことには、発信者と受信者の一定の信頼関係が根底にある。受信者としての我々が「為」の受信に深い満足を得るのは、このためである。

受信者の「為」


 宝石が稀有さによって価値が担保されるように「為」もまた、類稀なる言語センス、その希少性によって我々の「理性」を満足させる。しかしここで注意しておかなければならないのは、希少性や言語化して理解できる美しさという資本主義的価値観によって満足するのは、我々の感性ではなく「理性」である。我々は欲深い理性に支配されている。しかし「為」は「理性」を満足させるのと同時に、もっと純粋さを持った、「感性」をも満足させる。それがなぜゆえかは次に記述する。

 我々受信者における意識現象としての「為」、我々は「為」を解釈しようとする。しかし同時に「為」を「為」としてそのまま受け取っている。なぜなら、「為」が発信されるのと同時に、我々は考えるよりも先に「為」を感じ取っているからである。ここに「為」という意識現象の特殊性が見いだせる。「為」とは感性によって発信され、感性によって受信される。我々は為に目を背けず、疑問を持ちながらもまず「為」を受信するのは、我々が認識し得ない段階で、感性を満足させているからである。そして受信された「為」は理性が変換を行う。しかし、我々の理性は完全ではないから、この作業は完成しない。「為」においては理性よりも感性のほうが重要なのである。


 我々人間は、不完全な理性を信奉しがちであるが、人間の用いるものとしては、理性よりは、感性の方がより完全であると筆者は考える。だが、我々人間は理性の生き物であるから、受け取った現象を感性というショーケースに留めて、眺めていることは出来ない。必ずケースから取り出して、理性によってそれを加工しようとする。しかし理性は不完全であるから、この行為によって受信した現象の美を台無しにしてしまうのである。我々は無意識にそれを認識しつつも、理性のでしゃばりを抑制することは出来ない。すると我々は理性不信に陥る。近代における理性主義の悲劇と現代のその反省、しかし反省すらも理性によって行われるから、結局我々は理性主義から脱却することは出来ない。


 しかし、ここで「為」という言語現象によって救われるのである。「為」という感性の塊は、彼女らの確かな美の感性と本質的なものの捉え方に由来するから、受信者が理性によって加工しようとも、本質は失わない。同時に我々の感性に深く訴えかけ、我々は理性主義の過ちを認識すると同時に、自らの感性という受信装置の稀有さに感動するのである。
 「頭が為になる」と言われる現象は、我々が、理性の生き物から脱却し、感性主義とも言える新たな段階、あるいは動物本来の在り方に戻るという点で非常に重要な現象なのである。

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voiceofdrone at 13:42|PermalinkComments(0)Vtuber