2020年07月22日

予のない世の中 ~とある「予言者」の死に寄せて~

 今日の天気予報はまるで当たらなかった。アプリの天気予報は雨だと言い張っているが、空は晴れていた。天気予報は当てにならない。天気予報に限らない。予報、予測、予知、予言、みな「予」は外れることが多い。

 例えば昨今のコロナウイルス。ある日突然現れたウイルスが、世界中を混乱させ、私達の日常の在り方そのものを変えてしまうなどと一体誰が予想できただろうか。あるいは、曖昧な「大変動」あるいは、「世界の終わり」を唱える人にとっては、これこそが予言の的中だと言い張るかも知れないが、予言はいつだって曖昧で、少なくとも「ウイルス」が、そして「いつ」といった事を言うことが出来た予言などあるのかという疑問とともに、筆者が思うのは、恐らくコロナで世界は終わらない。大打撃、大変動こそ経験するだろうが、世界はそう簡単に終わらない。そういう意味では、やはり未来を予知できた人間などいなかった。

 先日とある「予言者」が亡くなった。その人の名は「五島勉」である。著書『ノストラダムスの大予言』にて、「1999年7月」に人類が滅亡するという解釈を行った人物だ。さてここで、五島勉氏は「解釈者」であって、「予言者」ではないのでは?と思われるかも知れないが、私的な意見を述べると、ノストラダムス当の人は「世紀末の滅亡」などとは、恐らくだが言っていない。

 筆者がノストラダムスという人を知る限りでは、彼は献身的な医者で、作家で、そして確かに予言者である。けれども、彼が生きた中世という時代においては、占星術が学問として扱われ、未来を予知する事はきっと普通の範疇であった。なお、彼の予言というのは、中世フランスの当時をして「曖昧すぎて何を言っているのかわからない」と言われたようなものである。個人的な印象としては、ノストラダムスという人は、当時流行したペストと戦い、予言書や医療書によって地位をなしたベストセラー作家、けれどもきっと普通の範疇に収まる、良い人であった。
 そのノストラダムスを、「世紀末の滅亡の予言者」と捉え、解釈として発表し、オカルトブームの火付け役となった「ノストラダムス時代」を現代に作り上げたのは五島勉その人である。そういう意味では、筆者は彼こそ「世紀末の予言者」であったと考える。

 五島勉の『ノストラダムスの大予言』の影響が実際の社会にて如何ほどのものだったかは、1999年当時物心がついたかついていないか曖昧であった時分の筆者には真には分かりかねる。あるいは、「ノストラダムス時代」以降に生まれた、もしくは物心ついた世代にとっては、生きている現在、予言は当たっていないのだから、なんて馬鹿馬鹿しいこともあったのだと、そう思うかも知れない。

 しかし筆者は筆者なりに想像する限り、そうは思わない。世紀末、西暦の長いミレニアルが終わり、2000年がやって来る。「だけれども、本当にそうだろうか?」という不安もあったのではないだろうか。それまでの時代を筆者なりに想像するにあたって、かつては西暦というのは1000の代というのが当たり前で、まさか2000年がやって来るとは、分かってはいるけど、分からないというのが感覚としてあったのではないか。筆者の想像する限り、そんなミレニアルの終わりという感覚は、もう1000年経って3000年になってみないとわからないだろう。そんな歴史の節目であった。
 2000年など、それ以前の多くの漫画やアニメにおいて、遠い未来の話で、それが実際にやってこようとはという感情。ちょうど五島勉氏が火付け役となった「オカルトブーム」においても、この世にないもの、わからないもの、そんな物が取り沙汰され、ある種の世情不安を呼んだ。
 そんな不安の一例が、コンピュータにおける「2000年問題」などにも現れたのだろう。そしてそこに、ちょうど1999年で人類は滅亡するという「予言」があった。それは、一定の真実味があったのではないだろうか。歴史の節目、2000年。冷戦も終結し、太平無事になったように思われる世の中。しかし、2000年、2000年である。人類の歴史の中で、紀元後たった二回しかない1000の節目。末法思想にも近い。そんな特別な歴史の節目に何かがあると、思った、思いたかった人も多かったのではないか。
 付け加えれば、当時はまだまだインターネットというものは普及しておらず、テレビや本といったメディアの力は今よりもずっと強かった。そんなメディアが、視聴率のため、あるいは面白がって、こぞって「大予言」を取り上げる日々。世情不安定な1990年代。そして迫る1999年。多かれ少なかれ、不安はあっただろう。

 Twitterの大槻ケンヂ氏のツイートにて、氏は「1999年7月にて、人類は滅亡する言う前提で、少年時代を生きてきた」、「結局(1999年には)滅亡しなかった、以降ははおまけの人生を生きているボンヤリ感が今もある」というツイートを見て、改めて考えさせられた。

 かつて確かに「ノストラダムス時代」はあったのだ。「1999年の終末」を信じて、どうせ滅亡するのだからと、財産を使い果たしてしまった人という話も聞いたことがある。そこまで極端に行かずとも、当時の日本人の多くは、なんとなくぼんやりと「終わるかもしれない」あるいは「終わらずとも何らかの節目」として捉えていたのではないだろうか。そして、終わらなかった今、「ノストラダムス時代」を生きた人間にとって、やはりぼんやりと「1999年7月」は節目として、人生を指し図る一つの基点として、記憶にあるのではないだろうか。

 2012年にも、「マヤ文明の予言」として、世界の終末が予言されたという騒動があった。結局それも外れたのだが、1999年の「大予言」への熱意は、2012年の比ではなかっただろう。
 日本人の多くが「終末」の存在を、程度の差はあれども想った。それは一体どんな気持ちでどんな時代だったのだろうか。筆者には、やはり真には分からないけれども、そういう時代があったという事を、真剣に考えてみたい。そんな事を思った。

 今日も空は晴れている。予報は外れた。世界は終わらない。予言は外れた。だが、しかしいつかは?
 明日のことは、良くも悪くも、人間には分からないのである。


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voiceofdrone at 14:15|PermalinkComments(0)エッセイ 

【2020年7月版】「Voice of Drone」おすすめ記事特集

 硬めの考察から柔めのエッセイまで、非常に雑多にやっているこのブログ。初めていらっしゃった方は、主にタグクラウドの雑多さなどに困惑してしまうのではないか。
 そこで、ぜひ読んでいただきたい個人的おすすめ記事を特集した。気になる記事があったら是非どうぞ。

もくじ
●アニメ論
●バーチャルYouTuber・ヴァーチャリズム
●レビュー記事
●考察
●うつ病・精神
●エッセイ
シリーズ「最果ての土地」紹介
●小説
●おもしろサイト紹介

アニメ論



・サブカルチャーにおける「セカイ系」とは何か?という考察記事。上の記事では、「セカイ系」の私的定義と構造論、そして下の記事では「セカイ系」が流行した背景について考察する。


・「エンドレスエイト」という壮大な実験。筆者が全8回の「エンドレスエイト」をぶっ通して見た事が無駄でなかったことの証のために!あえて述べたかった!「エンドレスエイト」肯定論を!


・昨今のメディアコンテンツの「大量生産大量消費」という構造を考えた上で、なぜ日常系アニメは安定した需要があるのだろうか?そんな事を考察した記事。



・私的「なろう系」考察記事。否定的に捉えられることも多い「なろう系」作品に顕著な「異世界転生」、「チート」を、客観的視点から、それらが流行した社会背景や物語の構造そのものについて考えた記事。

バーチャルYouTuber・ヴァーチャリズム


・筆者「のらくら」が提唱するバーチャルYouTuberに関する独自思想「バーチャリズム」。一言で言えば「バーチャル至上主義」。その分かりやすい解説。


・久々に「電脳少女シロ」ことシロちゃんの動画を見返して、頭が為になった筆者が書いた怪文書。Vtuberに関してわからない人には全くわからないし、わかる人にも全くわからないであろう謎の記事。

レビュー記事


・筆者の人生に最も影響した小説『NHKにようこそ!』を愛を込めてレビュー。なぜこの小説は名作なのか?ということについても考察した。作者の滝本竜彦先生からもご好評を頂けた自信作レビュー。


・アメリカン・ニューシネマの金字塔「イージー・ライダー」は放映当時のアメリカ人にとって一体何が衝撃的だったのか?という事を考察した映画レビュー。「イージー・ライダー」を見たけどよく分からなかったという方は是非どうぞ。


・同じくアメリカン・ニューシネマに分類される「タクシー・ドライバー」を考察を交えつつその魅力をレビュー。刺さる人にはものすごく刺さり、刺さらない人には全く刺さらないこの映画、なぜそんな違いが出るのかという事についての私的考察。


・東方Project大好きな筆者が、そのなかでもトップクラスにお気に入りなアルバム「蓬莱人形」の魅力を徹底解説。一曲ごとに曲のイメージをレビュー。


・ジョン・レノンの名曲「イマジン」は単なる夢想主義、理想主義の曲なのか?という記事。結論を言えば、非常に現実的な側面も持ち合わせた曲なのだ。

考察


・インターネットの歴史をマルキシズム「唯物史観」と「発展段階論」から捉えた一考察。なお、筆者はマルキシズムについては素人なので、あくまでマルキシズム的な何かという事で。


・「普遍性」を伴った作品は再評価される。そのなかでも「社会的普遍性」はしばしば忘却され再発見される。「普遍性」を三つに大別し、そのなかでも「社会的普遍性」の重要性を考えた。わかりにくいかもしれないが、個人的には良く書けた記事だと思っている。


・「反出生主義」という思想に対して、純粋に不完全ではないかと感じた点を指摘した記事。なお筆者は積極的にこの思想を肯定する立場でも否定する立場でもない。正直に言うと「反論が難しい」と言われる「反出生主義』に対して好奇心から異論反論を唱えてみたかった。

うつ病・精神


・うつ病患者である筆者が筆者なりに考えたうつ病療養法。モヤモヤとした考えを文に起こすことの重要性を解説。


・うつ病は何が辛く苦しいのか?何が厄介なのか?そんな事を、当事者である筆者が筆者なりに考えて解説した記事。うつ病をよく知らない方にこそ読んでもらいたい記事。


・最近ではすっかり意味が独り歩きし、気軽に使われる「サイコパス」という言葉。実は精神医学においては「サイコパス」という言葉には暗い歴史があるのだ。今だからこそ知っておいて欲しい知識。

エッセイ
・硬めから柔めまで、いろんな事を書いたエッセイ集。エッセイに関しては解説するものでもないと思うので、タイトルを見て気になったものをどうぞ。








シリーズ「最果ての土地」紹介
・僻地マニアの筆者が、最果ての土地の歴史や現在などを解説するシリーズ。世界地図で見る最果ての土地。そこには何があるのか気になる方も多いのではないか。そんな疑問に答えられればと思い書いたシリーズ。


小説
筆者の書いた小説。短編なので、興味があったら、お暇な際などにどうぞ。


おもしろサイト紹介

私的おすすめサイトを紹介したカテゴリー。





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2020年07月21日

【エッセイ】ど~でもい~であろう筆者の小説裏舞台話/ブンガク的な性癖ぶっちゃけ話

この記事では筆者のネットに投稿した作品のネタバレが含まれています。一応ご注意を。あと筆者の小説を呼んだ上で読むとより面白いかも知れません。(宣伝)


 
 筆者はいくつか小説を書いている。発表していない作品、ネットではない場所で発表した作品、ネットで発表した作品、全部合わせても十とちょっとほどで、何らかの実績があるわけでもないのだが、まあアマチュア小説家の端くれの端くれくらいは名乗っても良いんじゃないかと思っている。

 最近はカクヨムにて『落日の幻想帝国』というお話を書いた。とある帝国が滅びる時に、人は何を思うのか、国が滅びるということは、国とはなにか的なテーマで書いたお話である。今読み返すと、いささかテーマにこだわるあまり、小説としてのまとまりが薄くなってしまったような感もあるのだが、ともかく完結させることが出来て良かった。

 さてここからが本題のようなものなのだが、題して「恐らく多くの人にとってど~でもい~であろう筆者小説の裏舞台」である。要するに小説を書く筆者は何を考えて小説を書いていたりするのかという事を、裏舞台として暴露してみたい。

 まず筆者の小説、プロット段階では必ずと言っていいほど人が死ぬ。特に主人公が死ぬ。なんでだろう。筆者にもわからない。筆者自身構想を練る時「人が死ぬ話しか書けんのかおどれは!?」と自身にツッコミを入れたくなるほどである。

 例えば最新の作品である『落日の幻想帝国』、主人公はだいたい20代前半あたりの女性をイメージしていたのだが、プロット段階では筆者は思った。帝国の滅亡という設定、そして若い女主人公。これはもう最後は主人公を火の中に放り込んで自死させなければならぬ!と(何故?)。
 幸いなことに、主人公は書いている内に筆者の気が変わった、あるいは物語の都合上で、死ななくても良いことになった。めでたしめでたしというエンディングではないのだが、ちょっとだけスッキリする希望がある終わり方にになった(なってしまった)。そして未だにどうにかして火の中に投げ込みたかったという危ない未練もないではない。だってさあ、うら若き乙女が帝国の滅亡とともに自ら火に飛び込むってそれもう芸術でしょう・・・。どうにかして実現させたかった。いずれ懲りずに何処かで使い回すかも知れない。

 その前に書いた『お月さま』の女主人公(十五の少女)は、ズバリ死なせるつもりで書き、実際死んだ。しかもラストシーンは同じく十五歳の少女の死体の山が発見されるというオチである。なんだか筆者は今まで書いた小説、プロット段階では「かしら言葉」を使うような乙女な女の子が主人公で、しかも最後にそれを死なせるというのだから、筆者は何だ、危ない猟奇趣味者か何かなのかと思ってしまう。

 しかし筆者は思うのである。うら若き儚い乙女がなんだかんだあって死ぬ。これはもう文学であると!

 やっぱり危ねえやつだな!と思われないように断っておくが、文学作品にも実際そういう作品は多いし、大体文豪と呼ばれる方々は、失礼を承知で言うと大体変態である。だから筆者も立派な小説家を目指して性癖をさらけ出すのである。あーこれは仕方ないことだ。

 なお、どうして筆者が「うら若き乙女」にこだわるのかというと、もちろん真面目な性癖上の問題もあるのだが、「うら若き乙女」は筆者自身に対して恐らく人間という存在の中で対極に位置するであろう存在だからである。おなじ人間という存在でありながら、対極の遠い場所にあり、だからこそ筆者にとって一定の神秘性をもって輝いている。つまり美しい存在であり、美しい存在だからこそ、蝶のように舞い、美しさを振りまいて、そして死んでほしいのである。滅びの美学である。これは文学的な真面目な話である。

 一応断っておくと、無論筆者は現実で人を傷つけるつもりは一切ない。小説であるから、あるいは小説だからこそ、自らが作り上げる世界の中で、性癖を発揮したいのである。
 付け加えれば筆者は人を傷つけたいというよりは、むしろ「うら若き乙女」側に自己投影したある種のマゾヒズムをも含んだオートガイネフィリアとオートアサシノフィリアが入り混じりった性的興奮というよりは精神的満足感、充実感を得る性癖が・・・これ以上書くと流石にドン引きでは済まされ無さそうなので止めておく。

 なんだか途中から暴走して筆者の性癖暴露になってしまって恥ずかしい限りであるが、あえて隠すこと無くそれを記事にしたい。
 というのもかつて確か三島由紀夫が、「小説家というのはみな精神的露出狂である」というようなことを言っていたが、実際面白いと思われるような作品を書くには、やはり作者の精神的な性癖なりをありありと見せつけないとならないのではないかと、小説家の端くれの端くれの筆者としても思うところである。だから『お月さま』書いている時にちょっと興奮してましたとかぶっちゃけても、それは小説家として問題ないのである(人間的には大いにあるよ)。


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voiceofdrone at 07:20|PermalinkComments(0)エッセイ | 小説

2020年07月20日

反出生主義に対するいくつかの異論・反論

反出生主義に対する私的疑問、異論、反論

 

初めに・いくつかの前提


 この記事では、一つの哲学的立場である、「反出生主義」に対する異論反論を唱えたい。


 なおこの記事では、生物の存在以前、及び存在以後の「無」、つまり生前と生後は「無」であるという認識は、反出生主義の立場と一致させた上で考える。

 つまり、なんらかの宗教的な立場、主張を用いて反出生主義に対する異論、反論を行うものではないとはっきり断っておく。もっとも存在以前、存在以後ははたして「無」なのかという事も証明不可能なのではあるのだが、ここではそれを一つの前提とした上で、反出生主義への異論、反論を唱えたい。


 また、もう一つ初めに前提として断っておかなければならないのは、人間は人間として、あるいは動物として存在する以上、「感情論」を排して考えることは出来ないという事である。

 何故ならば、私達が生きるにあたっての「合理的」指標とは、常に快と不快という原則に支えられているのであり、言うなればそれそのものが「感情」であるからである。ある意味では、存在の快・不快という原則を用いた立場である反出生主義もまた一種の「感情論」であるし、それに対する反論もまた、人間が人間として持つ「感情」を全く廃して議論を行うことは、不可能であるし、不毛であるし、意味がないと考える。

 したがって、「感情論」といういささか定義に困る曖昧な言葉を全く排して、人間が思考をすることは出来ないと、まず前提として述べておく。

 

反出生主義とは何か 


 極めて概略すれば、哲学的立場、道義的、倫理的立場から、人間が子供を出生させることに対する否定の論理である。生まれてくる子供が、経験するかも知れない苦痛を考えれば、道徳的に出生を行うべきではないという主張を掲げる。


 反出生主義の基礎の一つとして、「負の功利主義」、つまり一般的な正の功利主義における「最大多数の最大幸福」の原則とは真逆の「最小少数の最小苦痛」とでも言い表すべきな、快原則の真逆である、不快、苦痛を最小限、出来るならばゼロにするべきであるという立場が挙げられる。

 これを突き詰めて考えれば、人間が存在する以上苦痛はつきまとうのだから、人間は存在するより存在しないほうが良いという事になる。


 代表的反出生主義者であるヘルマン・ヴェターは、「人間は生まれてこないほうが良い」とする上で、基本的非対称性の原理を挙げている。「有に対する無」の存在的非対称性・優越性である。概略すれば、無という非存在の、有である存在に対する非対称性、存在しないことによる無の有に対する優越性というものを結論付けている。

  

異論:反出生主義という、「理性優越主義」への異論

 
 反出生主義は、理性優越主義的な思想である。

 ここで筆者が使う理性優越主義とは、人間の動物としての欲求を理性が克服する、あるいは欲求を理性によって飼いならす、あるいはそうすべきであるという考えであると定義しておく。


反出生主義においては、人間の出生という生物的本能を理性によって制限すべきであるという立場であり、人間が動物として持つ本来的な欲求に対する理性優越主義であると筆者は捉えた。


 このような理性優越、あるいは理性絶対主義的な考えは、産業革命、科学革命が起きた近代という時代を支え、発展させてきた。しかし、そのような理性の完全性の信奉、ひいては理性による完全な社会の実現可能という考えが、いくつかの全体主義的な思想を生み出した一つの要因であるという事を忘れてはならない。無論、そのような理性主義の全ての負の側面を反出生主義に適応し、それを反出生主義への反論とすることは、いささか言いがかりめいているため、適切とは言い難いが。


だが、理性優越主義的な考えにおける、人間が動物的存在を超えた理性の生き物であるという考えに対しては、筆者は同意しかねるという立場はまずはっきりさせておきたい。


つまり、この記事の反論の全ての前提ともなるが、まず人間は動物なのである。けれども、人間は確かに理性を持ち合わせた存在でもあるから、その事実を無視することは出来ないのだが、しかし、筆者の立場としては、人間は本質的には感情が理性に先立ち、言い換えるならば、理性によって感情を飼いならしている動物ではなく、実のところ理性とは感情によって飼いならされているのではないかという疑問を呈したい。つまり、本能に関わる本質的な欲求に関わる事項を人間という動物は克服する事は出来ないという事である。

 

異論:「有」存在による「負の功利主義」の実践不可能性


 我々は既に存在している。人間として、動物として、存在している以上は快・不快原則に支配される。
 苦痛を最小限にする、あるいはゼロにするという負の功利主義の実践は、欲求として快を目指す事を主にして存在する我々にとっては難しい。いうなれば、すでに存在している我々は、苦痛を最小限にするという負の功利主義よりも、一般的な功利主義、つまり正の功利主義を目指したほうが原理的に容易いという事である。

言い換えれば負の功利主義とはある種、理性的な立場であるのに対して、正の功利主義とは自然的に欲求に従順な感情的立場であるとも言えるのではないか。

 

反論:「無に対する有」の存在的優越性


  我々は生まれて、存在している。我々はすでに存在している。特にこのことを無視する事は出来ないと筆者は考える。


まず結論として筆者の立場を述べるのであれば、ヘルマン・ヴェターの「有に対する無」の優越性とはある種真逆の論理ではあるが、既に「有」として存在しているということは、非存在である「無」に対する、ある意味での一定の優越性があると筆者は考える。


無から無は生成されないが、有によって無から有は生成される。そして無は欲求を持たないが、有は欲求を持つのである。無を有にすることに対する道徳的な疑問を問うならば、有が有として持つ本来的な欲求を否定することに対する道徳的な疑問も問わなければならない。


我々は既に存在していて、存在する以上は、存在につきまとう制約、動物であるならば、動物として存在する以上は、否応なしに快・不快原則に支配され、その一環として快を目指して、欲求を満たすという行為がある。その欲求の一環として生殖行為がある訳だが、この事は、人間が人間として、あるいは動物として存在する上で免れることの出来ないジレンマのようなものであると考える。それを全く、道徳的に否定することが出来るのかという疑問である。果たして幸か不幸か我々は存在している。動物として存在している以上は、動物という存在のジレンマからは逃れられない。


たとえそれが、存在してしまっている動物が子をなして更に苦痛を繰り返す行為であるとしても、それはこの世界に生物が誕生した時点以来からの生物が生物学的に生物であるゆえの定めのようなものなのであると考える。そして、そのことに対して、人間という動物が生物的本能を理性によって克服し、いわば反出生主義における種族的自殺を行うという試みは、先の人間における理性と感情欲求との関係を前提にすれば、やはり不可能であると言わざるを得ないと筆者は考える。

 

反論:既存の人間のエゴイズムの尊重


 筆者の考える反出生主義への反論の一つに、既存在である、「今生きている人間のエゴイズムを尊重すべきである」という論理がある。

 (反出生主義的に言うのであれば)「既に存在してしまっている」人間のエゴイズムを否定することは出来ないと筆者は考える。

これは若干前述した事とも重なるのだが、まずこの文を読んでいる、我々人間は既に存在していて、生きていて、欲求を有する。その欲求は、道徳的に尊重されなければならない。


 確かに我々は、これから生まれてくる子供たちに対する全人生の保証はしかねるというか、出来ない。しかし、我々は存在して、欲求を有している。愛情に代表される感情、必要性、あるいは快楽として、子をなすという行為は、我々のような存在する「有」にとっての正の功利主義であり、幸福(快楽)を追求する行為なのである。繰り返すようであるが、無に対する道徳的尊重を行うならば、既に存在している有に対する尊重も行わなければならないと考える。

ここで一つ問わなければならないのは、反出生主義においては、子をなして、存在させ、苦痛を伴う人生に投げ込むことに対する道徳的な疑問が提唱されているのであるが、筆者としては、果たして、我々動物としての人間が純粋な本能によって行う行為に道徳的善悪を問うことは出来るのかという疑問を、質問を返すようであるが、問いたい。


子をなすことが出来る最小数の二人の男女がこの世界に「すでに存在」しているのであれば、彼らが望む事として子をなすという行為に対してそれを彼らが望んだらならば、それに否を突きつけることはできるのだろうか。出来ないと筆者は考える。なぜならば、彼らは存在しているからである。彼らが望む行為として、子をなすという自由意志を否定することは、道徳的にできないと考える。

 

終わりに


 以上が筆者の考える反出生主義に対する異論、反論である。筆者としては、あえて人生は素晴らしいものであるとか、あるいは苦痛を伴うものであるとか、反出生主義は良いか悪いかとか、そういったことに対する議論は控えた。

 ただ単純に、反出生主義という思想そのものがもつ不完全性のようなものを問いたかったのである。

 無論これらの異論反論に対するさらに異論反論もあるだろう。そのような意見はぜひコメント欄などでレスポンスしていただけると幸いである。




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voiceofdrone at 16:56|PermalinkComments(8)考察 

2020年07月19日

ある人の死に際して。「死」について。感情の整理。

 この記事は、やや不安定になっていた自分の感情を整理するためのものである。誰に見てもらおうというつもりもない。ただ今の自分にとっての感情の表現手段が、このブログくらいしか無いので、ここに記すまでである。雑記極まる、感情の吐露である。おそらく追悼というものでは無いと思う。筆者なりに「死」を感じて、恐ろしくなったので、それを整理したいと想う。そんな記事である。

 筆者には「死」というものが分からない。死、死、死。これからも分かることはないだろう。分かってしまう時は、それは死ぬ時のような気がする。

 昨日ある人が亡くなった。自殺である。そのニュース自体について多くは語らない、語れない。というのも、筆者は世情に非常に疎く、その人のことを存じなかったからだ。名前も初めて聞いた。
 ただ、人が亡くなった。それも自殺と言う手段によって。それは、素直な気持ちとして、悲しいことだった。それと同時に、恐ろしくなった。わからなくなった。不安定になった。
 殊に自殺である。死というものは本人にとっても予期せざるものである。ただ本人にとって予期し得る死というのが、自殺である。自殺の背後には、とても本人にしか知り得ない、深い苦しみと悲しみがあったことだろう。
 正直、筆者自身、そのある人の自殺というニュースを耳にして、死というものに少し引っ張られた。それは無論その人のせいではない。死というものそのものが持つ威力ゆえである。

 筆者自身、うつ病によって死というものを考えたことが無いと言ったら嘘になるから、自殺という気持ちはどこか、薄っすらとだが、察しのようなものが付くところである。自殺というのは、とても生半な気持ちで選べる選択肢ではない。あくまで死という物を選ぶ、「きっかけ」そのものは単純に聞こえるかも知れない。だがその背後には、深い深い感情と理性のせめぎ合いと、誰にもわからない、常人が背負うには重すぎる苦しみの塊をいくつも背負っていて、ひどく辛いことがあったというのは、確かである。

 理屈抜きに、人の死を知るという事は、悲しいことである。ここで重要なのは、「知る」という事である。知らない死、今日も日本中、世界中の何処かで、この瞬間にも誰かが亡くなっている。それを筆者がいちいち認識して、思って、悲しんでいるのか?と問われれば、それは嘘になる。だがそれは誰にとってもそうだろうし、それは仕方がないことなのである。
 いつだったかどこかで書いたと思うが、人はみな、多かれ少なかれ範囲の決まった「近視眼的世界」に生きている。知らないことは認識できないし、つねに「全世界」を意識して、生きている人間などおそらくいない。人は無意識に人に役割と順位をつけて考えている。それは悪いことではない。生きていくための、必要な行為だ。
  ただ、筆者のように精神薄弱な人間は、なにかの形で「死」という事を耳にした時、その瞬間になって、認識しなかった全世界の「死」に、ものすごい申し訳無さを感じるのである。そして、「死」というなにかに、引っ張られるような気持ちがして、それが恐ろしくなる。

 すこし私的な話をする。死というものは、普段はどこか曖昧な、宙に浮いたものである。けれども誰かの「死」を知った時、それは突然、形を伴って、降りかかる。
 もうだいぶ前のことになるが、筆者の祖母が亡くなった事があった。死に目に立ち会えた。祖母の意識は殆どなかった。そして生が終わり、死があったということも、医療機器のピープ音と、医者の「ご臨終です」という言葉がなければ、分からなかった。けれども、目の前の「死」を認識した瞬間、その病室に「死」が立ち込めて、「死」の匂いがして、目の前で一つの「死」があったことが、心の中にすごく染み込んだ。
 だけれども、「死」とは何か。一人の人間の死に際に直接立ち会っても、少しも分からなかった。うつ病で死を考えて、死というものに精神的に瀕した時も、「死」というものの正体はわからなかった。

 そして今回のニュースでも、「死」があった。Twitterを始めてから、恐らく初めて立ち会う「死」のニュースである。拡散してタイムラインに流れていく、人々の感情の吐露の中で、わからない「死」の匂いが、筆者の心の中に立ち込めるようだった。それは恐ろしいことだった。わからないのに、わからないままに、「死」がある。

 人間にとって一番の恐怖は、「わからない」という事である。「わからない」事をわからないままにするのが、人間にとって一番の恐怖だから、何かいろいろな形で人間は「死」に説明をつけようとした。そして、それを信じようとした。理屈にしたかったのである。けれども、筆者の考える所では、やはり「死」は「死」であって、人間は、「死」を肉体的にも精神的にも克服することはきっと出来ない。
 「死」の瞬間とはなにか。眠る瞬間のようなものなのだろうか。それとも、その瞬間の断絶の直前に認識しうるものは、とても恐ろしい何かなのか。何がやって来るのだろうか。断絶なのか、永遠なのか、その後があるのか、無いのか、やはりわからない。

 メメント・モリという言葉がある。「死を想え」とう言う意味である。想う。わかる必要はない。ただ、「死」を想う。そうすべきだという言葉である。心の中に「死」を留めておいて、「死」に備える。「死」に向き合う。ただそれも、一歩間違えれば、「死」を「考える」事になって、考え始めればわからなくなって、恐ろしくなるのではないかと思う。

 人は「死」を克服することは出来ない。感情とか、理屈とか、形にして、いろいろな方法で整理をつける。そして忘れる。覚えつつ忘れる。正確には「死」というものを、忘れる。忘れるように出来ている。そうでなければ、恐ろしくなるからだ。
 ただ、忘れるということは、悲しい。筆者として、この感情が、考えが、何処かへ行ってしまうというのは、悲しい。
 メメント・モリ、あえて、ブログに記事に残すことで、形にすることで、筆者なりに死を想いたい。


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voiceofdrone at 02:06|PermalinkComments(0)